優しい光りに想いを込めて・12



旧市街地にの中心地にあるコンツェルとハウスから、テーゲル空港までは車で約30分。深夜早朝など道が空いていれば15分で行ける近さにある。車通りの多い菩提樹の並木道を西に進み、凱旋門を通り抜けると緑がぐっと深くなった。
車窓には緑多い街を印象付ける美しい公園が広がり、額縁の絵のような緑が流れてゆく。歴史から抜け出した石造りのゴシック建築の合間に、近代的なビル群が姿を現したかと思えば、憩いの場所である緑に覆われる・・・。この街は、音楽と同じく様々な景色を見せるんだ。


東西に広がる緑豊かな公園は、市民にとっては欠かせない憩いの場所になっている。渡欧した香穂子とも緑の中をのんびり歩いたり、北側に面している運河の辺で寛いだり・・・二人で良く散策に訪れた場所だ。公園の西側には大きな動物園があるのだが、生まれたての熊の赤ん坊が話題になっているのだと、香穂子は嬉しそうに目を輝かせていたな。次の休日になったら二人で見に行く約束を、彼女はとても楽しみにしていたのに・・・結局果たせなかったが。

どこまでも続く緑を車窓からぼんやり眺める胸に、香穂子と過ごした景色ばかりが懐かしく過ぎり甘く締め付ける。切なげに細めた視界の端で捕らえた金色の光りに目を凝らすと、緑の中に佇むのは高い柱の上に佇む女神像。凱旋門の絵腕四頭立ての馬車に乗る人物と同じ、街のシンボルともいえる勝利の女神ヴィクトリアだった。

道の先を照らし導く光りを見失わないように、澄み渡る青空に差す光りを、閉じた瞼の裏に焼き付けた。



法定速度ぎりぎりのラインを守りながらもスピードを出し、器用にハンドルを裁いているが、揺れを感じずに乗り心地が良い。ドイツが誇る車の性能だけでなく、ハンドルを握るビンチックさんの運転技術もあるのだろう。ヴィルヘルムの運転とは大違いだな、これなら香穂子のフライト時間まで無事に辿り着けそうだ。右腕の時計で時間を確認しつつ、気づかれないように安堵の溜息を吐く。ちらりと横目で隣を見れば、同じ後部座席に座るヴィルヘルムが、前方座席へ身を乗り出しながら進む先を真っ直ぐ見据えていた。


窓の外に溢れる騒がしさとは別世界な車内は、空間を切り取ったような静けさが満ちている。一刻一秒を争い迫る緊張や、張り詰めた空気をも漂わせながら。

森を抜け旧市街から新市街へと景色は変わり、やがて混み合った街中を抜けるとアウトバーンと呼ばれるハイウェーが現われた。広がる田園風景の中にどこまでも続く灰色の道・・・遠くに青空に浮かぶ白い夏雲のふもと、この道の先に目指す空港はある。どんなに先を急ぎたくて焦っていても、この空間から動く事は出来ない。だからこそもどかしい思いと、追い立てられる焦りに鼓動は早駆けするばかり。


香穂子、今行くから・・・君の元へ。


あともう少しなんだと自分へも言い聞かせ、息を深く吸い込みながら早まる気持を抑える。想いを込めた音色が、きっと俺たちを繋いでくれる・・・・膝の上に置いた譜面へ祈る思いを託しながら、拳を強く握り締めた。



『二人とも、車は空港のロータリーに乗り入れるから、後は君たちでゲートに向かってくれ。僕は車を空港の駐車場へ入れるから、後で合流しよう。ところで見送りは何番ゲートなんだい? バスターミナルのある外周正面のロータリーが一番近いけど、奥の出発ゲートなら内周のロータリーに入るよ。車で目の前まで行った方が早いと思うんだ』
『へ?ゲート? そうか、そこまで気付かなかったよ。エアラインと便名はでは聞いていたけど、向こうで調べればいいかと思ってすっかり忘れてた。六角形をしたテーゲル空港のターミナルは、発着ゲートも多くて建物をぐるっと囲んでいるんだったよな。確か1番か15番なら目の前なんだけど、反対側なら全力で走る事になるし。俺は走っても良いけど、レンが追いつけるか心配なんだよ。なぁレン、どうする? 走るか?』
『・・・着いてから調べる時間も無さそうだ。今ならもうチェックインを済ませてロビーにいるだろうから、携帯にかけてみよう。すまないが電話をさせてもらっても良いだろうか? 香穂子にもうすぐ着くと、直接伝えたいから・・・』
『分かった、レンに任せるよ』


俺が走ると途中で力尽きるとでも思っているのだろうか。むっとしつつ爽やかな笑みを少しだけ睨むが、あまり効果は無いらしい。だが君にばかり任せてはいられない、これは俺と香穂子の事だから俺自身が動かなくてはいけないんだ。ポケットから携帯電話を取り出すと、香穂子の番号を表示させ通話ボタンを押した。

規則正しい発信音が鳴るごとに、大きく跳ねる鼓動の音まで耳から一緒に聞こえてくる。だが発信音が続くだけで、なかなか電話に出る気配がない。圏外では無いようだし、国際通話が可能な携帯電話だから繋がるはずなのに・・・どうしたのだろうか。

こうして待つ間にも車窓の外には飛行機が大きな姿を現し、広がる芝生と滑走路の様子が、降りたアウトバーンの向こう側に見えてくる。高速道路の立体交差のように曲がりくねるジャンクションの先には、六角形のターミナルビルが目の前に姿を現した。


『レン、このまま分からなければ、とりあえず正面にあるバスターミナルのロータリーへ止めるけど?』
『すみません、あともう少し待ってもらえませんか?』


運転席から聞こえる声に焦りを覚えれば、携帯を握り締める手に滲む汗を感じる。香穂子・・・と受話器の向こう側にいる君へ、二つの空間を繋げるべく何度も呼びかけながら。もしかしてもうゲートを潜り機内の中へ乗り込んでしまったのではと、立ち込める不安を硬く目を瞑り追い払った。耳を澄ませていた自分の鼓動と発信音の二つが、同時にプツリと途切れると、思わず腰を浮かせ身を乗り出してしまう。

空間を超え飛び出しそうな勢いで耳に飛び込んで来たのは、ずっと願っていた香穂子の声だった。


「もしもし蓮くん? 蓮くんなの!?」
「香穂子か? 俺だ、今大丈夫だろうか?」
「うん、大丈夫だよ。チェックインは済ませてたけど、ゲートを潜らずに待合ロビーに座っているの。すぐに出られなくてごめんね、携帯電話が鞄の奥に潜ってなかなか取り出せなかったの・・・切れる前に出られて良かった。学長先生から聞いたよ、蓮くんたちが演奏を終えて空港へ向かっているって・・・だから待ってたの。蓮くん今どこなの?」
「途中少し渋滞に巻き込まれたが、空港に入ったところだ。もうすぐロータリーへ着くんだが、香穂子の居場所を教えて欲しい。何番ゲートにいる? 外周正面か内周か・・・一番近いロータリーに車を止めるから」
「えっとね・・・搭乗口は7番なの、バスロータリーとは正反対に遠い奥になるんだよ。ゲート前にあるソファーに学長先生たちと座っているの!」
「分かった7番ゲートだな、すぐに行くから。時間は平気か?」
「まだ平気だよ、待ってるからね。あ、でも慌てて怪我しないでね」


携帯電話越しに感じる彼女の吐息と存在を、手放したくない名残惜しさが僅かな葛藤を生むけれど。バックミラー越しに運転先から送られる視線に急かされるように、手早く電話を切るとディスプレイを折りた畳み行き先を告げた。7番ゲートへ・・・と。鏡越しに笑みを浮かべたのは、了解という印なのだろう。大きくハンドルが裁かれ辿り着いた外周のロータリーを急に迂回すると、ドーナツ状になっている建物内側へと滑り込む。


「・・・・・・・っ!」
『うわっ、ちょっといきなり危ないって。俺たち転がっちゃうじゃないか』
『すまないね、二人とも。しっかり捕まっていてくれよ』


咄嗟に助手席の背もたれに捕まり転倒は避けたものの、ぐるっと遠回りしながら走らずに済んで良かったなと。背もたれに寄り掛かるヴィルは、天井を振り仰ぎながら安堵の溜息を吐いた。香穂子が待つ出発ゲートに一番近いガラス扉がすぐ目の前まで迫り、いつでも飛び出せるようにと膝の上に置いた譜面を小脇に抱え込んだ。彼女へ届けたい曲たちを形にしたもの・・・二人で奏でた曲や、俺が君の為に捧げた曲を。




六角形の内側に広がる空間を、風のように切り裂く一台の車が7番ゲート前に滑り込む。行っておいで・・・そう肩越しに振り返るビンチックさんに見送られ、車の両側のドアが同時に開くと、俺とヴィルヘルムが弾かれたように左右から飛び出した。ガラスの自動扉が開くものもどかしく、僅かに開いた隙間から身体を滑り込ませると、それまで感じなかった賑やかさが押し寄せてきた。広い空港の中に溢れる人と音の渦に飲み込まれ、ここはどこだと周囲を見渡し立ち竦む俺がいる。


耳に吸い込まれた出発ロビーのアナウンスは、香穂子が乗る予定の飛行機だ。どうか間に合ってくれ、今行くから・・・。
小脇に抱えたクリアケースの中にある楽譜、俺の心が命の鼓動を熱く伝えていた。君がすぐ側にいると、俺を呼んでいると教えてくれる。ならば心で呼びかたら君に届くだろうか、どこだ香穂子・・・君はどこにいる?


「蓮くーん! ここっつ、ここだよ!」
「・・・っ、香穂子!?」


聞き覚えのある声に呼ばれて振り返ると、少し先にある青いソファーのある待合ロビーの中で立ち上がる香穂子が見えた。ここだよと両手を大きく振って、自分の居場所を精一杯示しながら。人ごみの中で彼女の方が、一足早く俺たちを見つけたようだ。僅かに先へ行くヴィルヘルムを呼び止めると、危うく反対方向へ行きかけていた踵を返し、香穂子の元へと駆け寄った。


溢れる人の中で香穂子の姿だけが鮮やかに浮かび上がり、俺が目指すべき場所を示してくれる。まるで森の中に佇み、金色の光りを放っていた天使のように。待ちきれずに駆け寄る香穂子と互いに引寄せ合いながら、駆け寄る勢いのまま背を攫い腕の中へ閉じ込めた。俺が抱き締めるのと、背に回された彼女の腕がきゅっとしがみ付き、胸の中に顔を埋めるのはほぼ同時。

抱き締めながら優しい香りと温もりが包まれて、安らかさが小波のように満ちてくる。俺の居場所はここなのだと、求める心や身体の全てで感じるんだ。切れた息を肩で整える早い鼓動や吐息をも伝えよう、ここにいる確かな証として。


「蓮くん・・・蓮くん良かった、間に合ったね。コンサートホールでもうお別れかと思っていたけど、きっとまた会えるって信じてた通りになったよ。ヴァイオリンは・・・収録は大丈夫なの?」
「あぁ、無事に終わった。俺一人だったら、きっと香穂子の出発時間までに辿り着けなかっただろう。諦めては駄目だと、皆に教えられた。間に合って良かった、どうしても君に渡したいものがあったんだ」
「私に?」


抱き締めた腕の力を僅かに緩めると、涙を堪えて微笑む香穂子ほ頬に咲いた桜色を、手の平で包み込んだ。君から伝わる熱が炎となり、火照る身体の熱がじんわり滲む汗となるのを感じる。ちょっと待ってねとそう言って僅かに身動ぐと、いそいそとハンカチを取り出し、背伸びをして額の汗を拭ってくれた。ありがとう・・・そう陽だまりの微笑みを浮かべ、何度も丁寧に。

駆け抜けた熱さとは違う、穏やかな温もりが生まれる心地良さに身を浸しながら。真っ直ぐ注がれる微笑みと、ハンカチに託された想いの言葉たちを受止めていた。大切な贈り物を届けに来たのに、旅立ちの瞬間まで君に貰ってばかりだな・・・目には見えない、大切なものたちを。今度は、俺が君に届ける番だ。


「香穂子、忘れ物だぞ。君と俺にとって大切なものだ」
「え、忘れ物? やだ私ったら、ちゃんと確認したと思っていたのに。コンサートホールの楽屋へ何か忘れてきたなんて・・・蓮くんごめんね。収録終わったすぐ後の、慌しいときだったのに・・・最後まで迷惑かけてばかりだね」


すまなそうにしゅんと肩を落とし、何か思い違いをしているようだが、今は多く言葉を連ねるよりも君に伝えたい。ゆるゆると顔を上げた香穂子は、じっと見つめ黙ったままの俺を、どうしたのと不思議そうに小首を傾げている。忘れ物を何だろうかと眉を寄せながら記憶を辿る彼女へ、答を告げるヒントの代りに緩めた眼差しで微笑みかけた。


「えっ・・・ちょっと蓮くん!?」
「・・・・・・・・・・」


君はもう気づいている筈だ。ピンク色の蝶となり、俺に分身を残してくれだろう?
春風のように再び腕の中に攫い閉じ込めると、目をくるくるさせて驚き慌ててしまう。状況が飲み込めずに戸惑い揺れる
大きな瞳へ、覆い被さりながらゆっくり顔を近づけて・・・互いの鼻先がかすめた頃に瞳を閉じた。

譜面の入ったクリアケースを抱えているから多少不自由だが、深く掻き抱き、込み上げ溢れる愛しい想いのままに唇を重ねた。この先暫らくはまた海を隔て離れてしまうから、熱く疼くほど強く、記憶と身体に君を刻み付けておきたい。
柔らかな唇に吸い付き押し付け、角度を変えながら何度も深く吐息をも奪いながら。


いつもなら人目を気にしてしまうのに、何故だろう。今は君だけしか見えなかったんだ。
君だけに伝えたい・・・音色に乗せて奏でた想いを唇に乗せて届けよう。香穂子、君を愛していると。




「・・・・・んっ・・・」


ゆっくり名残惜しげに唇が離れると、止まっていた時間が一気に流れ出し、アナウンスや人の喧騒に包まれる。
半ば放心状態で瞳を潤ませ、熱く蕩ける眼差しで見つめていた香穂子に呼びかけると、我に返り意識を取り戻した。だが俺の胸元を握り締めながら、みんなが見ているのに・・・と、真っ赤に火を噴出し頬を膨らませて拗ねる君。



「君が俺に届けてくれただろう? 香穂子がメモ用紙に残した口付けを、確かに受け取った。忘れ物だぞ、行ってきますのキス。俺こそ、忘れていてすまなかったな」
「そっか・・・行って来ますのキスが出来なかったからって、キスマークを残してきたのは私だったんだよね。だって時間無かったし、蓮くん忙しそうだったし、ステージや客席にはたくさんの人がいたし。寂しくないように最後にキスが欲しかったなんて、恥しくて言えなかったんだもの・。私の中に蓮くんがしっかり刻まれたよ、忘れ物を届けてくれてありがとう」
「行って来ますのキスがあるのなら、ただいまのキスもあるんだろう? 挨拶は大切だと、いつも君は言ってたな」
「う、うん・・・そうだね」


ちょうど視線の高さにあったシャツの胸ポケットから、ピンク色のメモ帳を取り出した。花びらのようなメモ帳の切れ端に、香穂子が残してくれた愛を伝える直筆のメッセージとキスマーク。嬉しそうに目を止めたもの束の間で、広げた紙を見るなりすぐに頬を赤く染めてしまい、恥しそうに俯いてしまう。


ピンク色のメモ用紙は、大好きだと真っ直ぐに届けてくれる君の想い。
ひらりと羽ばたく蝶は俺の心に留まり、君へと向かう蝶にその身を変えてくれた。