優しい光に想いを込めて・1



薄暗い舞台袖に、準備を終えたスタッフたちが、インカムを付けてそれぞれの持ち場に着き、闇に紛れて潜んでいる。ステージへ導くように、照明が細く長く差し込む光の絨毯。先程までの慌ただしさが一転し、コンサートの本番さながらの密やかな緊張感に包まれていた。

光の先端がもう少しで届きそうな壁際で、ヴァイオリンを手持つ俺から少し離れた所に皆が集っている。学長夫妻と和やかに歓談するのはヴイルヘルムと、懐かしそうにかつての恩師である学長先生と挨拶を交わしているプロデューサーだ。学長の隣に佇む香穂子は、彼らの会話に耳を傾けながらも、じっと俺を見守ってくれていた。

学長が隣にいる香穂子に呼びかけているものの反応は無く、隣を見ればどこか別な所に・・・つまりは俺に視線が向いている。香穂子へ視線で訴えたものの、きょとんと不思議そうに首を傾けるだけ。その先を追ってなるほど・・・とにこやかに頷く学長先生と目が合えば、なぜか俺まで照れ臭さが募ってくる。ポンと肩を叩いて耳打ちすると、驚きに身を揺らした香穂子の顔が、見る間に赤く染めて慌てるのが遠目でも分かった。


『そろそろ始めようか。みんな、用意は良いかい?』
『ではワシらも客席へ行くかのう』


数歩進み出て腕時計を確認したプロデューサーが、周囲を見渡し呼びかけると、緩やかに留まっていた空気が一気に動き出す。引き締まる心と研ぎ澄まされる感覚・・・いよいよだな。だがいつもの演奏前とは違う緊張を感じるのは、香穂子も客席で聴いてくれるからなのだろう。


出発まであとどれくらい、彼女がここにいられるか分からない。
演奏が終わりきらないうちに去ることだって考えられるし、収録が長引けば見送りに行けない可能性もある。ならばこれが、言葉を交わせる最後のチャンスになるかも知れないんだ。ステージと客席は、近いようでいて遠い。
近くにいられる今のうちに、伝えなければ。君の笑顔をこの目と心に焼き付けておきたい。

学長先生に一言告げてぺこりとお辞儀をした香穂子が、蓮くんと俺の名を呼び、小走りに駆け寄ってくる。柔らかい空気となった笑顔に包まれると、自由に伸び広がるように、瞳と頬が柔らかく緩んでゆくようだ。板張りの床へカツカツと軽やかに響くヒールの音に導かれ、懐へぽんと飛び込む君の心を受け止めよう。


「じゃぁ私、もう行くね。学長先生たちと一緒に客席で聴いているから。蓮くんとヴィルさんの演奏を楽しみにしているね」
「俺の音色は君へ向かっている、最高の演奏で君に応えよう。本当は全て聞かせたいんだが、間に合うかどうか・・・。例え一曲であっても、それに全ての想いを込めて届けるから・・・どうか受け取って欲しい」
「あの・・・あのね。短い間だったけど、蓮くんと一緒の夏休みを過ごせて楽しかった。ドイツに来て良かった、また絶対来たいって思うの。急に帰ることになって最初は凄く悩んだけど・・・でもね、お互いにやらなくちゃいけない事がたくさんあるから、二人でのんびりするのはもうちょっと待ってねって。音楽の神様が私たちに時間をくれたんだと思うことにしたの。だから頑張るよ、だって会いたい気持ちは止められないもの」
「前向きだな、香穂子は。どんな風にも折れない、しなやかな強さにいつも教えられる・・・待っているだけでは駄目だと、俺からも踏み出さなければと。本当はこのまま帰したくないんだ。俺も君に会いたい、だから今度は俺が会いに行こう・・・必ず。確かな約束と、贈り物を一緒に君を迎えに行くから」
「蓮くん・・・」


熱く見つめる大きな瞳に吸い寄せられ、絡み合う。伝えたい言葉がたくさんありすぎて、想いが溢れてしまいそうだ。着かなければとそう思うのに、ふと気を緩めれば甘さに酔いしれ、香穂子を抱き締めてしまいたくなる。それは君も同じなのだろう。込み上げる感情の渦に飲まれないように、きゅっと両手の拳を握りしめながらも、大好きな笑顔を精一杯浮かべ振り仰いでくれた。


「大好きだよ。蓮くんと、蓮くんのヴァイオリンが・・・」


せめて指先だけでも君に触れたい。そう想いながら弓を持った右手が頬へ伸びるのより先に、ふわりと捕らえた香穂子の両手が、羽のようにそっと柔らかく包む。胸へ引き寄せ、大切な宝物を慈しむ眼差しを注ぎながら、魔法の呪文のように囁いて。瞳を閉じ唇を寄せると、弓を持つ右手にそっとキスが降り注ぐ。


「・・・・・!」


しっとりと時間をかけて触れる、柔らかい唇の感触が、熱く疼いて火を噴き出しそうだ。全身を駆け巡る熱い渦に呑まれ目眩がしてくる。人前では恥ずかしがって積極的な行動をほとんど取らない、香穂子からのキスに驚き、目を見開き固まる俺にほんのり頬を染めてはにかむ君。次第に嬉しさが込み上げると、全身の熱が頬へ集まるのを感じた。俺は今、どんな顔をしているのだろうか。

言葉無く見つめる俺に蕩ける微笑みを浮かべると、香穂子はゆっくり手を解き、視線を反らさぬまま一歩・・・また一歩と後ずさる。そのままくるりと踵を帰すと、舞台袖を去ろうとしている学長先生たしの元へ駆け出してしまった。

甘い痺れに酔わされながら右手を見れば、赤く刻まれ可憐に咲いた小さな花。それは君が俺の中に溶けこみ一つとなった、俺の手に君が宿った確かな証。この手と心に、彼女が花を咲かせてくれたんだ。


『学長先生、待ってください〜今行きます!』
『ほっほっ、残念ながらカホコはここで留守番じゃ。客席で演奏を聴くのは、ちいとばかし早いかのう』
『へっ!? どういう事ですか?』
『ヴィルがカホコに言ったじゃろう? 自分の代わりにレンと二重奏をして欲しいと。さぁ、カホコの出番じゃぞ』
『え〜っ、そんないきなり! でっ、でも私・・・』
『学長先生まで、どういうおつもりですか』
『レン・・・。彼女の役目じゃとワシも、いや・・・皆がそう思っておる』
『・・・・・・っ!』


驚きと不安にきょろきょろと周囲を見渡す香穂子へ足早に歩み寄ると、学長先生の真っ直ぐで真摯な眼差しが俺を射抜いた。いつの間にか傍にいたヴィルヘルムが香穂子へ差し出したのは、彼が持っていたヴァイオリンだった。自分のヴァイオリンを貸すのだろうのか?・・・いや違う、これはヴィルヘルムのではない。
目を見開くのと同時に、手にした楽器を見つめる香穂子からも驚きの声が上がる。


「あっ! これヴィルさんのじゃないよ、私のヴァイオリンだ。いつの間に用意されていたんだろう」
「君たち二人が出歩いていた隙に、香穂子のヴァイオリンを用意させてもらった。勝手にすまないな。いきなりで驚いただろうけど、今一番大切にしなくてはならないのはどれか、残された時間を考えれば一番良い選択だと思ったんだ。正直予想外の展開だったけど、俺と蓮にはその後でいくらでも時間がある。君たちが音色を重ねるひとときは、何にも変えられない優先すべき大切な物だと俺は想う」
「ヴイルさん・・・」
「ヴイルヘルム、一体どういうつもりだ」
「俺も良い音楽が作りたい、だからその為に最良の方法を取ったんだ。俺たちの先生も、学長先生も言っていただろう? どんな技術も感情抜きにしては意味をなさないと。それに贈り物っていうのは、まず渡す本人が美味しいとか素晴らしいと感じなければ、受け取る方も喜ばないって思う」


彼の企みは、ヴィルが香穂子へ楽譜を預けた時からうすうす気づいてはいた。実現させると宣言していた彼が、そう簡単に諦めるとは思えなかったから、心の中では予想はしていたけれども。俺の知らないところで動き回り、どうにも出来ない状況まで作るとは・・・やはり本気だったんだな。本当は香穂子と奏でられたらとの願いは言葉に出さなかったが、気づかれるほどに表に出ていたのだろうか。二人で奏でた音を、そのまま納めるつもりなのだろうか・・・そんなまさか。


「自分が貰って嬉しいから、笑顔にさせる自信があるから贈るんだろう? 心から楽しいと思って奏でなければ、香穂子への心も込もらないし気持ちを分かち合う事も出来ない。蓮が本当に望んだものでなくては、本当の意味での贈り物にはならないんだ。一世一代の決意を込めるなら尚更だ、違うかい?」
「・・・違わない、だがそれとこれは別な問題だ」
「蓮くんどうしよう、ごめんね。まさかこんな大ごとになるとは思わなかったの」
「いや、香穂子のせいじゃない。元はといえば、俺のせいだから」


不安そうに振り仰ぐ瞳へ微笑みをそそぐと、黙って会話を耳にしていた学長先生が静かに歩み寄ってきた。言葉は違くても、表情などでおおよその意味が直接伝わる事もある。きっと俺たちの会話も、心で聞いていたのだろう。俺と香穂子の前に立ち止まり、優しい瞳を向けてくる。


「人間には理性に頼り、それに縛られることを好む傾向がある。平穏な日常生活の中でも、あるいは非日常的な出来事があった場合にも共通してみられるじゃろう。自分の理解が及ばない事や、達成できない可能性があることに対しては、手を出さないことで自らの身を守る・・・それでは良い音楽は生まれない」
「俺の事・・・ですか?」
「さぁどうじゃろうか。人の外面は内面の表れじゃ。外面の変化させるには内面を一緒になって成長させる必要がある。教師は生徒を導きながらも、緩やかなペースで待たなければならない。内面と外面をうまく結びつける事が音の母体・・・君たち自身を成長させる最も確実な方法じゃ。音楽的な技術だけでなく、生徒を一人の人間として捕らえ、全体を見つめながら人としての行き方を導くことが真の教育だと思っておる」


火は音を生み出す意思と力、風は心、水は感情、そして大地はこのステージだと、そう言って俺の香穂子の肩を手の平が温かく包む。君たちが光となってこの大地に音の命を生み出して欲しい・・・注がれる眼差しと言葉が優しい光となって俺たちの心を照らしてゆく。


ゆっくりと深呼吸すれば、澄んだ空気が染み渡り中から風が沸き起こるのを感じた。
瞳を緩めて香穂子へ向き合えば、互いの瞳から生まれた輝きが光になる。
それをヴァイオリンに乗せて奏でようか、俺と共に。
求めていたものが、きっと見えると思うから。