優しい光に想いを込めて・2



本番さながらに照明が灯されるステージに佇む香穂子が、固まりながらヴァイオリンを握り締めている。客席の電気は落ちているが、ステージから眺める客席の広さや、ステージの大きさに戸惑っているのだろうか。胸に手を当て高鳴る鼓動を押さえてみたり、きょろきょろと周囲に視線を巡らせたりで落ち着きがない。良い演奏が出来るかと、張り詰めた緊張やプレッシャーをはね除けようと自分なりに必死なのが伝わってくる。

俺がここにいる、君の傍に。
香穂子・・・と名前を呼んで微笑みかければ、ほっと安堵に緩んだ表情を浮かべてくれた。


この演奏が終われば、香穂子は早々に俺と過ごす休暇を終えて帰国してしまう。時間の許す限り共に過ごせる今は貴重な時間だから・・・君と重ねた音色に想いを乗せて、心へ深く刻み込みたい。また暫くの間は海を離れてしまうけれども、俺を想いながら君がヴァイオリンを奏でた時に、奏でた音色とこのひとときが熱く疼いて蘇るように。君が好きだという言葉を、ヴァイオリンの調べと瞳に変えて、何度も耳元に囁こう。


「蓮くん、どうしよう。舞台で演奏するのは初めてじゃないのに、どのコンクールよりも凄く緊張しているの」
「緊張にも良い物と悪い物があるが、洗練された意味での良い緊張は、演奏者と聴衆の間には欠かせないものだ。演奏家は、緊張していなければ良い演奏が出来ない。心を落ち着かせながらも緊張を保ち続ける余裕が失われれば、聴衆の関心も失われてしまうし、自分自身に真実を語っていない事になる」
「緊張やプレッシャーも全部取り込んで、自分の音楽にしちゃう蓮くんは凄いね、私も頑張らなくちゃ。緊張もお友達にして、良い演奏がしたいな。でもね、ドキドキして心臓が飛び出しちゃいそうなの」
「心と身体を落ち着けるには、ゆっくりと腹式呼吸をするといい。緊張した状態にあるとき、呼吸は肺の浅い部分だけで行われる。そのため酸素をきちんと取り入れることが出来なくなり、鼓動が早まるそうだ」
「深呼吸だね。うん、やってみる。大きく息を吸って〜吐いて・・・と」


瞳を閉じて大きく息を吸うと、周りの空気に自分を溶けこませるようにゆっくり吐いてゆく。何度か深呼吸をした後に再び瞳を開けると、だいぶ落ち着いたよと笑顔を綻ばせていた。自信と不安の間で揺れる気持ちを、静めることが出来たようだな。君から見たら冷静に見えるのだろうが、共にステージに立てる・・・ひとときの夢が叶う嬉しさに、俺だっていつもと違う興奮や緊張に包まれているんだ。

俺も緊張していると、そう言ったら香穂子が珍しそうに目を丸くして、ふわりと頬を綻ばせながら懐へ駆け寄ってくる。だが、嬉しそうな君の笑顔と音色が、俺に力をくれるのだと、気づいているだろうか? 
内緒話のようにちょっぴり背伸びをした口元へ顔を寄せれば、鼻先が触れそうな近さで甘い吐息がくすぐった。


「でもね、演奏前の緊張もあるけれど、それだけじゃないの。蓮くんと一緒に演奏出来るのが嬉しくて楽しみで、ワクワクしているんだよ」
「俺も、楽しみだ。どうか俺だけを見て、感じてくれ。俺も香穂子だけを見ているから・・・二人で重ね合わそう」
「うん、楽しもうね!」


自然と浮かぶ微笑みを贈り合えば、優しく甘く、温かい光が満ちてくる。抱き締められたような温かさと、君の真っ直ぐな瞳のような光、軽やかなリズムを刻んで浮き立つ鼓動。それらを弓とヴァイオリンの弦に乗せて奏でられたら、どんなに素敵だろうか。心は手を取り合いワルツを踊るように、身体で感じたリズムは音色を奏でる上でも大切だと思うから。


しかし、まだだろうか・・・。少し待っていてくれと、ステージに立った俺たちに言い残したヴィルヘルムが駆け出したまま、だいぶ時間が経っているのだが。ふと視線をやった客席奥では、設置された録音機材の所で、ヴィルヘルムがプロデューサーやスタッフと話をしている。軽く手を挙げて挨拶しているところを見ると、どうやら話が終わったらしい。薄暗がりの客席通路をもの凄い早さで駆け下りる姿が、明るいステージ上からも見えた。

飛ぶような身軽さでひらりとステージ脇の階段を駆け上がるあっという間の早さに、俺も香穂子も目を奪われていたのだが、当の本人は息を切らした様子もない。笑顔で歩み寄ると、小脇に抱えたピアノ伴奏譜を掲げて見せた。


『やぁ二人とも、お待たせ。さぁ始めようか!』
『ヴィルさん、どうしたんですか? 学長先生たちと客席で一緒に聞くんじゃなかったんですか?』
『・・・別に、待っていなかったが・・・』
『冷たいね〜レンは。せっかく君たちの為のサポートとして、ピアノ伴奏をしようとこっそり譜面をアレンジしてきたのに。あっ、でも俺、お邪魔かなと思ったら遠慮無くこっそり抜け出させてもらうから、後は二人で頼むよ』
『用意万端だな。香穂子や周りを取り込むだけでなく、そこまで手を回していたのか。奥の手の更に置くの手を、畳みかけるように策を何重にも張り巡らす君に、頭が下がる』
『おっ、レンに褒めてもらえるのは嬉しいね。それとも諦めて一緒に楽しむ気になったのかな? レンの音楽の邪魔をするような、悪い真似はしないよ。良い演奏をしたい・・・君たちの演奏が楽しみなのは俺も同じだから。それに学長先生お墨付きの自信作だ、ピアノ専攻の奴らも真っ青さ』
『ヴィルさん、ありがとうございます』
『君たちの時間は俺が守る。誰にも邪魔はさせやしない』


俺が一瞬言い淀んでいるうちに、息を詰まらせ感極まった香穂子が、零れる吐息で礼を伝えていた。良かったね嬉しいよねと、俺を振り仰ぐ煌めく笑顔に頬が熱く感じるのは、君の可愛らしさからなのか。いや・・・それだけではなく、照れ臭くて上手く伝えられなかった俺の気持ちを感じ取り、素直に伝えてくれたからだと思う。


「・・・・・ありがとう」


そう伝えた言葉は傍に寄り添う香穂子と、視線を移し見つめる先で目を丸くしているヴィルヘルムに。俺と香穂子が贈る心からの礼を受け止め、どこかくすぐったそうで。人差し指で鼻を擦りながら、うっすらと頬を染めるはにかんだ微笑みを浮かべていた。やがて緩んだ表情も引き締まり、澄んだブルーグリーンの瞳が真摯な光を放てば、自然と背筋が伸びる。揺るぎない音楽への姿勢と何よりも、俺と香穂子を気遣ってくれた気持ちが、心の底から震わせるから。だからこそ音楽で答えなくてはいけないと、そう思う。

視線から視線へと俺に見えない言葉を託したヴィルが、今度は香穂子へ向き直った。
心から想う気持ちをお互い感じ取れるように・・・言葉にして伝えられるようにと。


『カホコ、俺や学長先生の勝手な計画に巻き込んですまなかったな・・・改めて詫びよう。そのせいで君を振り回し、レンとも気まずい想いをさせてしまった・・・レンにも怒られたよ。君たちにやきもきしながら、俺は俺なりに君たちや音楽の事を考えていたけど、勢い余って空回りにならなくて本当に良かった、ありがとう。一歩間違えば、こうして二人が揃うことなく取り返しの付かない事態になっていたかもしれないんだ』
『や、やだヴィルさん、もう良いんです。だって私も楽しかったし、心の中では密かに想い描いて望んでいたんですから。それにこれも私たちの試練なのかも知れません。きっと神様はいろんな問題を用意して、私たちの絆を試しているんだと思うんです。この先もっと大変な事があっても二人で乗り越えられるようにって。蓮くんと自分を信じています。恋する女の子は強いんですよ、大好きな人の為なら、海や空も越えられますから!』
『強いな、カホコは。レンが大切にするのも分かる・・・カホコはレンにとっての太陽なんだろうな。君たちの光が折れも照らしてくれる。だから君たちの為に何かしたいと頑張れる、俺も前に進みたいと思うんだ。小さな殻を破って生まれ変わるために』
『ヴィルさん・・・・・・・・』


隣で交わされる二人の会話は、どちらも真っ直ぐに想いを告げる者同士だから。黙って隣で聞くのは、面と向かって想いを告げられているようで照れ臭さが募ってくる。込み上げる熱さに耐えきれず、ふいと視線を反らしたくなる。だが切なげに歪められ、目の前に俺や香穂子を映しながらも遠くを見ているヴィルの瞳は、何を映し想い描いているのだろう。ぎゅっと胸を掴まれたような痛みが走り、思わず眉を寄せた。

音色の先に彼が求めるものは、俺たち以上に大きいのかも知れない。
それなのに影や憂いの素振りは欠片も見せず、お節介な程にただ俺と香穂子の心配ばかりをして・・・。本当は俺たちだって君の事が心配で大切なのだと、気づいているのだろうか。


寄り添いながら交わる俺の道や香穂子の道、ヴィルヘルムの道。それぞれ歩む道は違うし、時には暗闇で迷いながらも真っ直ぐ前へ進むのは自分。だが道を切り開き作るのは一人の力じゃないのだと、俺は君たちに教えられた。奏でる音楽も、また同じなのだと思う。


「蓮くん・・・」
「大丈夫、彼を信じよう。全ての答えは、俺たちが奏でるヴァイオリンにあるのだから」


心配そうに振り仰いだ香穂子の瞳にも彼を案じる光が灯っている。彼を信じようと、そう言って光の泉を見つめれば、手に持ったヴァイオリンをじっと眺め、大切に胸へと抱きながらこくんと深く頷いた。香穂子が一歩前へ進み出て近寄ると、静まりかえったステージに硬いヒールの足音が響く。我に返ったヴィルが、先程の憂いを吹き消すように元の屈託ない笑顔を浮かべると、後方にあるピアノへ足早に駆け寄り椅子に腰を下ろした。

ペダルを踏み軽く指慣らしをすると、人差し指でAの高らかに鳴らした。くるりと振り返った香穂子は、始まりの合図に喜びのカプセルを弾けさせている。受け止めた視線を交わし、口元を緩ませながら頷くと、楽器を肩に乗せて・・・さぁ調弦を始めよう。


『用意はいいかい、じゃ始めようか。最初はこの曲なんてどうだい?』
「あっ、アヴェ・マリアだ! 私この曲大好き、懐かしいよね」
「初めて出会ったとき、そして一緒に奏でた思い出が蘇るな。君と奏でれば、また新たな思い出が重なるんだ。花びらのように何枚も優しい光が重なった分だけ、音色と心も深みを増すのだろう。では奏でよう・・・俺と共に。そうだな・・・ここはステージでは無く、俺たちが想い描いた世界だと思えばいい」
「うん!」


君と過ごした懐かしい場所・・・例えば学院や公園、街だったり。海を越えてやってきた君と共に過ごした生活。憧れる未来、心休まる家、一緒に立つ未来のステージなど・・・何でもいい。周りは気にせず心の求めるまま、時間の許す限り心を重ね奏でよう。音色は嘘をつかない、きっと離れても、俺たちを繋いでくれると信じている。
だから聞かせてくれないか、君のヴァイオリンを。


楽器を構えると視線を合わせながら、一歩踏み出した重心で互いに合図をするように。
ピアノが奏でる優しく甘い前奏に誘われて、弓を弦にそっと乗せれば、流れる祈りの曲が響き渡った。