優しい光りに想いを込めて・13



先にコンサートホールの楽屋を出発した香穂子が、キスマークを残したピンク色のメモ用紙は、その姿と共に俺ごと花びらへと変えてくれた。向かう先はこの花びらが零れ落ちた音色の源、大切な君。
空の玄関へと真っ直ぐ向かう風に乗り、出発ロビーで旅立ちを待つを彼女を風のまま攫い、抱きとめキスを送った。


これから旅立ちを迎える人、戻ってきた人・・・多くの人が行き交う空港には、人の数だけ物語がある。ロビーのソファーに座って待つ人も通り過ぎる人たちも、誰もが空港をステージにする主人公達だ。喜びや幸せだけでなく、切なさやさみしさなどもこの空間には、皆が作り出した様々な想いの色が混ざり合っている。


人が行き交う周りの流れは止まり切り離され、ここのいるのは俺たちだけ。そう思えるほどに君しか見えず、互いに残された最後の瞬間まで、惜しむように抱きしめあう。絶え間なく流れる搭乗アナウンスと雑踏、空間に満ちた想いの交響曲をBGMに、温もりで想いを伝え合う俺たちもまた、一つのドラマを描いているのだろう。
空の港で交わされる言葉は愛しみに溢れ、心のまま素直になれる力があると、そう思う。





行って来ますのキスを確かに受止めたと、そう言ってポケットから取り出したメモの切れ端を見た香穂子が、あっと驚きの声を挙げて見る間に頬を赤く染めてゆく。微笑みと泣き顔が混ざり合った瞳を潤ませ、抱きしめた腕の中から振り仰ぐ香穂子を見つめる俺の頬も緩んでいるのが分かる。言葉にならない想いは、心を重ねて届け合おう・・・見つめ合う微笑みを注ぎながら。


「「・・・・・・!」」
『あ-っ、コホン・・・』
『あ、えっと・・・ヴィルさんも見送りに来てくれたんですね。やだもう〜私ったら、恥ずかしい・・・』
『感動の再会じゃったのう、もうワシらが入っても良いかな?』
『学長先生・・・いらしたんですね。いえ、その・・・お待たせしてすみませんでした』


躊躇いがちに聞こえた咳払いに我に返り、香穂子と二人揃って振り返れば、居心地悪そうに困るヴィルヘルムが腕を組んだまま佇んでいた。少し距離を取ったところにいるのは、邪魔をしていはいけないと気を使ってくれていたのだろう。だが、今までの一部始終を見られていたのだと今更気づき、熱さが顔へ集まりだす。反対側を振り返れば、待合席からやってきた学長先生と婦人が、温かい視線で距離を保ちながら俺たちを守ってくれていた。

抱きしめあったままの身体を互いに慌てて離し、視線を交わすものの、鼓動が弾けてしまい上手く言葉にならない。恥しそうに俯く香穂子は、前に組んだ手をいじりながら照れ臭さに耐えている。二人だけの世界だったのだと、言葉にしなくても伝わってしまっている。居た堪れない照れ臭さをどうしたら良いものかと、香穂子と瞳で語り合えば、どちらともなくはにかんだ微笑みに変わった。


「ホールで収録が終わったすぐ後にヴィルが呼びかけて、プロデユーサーのビンチックさんがここまで送ってくれたんだ。今は車を駐車場へ置きに行っているから、ここにはまだいないようだが・・・。俺一人ではどうする事も出来なかっただろう。皆が俺を、香穂子のところへ運んでくれたんだ」
「そうだったんだ・・・凄く嬉しいよね、皆にお礼を言わなくちゃ。今日一日でもらったたくさんの幸せは、とても一言の箱には小さくて収まりきれないけれど、ありがとうって伝えたいの」


俺を見上げてふわりと微笑む香穂子は、まず学長先生と夫人の元へ戻ってゆく。真っ直ぐ胸に飛び込む彼女を受止めた二人に、笑顔の花を咲かせるとくるりと踵を返し、今度は反対側にいるヴイルヘルムの元へ軽やかに駆け寄っていった。彼女は花を咲かせる蝶のようだな、ひらりひらりと舞い降りる先々で皆を笑顔にするのだから。

目の前にポンと現れた香穂子に驚き、目を丸く見開いていたヴィルヘルムも、瞳をすぐに柔らかいものへと変えて。どこかくすぐったそうに頬を染め、指先で鼻の下を擦っているのは、照れ隠しの仕草なのだろう。


『ヴィルさん、蓮くんを空港へ届けてくれて・・・私たちの背中を押してくれてありがとうございます。蓮くんと一緒のステージでヴァイオリンを奏でる、素敵な想い出が作れたのはヴィルさんのお陰です。この譜面弾くと蓮くんが喜ぶから、内緒のプレゼントなんだって言ってましたよね。でも一番嬉しくて喜んでいたのは、贈る私だったかも知れません』
『カホコに俺からもお礼を言おうと思っていたんだ。いや・・・君とレン、二人にかな』
『私たちに?』
『自分が幸せでいる事が相手を幸せに出来ることだと、君たちを見てそう思った。俺が叶えられなかった未来を、君たちを応援する事で託していたんだと思う。いろいろ自分に枷をかけてきたけれど、それじゃぁ誰よりも俺の音楽を楽しみにしてくれた、星になった彼女は喜ばないってね。何のために、誰の為に音楽を続けるのか、考えたんだ・・・俺も。辛い思いを閉じ込めるのではなく、自分の為に刻んでゆくよ』
『ヴィルさん・・・』


澄んだ光りを灯すブルーグリーンの瞳は確かな意思を持って、先にある道を捉えているように見えた。言葉を噛み締めじっと聞き入る香穂子に、そして背後に歩み寄り佇む俺にと視線が向けられる。硬さを緩めふわりと浮かんだ笑みから温もりが流れ込み、ありがとう・・と語りかける二人分の言葉が心へ響いた。

肩越しに俺を振り仰ぐ香穂子にも、同じ声が聞こえたのだろうか。ヴィルヘルムともう一人知らない誰か女性の声・・・心地良い二重奏のように重なる温もりの波が、優しく心へ満ちてくる。


『カホコは、今幸せかい?』
『へ? えっと〜はい、幸せです!』
『そうか、良かった・・・安心した。幸せの形は人それぞれだから、君たちとは少し違うかも知れないけど、俺も幸せだよ。それをカホコに伝えたかったんだ』


ヴィルヘルムから突然投げかけられた質問に戸惑い、きょとんと不思議そうに小首を傾げた香穂子だったが、眩しい笑顔で真っ直ぐ見上げた。ね?と俺を振り仰ぐ迷い無い返事が、二人で共に築く愛の言葉にも思えて少しばかり照れ臭い。そういえば演奏の前にも、俺に同じ事を聞いていたな。


『前にカホコが俺に聞いただろう?ヴィルさん今幸せですかって。あの時は答えられなかったけど、今ならはっきり伝えられる』
『あ! 蓮くんが学長先生の家に来て、私を見つけてくれた時ですよね。ヴィルさん悲しそうな顔してたから、古傷に触っちゃったのかと思っていたんです。あの時はごめんなさい、でもずっと考えてくれていたんですね』
『何かに一生懸命打ち込む事が出来る、他の誰かの幸せを自分の事の様に嬉しく思える・・・もっと高く羽ばたく翼をくれたのは君たちだ。遠く先に見つけた光を捕まえるために、俺も頑張るよ。レンやカホコたちには負けないぜ。レンとカホコを俺のコンサートで、スペシャルゲストにするのが野望なんだ。もちろん君たちが暮らしていた街でね。二人で美味しいところを持っていかない程度に、その時は宜しく頼むよ』
『うわ〜素敵! ぜひ楽しみにしていますね、じゃぁもっとヴァイオリン頑張らなくちゃ。ヴィルさんはヴァイオリンだけじゃなくピアノも素敵だから、きっと楽しいコンサートになるんだろうな。ね、蓮くん?』


未来の演奏会に想いを馳せ、両手の拳を握り締めながら輝かせる香穂子の瞳を受け止め、そうだなと微笑みを注ぐ。俺はどんなコンサートをするのかと興味津々に訪ねる君の方が、あれこれと楽しげに想像を膨らましてくれるから、目の前にその光景が浮かんでくる。一瞬だけ瞼の裏に映ったたくさんの聴衆と、溢れる温かい拍手は、願う想いが見せた幻か、それとも未来からやってきた夢の欠片なのか。

君と同じステージに立ち、俺たちの音色を届けたいと俺も思う・・・二人でなら、いつか叶えられるだろうか。
楽しそうじゃな三人とも、そう綻ぶ声に振り向けば、学長先生と夫人が俺たちの元へ歩み寄ってくる。ワシらも混ぜてくれとわざと拗ねる仕草を見せた学長先生に、慌てる香穂子がいそいそと場所を作ると、皺で隠れる瞳を更に笑みで細めながら隣へ並んだ。


『レン、カホコ・・・頑張っている事は無駄じゃない、やがて自分の力になる。夢を叶える力は皆持っている事を忘れてはいかん。諦めたら、そこでおしまいじゃよ。この世に起こる全てには意味がある、夏休みの予定を早めてカホコが日本のご家族の元へ帰らねばいけない事も、レンがこうして見送りに間に合った事も。喜びだけでなく寂しさも、みんな先の未来に花を咲かせるために必要なんじゃよ』
『学長先生・・・』
『いつまでこうしていられるか、この先はどうなるのかと・・・一人になったら不安が押し寄せる時があるかも知れん。だが二人とも、迷いそうになったら一度立ち止まりなさい。今を見失わないように、自分や相手の足跡を確認すんじゃ。そして無いものを数えて寂しがるのではなく、身の回りや心の中にあるものを数えよう。そうすれば自ずと道は開け道は寄り添い、目指す光りが先に見えてくる』


俺や香穂子だけでなく、真摯に聞き入るヴィルヘルムにも、一人一人しっかり目を見て深く優しく注がれる言葉や瞳が、迷いや暗闇を払う光りとなる。くすんと鼻をすする香穂子は、零れそうになる雫を堪えながら、手の甲で涙を拭い去った。


『学長先生、ありがとうございます。私・・・これからも先生にヴァイオリン教わってもいいんですよね?  奥様にお料理とかお花を教わったり、三人で一緒にお茶をしたり、ワルツとお散歩してもいいんですよね?』
『もちろんじゃよ、いつでも待っておるぞ。カホコはワシら老夫婦の大切な娘で家族だ、家に帰るのに何の遠慮もいらん。 もう弟子は取らんと思っておったが、レンの想いやカホコの音色がワシに力をくれたんじゃ。君たちのお陰でまだまだワシも青春真っ盛りじゃ、人生はこれからじゃよ』
『蓮くんと喧嘩して、でもあやまりたくてこっそり突然押しかけたのに・・・短い間だったけど凄くたくさん、大切な宝物をもらったなって思うんです。学長先生も奥様もご近所の家族も、最初は怖かったソーセージ屋台のおじさんも、皆みんな優しかった。胸に抱きしめたこの想いを、ヴァイオリンの音色に乗せて奏でますね』
『一回り大きくなったカホコが、どんな音色を奏でるか楽しみじゃのう。ドイツへ帰ってきたら、レンだけでなくワシらの家に泊まりにくる事も忘れんようにな』


こちらは二人に一匹だから数では勝つぞとそう言って、婦人とにこやかに頷き合うと、唇を噛み締めて小さく肩を震わす香穂子へ両腕を差し伸べた。堪えていたものが堰を切って溢れ、弾かれるまま懐へ飛び込むと、胸に顔を埋め子供のように泣きじゃくってしまう。耳元に顔を寄せ語りかける婦人と共に、二人で肩や背を優しく叩いてあやす笑顔に見えたのは、彼女がこの一ヶ月間で気づいた家族の絆だった。


『レンに強力なライバルが増えたな、あっちは二人と犬が一匹か。子供はみんな一人立ちしているし、ケストナー家で娘はカホコ一人だから、孫みたいに可愛くて仕方が無いんだろうな。レコーディングの時には、ちゃっかり周りに、自慢の娘だって嬉しそうに紹介していたぞ』
『! そうだったのか、知らなかった・・・』
『ま、頑張れよ・・・嫁に貰うときは、本当のご両親よりも手強そうだ。課題にヴァイオリンで出される難曲の一つ二つは、覚悟しておくんだな』
『・・・・・・』


三人を見守るヴィルヘルムが、俺の隣でにやりと悪戯な笑みを浮かべている。どこまで本気なのか分からないが、あながち冗談ですまないかも知れない。まだ先の話しだ、そう思うけれども苦笑が込み上げてしまう。
だが心地良いと思うのは、祝福を望む幸せの形だと思うから。

せっかく二人で感動の再会だったのに、見事に持っていかれたなと肩を竦めるヴィルヘルムに、そうでもないさと自然に綻ぶ笑みのまま返し、笑顔の戻った香穂子へと歩み寄った。






搭乗時間が近付いた事を知らせるドイツ語のアナウンスが、出発ロビーに響き渡った。雑踏やアナウンスがかかっていたなど今まで気づきもしなかったのに、空間にすっと飛び込み、現実へと引き戻す音が、迫り来る別れの時を知らせていた。


「香穂子、もうそろそろ時間だぞ・・・名残惜しいが」
「私、もう行かなくちゃ」


皆に囲まれ笑顔を浮かべていた香穂子が、しゅんと押し黙り、肩を落として俯いてしまう。髪が一房さらりと零れ言葉無くじっと耐えた一瞬後、迷いを振り切るように上げた瞳にが、雨上がりの煌きを放っていた。目元にほんのり残る赤みや、赤く色付く唇が微かに震えているの分かる。それでも精一杯の笑顔で、一生懸命の笑顔で旅立ちを迎えようとする強さに、惹かれずにはいられない。


「蓮くん・・・」
「どうした、香穂子」
「楽屋でヴァイオリンや荷物を片付けながら、ちょっとだけ蓮くんがオーケストラと演奏していたコンチェルトを聴けたの。ステージの音が、楽屋のスピーカーから流れてくるでしょう? とっても素敵だった・・・胸に閉じ込めた音色からね、蓮くんの声が聞こえたよ」
「香穂子にはどんな風に聞こえたのか、教えてもらえないだろうか?」
「抱きしめられているみたいに心地良い、熱く優しい心の声。急に帰らなくちゃいけなくなった寂しさに押しつぶされそうになった私を、光りの中へ戻る力をくれたの・・・胸張って頑張ろうって思えた。CD出来上がるのを楽しみにしてるね。あ! もちろんジャケット写真に香穂子さんへって名前入りで、蓮くんのサインも頂戴ね」
「あぁ、誰よりも先に君へ届けよう・・・俺の手で直接に」
「ステージで一緒に弾いた二重奏、楽しかったね。でも一番心に残ったのは、蓮くんが作ってくれた曲だよ。Eterunoだよね、もう一度聴きたいな〜次に合う時まで待ちきれないよ」


電話越しにでもいいからヴァイオリンが聴きたいなと、甘くねだる香穂子は、一度聴いただけのメロディーを覚え口ずさんでくれている。耳の良い彼女が歌う確かな旋律が俺の心にある弦を熱く震わせ、もう一度君へと向かう音色に代わるから、胸に湧いた想いごと、今すぐにヴァイオリンを奏でられたら良いのに・・・。


小脇に抱えていたクリアケースから楽譜の入った厚めの封筒を取り出し、香穂子へと手渡した。空港までの道のりを走る車の中で、どうか間に合ってくれと祈りを託していた俺の譜面。ずっしりと手に馴染む紙の束にきょとんと目を丸くしながら、触れた感触を確かめている。中を見てもいいかと訪ねる香穂子に頷くと、丁寧に取り出した譜面の曲たちに驚き、動きも呼吸も止めて見つめていた。


「香穂子に、どうしても渡したいものがあったと、言っただろう? 見送りのキスもそうだが、一番はこれを君に手渡したかったんだ。中身はヴァイオリンの譜面だ、今日俺たち二人が奏でた二重奏や、君に捧げる為に俺が作った曲が入っている」
「蓮くん、これ・・・この手書きの楽譜にEterunoって書いてあるよ! 他にも今日一緒に演奏した二重奏の譜面がが入ってる・・・演奏の時に借りたのとは違う新品の綺麗なやつだよ、まさかこれ、全部蓮くんが書いてくれたの?」
「あぁ、直接奏でる音色やCDだけでなく、長い時を経ても形に残るもので残したかった。学長先生の家で、ご夫妻思い出の楽譜を弾かせてもらっただろう? 時を重ねても一緒に楽しみながら二人の想いを重ねてゆける・・・そう想ったんだ」
「あ! 学長先生から貸してもらった、思い出の楽譜だね。奥様が歌っていたメロディーを譜面にして、もらった学長先生がさらに二重奏にアレンジしたって楽譜でしょう?」


俺が贈った手書きの譜面に結びついた記憶の欠片が、見守る学長先生夫妻にも伝わったようで、驚きに目を丸くし譜面を見つめている。温かい音色だったよね、もう一度演奏したいよねと綻ばせていた頬が、はっと気づいて固まった。


「離れている間も、いつでも蓮くんの曲が弾ける・・・音色を感じていられるって想ったの。でもそれだけじゃないんだね、私たちも学長先生たちが二人で奏でた温かい空間を、音楽で創れるんだね。永遠と言う意味のEteruno・・・この楽譜がある限り、ずっと永遠に想いを重ねてゆけるんだよ。ねぇ蓮くん、この曲も二重奏になるかな? 私達にとって愛の挨拶と同じくらい、大切な曲になるって思うの」
「二重奏・・・か、これに関しては思いつきもしなかったが、やってみよう。世界でたった一つの俺の曲。言葉にするのは照れ臭いけれど、手紙にしたためた想いを読み返すように、譜面に刻んだ音符たちを見返すも照れ臭いな。一つ一つに、誰よりも君が大切で愛しいのだと・・・俺の想いを刻み込んだ恋文だから」
「ステージで演奏してくれたこの曲を初めて聞いたとき、二人で二重奏を奏でたとき、そして譜面を見ながら蓮くんと語り合っているとき・・・触れるたびに感じる想いが違うんだね。もっともっと好きになってゆく、膨らんで溢れてしまいそう。日本に戻ったら早くヴァイオリンでこの曲を弾きたいな、また新しい蓮くんを感じる事ができると思うの」


受け取ってもらえるだろうか?

緊張で高鳴る鼓動を沈めながら瞳を見つめ、改めて真摯に告げると花の笑みが綻び、譜面の束を胸に抱きしめ柔らかそうな唇が触れた。彼女が触れているのは譜面なのに、キスをしたような温もりを唇に感じ、思わず指先で触れて確かめる。

俺に触れて欲しいとそう想ったからだろうか、それとも曲や譜面が俺の分身だからだろうか。ほんのり頬を赤く染めながら、笑顔と泣き顔が一緒になった頬でありがとうと、甘く吐息が囁く。
潤みかけた瞳から零れそうな涙を、必死に堪える香穂子に一歩近付き、頬を包んで雫を拭い去った。


「幸せすぎて涙がでちゃうよ・・・でも泣かないよ、泣かないって決めたの・・・今はまだ。涙には寂しさだけじゃなくて、喜びとか幸せの涙もあるんだけど、蓮くんとの幸せな涙は、物語の最後に二人で幸せになるまで取っておこうと思うの」
「香穂子、無理しなくていいから・・・」
「無理なんかしてない。だって私が泣いたら、蓮くんも心の中で泣いちゃうでしょう? だからいつも笑顔でいたいの、海を越えて離れているときでも。蓮くんが寂しい時とか元気ないときって、私の心も雨がふりそうだから分かるんだよ。蓮くんもそうでしょう? 大好きな蓮くんに、笑顔のヴァイオリンを弾いて欲しいから」


雲間から差し込む光芒のように、心を照らした君の光りが俺の中へ満ちてゆく。俺だけでなく学長先生夫妻や可愛がっていた子犬など、大切な人と離れなければならない寂しさを抱えるだけでなく、日本で待つ怪我をして入院した母親も心配だろう。本当は泣きたいのだろうが、俺や皆が笑顔でいられるようにと、精一杯の笑顔を浮かべている。

ならば俺も彼女の想いに答え、笑顔で見送らなくてはいけないな。
また会えるけれど、寂しさは今ひととき胸の奥へ隠しておこう。


俺たちの心と音楽に、優しい光りを届けてくれた音楽の天使・・・それは香穂子、君だ。
一足早く夏を終えて空へ羽ばたいてゆく君が蒔いた小さな光りの種は、今こうして大きな輝きになったんだ。想いを返す温もりが、花びらのように幾重にも包み守っているのだと、気づいただろうか?






預かっていたヴァイオリンケースと鞄を学長先生が差し出すと、受け取った香穂子へ二人がそれぞれ片頬ずつに、慈しみを込めたキスを送る。日本に着いたら手紙書きますねと頬を染める香穂子へ、うんうんと小さく何度も頷きながら婦人の肩を抱き、名残惜しそうに一歩ずつ下がる学長先生の背中が、いつになく寂しさを語っていた。

香穂子の前にやってきたヴィルヘルムは、香穂子ではなく隣にいた月森に向かって何かの許可を求めた。腕を組み不機嫌を思いっきり顔に出す月森がヴィルを睨むが、気にした様子も無く受止めている。何があったのか良く分からず、二人の間できょとん目を丸くする香穂子が月森を宥めると、諦めたように大きく溜息を付いて渋々ながらにフイと顔を背けてしまう。


『ヨーロッパの挨拶だから良いだろう? そろそろ慣れないと、こっちで生活できないぞ』
『なぜ香穂子ではなく、俺に忠告するんだ』
『え? だってもの凄く嫌な顔して睨んでいるから。ドイツ人は人を招くのが好きだから、将来ホームパーティーしたら全員と挨拶するんだぞ。いちいち焼もちやいてたら、カホコがこの国に馴染めないぞ』
『それは分かっているが、まだ先の話だろう?』
「蓮くん、握手とおなじなんだよ。ほっぺとほっぺが少しくっつくだけなの。最初はビックリしたけど、学長先生の家にいる間にホームパーティーがたくさんあって、だいぶ慣れたの。みんなで仲良くなれるんだよ」
『ほらみろ。数年間住んでいるレンよりも、順応性あるカホコの方が馴染んでいるぞ』
『慣れるとかなれないとか、そういう問題じゃない』
『も〜相変わらず焼もちやきだな、レンは』


親しい者が頬と頬を合わせるビスは、ヨーロッパでは日常良く使われる挨拶だ。だが自分がするのもされるのも、留学して数年経った未だに抵抗がある。握手で良いじゃないかと思うが、香穂子がしているとキスに思えて良い気がしない。焼もちと言われても仕方がないだろう。

ホームパーティーのたびに焼もちを焼き、香穂子と喧嘩をしてしまう・・・そんな自分が目に浮かぶようだ。
溜息を零す俺に仕方が無いなと肩を竦めるヴィルヘルムは、日本式だとそう言って握手を見送りの挨拶に変えてくれた。


『またレンと喧嘩したら、こっそり来る前に俺に言えよな。レンの首根っこひっ捕まえて日本へ届けに行くから』
『ヴィルさんありがとうございます。あ! お兄さんとイリーナさん、もうすぐ赤ちゃん生まれるんですよね。予定通り夏をすごせたら会えたのに・・・残念です。元気な赤ちゃん生んでくださいって、またお手紙書きますって伝えてもらえますか? あと犬のジーナニも、またワルツと一緒に遊ぼうねって!』
『あぁ、確かに伝えておくよ。兄さんも義姉さんも、見送りに来られなくて残念がっていたよ。産休明けたら日本でコンサートの予定もあるみたいだがら、近くに寄ったら来てくれよな』
『本当ですか、ぜひ行きます! 赤ちゃんにも会えるかな? あの・・・チケット買いますから、売り切れないように一枚取っておいて下さいね』


こっそりと内緒の人差し指を立てる香穂子に商談成立だなと、そう言ってヴィルヘルムが楽しそうに笑いを零した。生まれた笑みが学長先生や夫人にも伝わり、いつしか俺の頬も皆と同じように緩んでいるのに気づいた。
君は凄いな、あっという間に皆を楽しく幸せな気持にしてしまう・・・奏でるヴァイオリンの音色のように。



前に立ち塞がっていたヴィルヘルムや、学長先生たちがすっと脇に避けて、香穂子と二人だけの空間が出来上がった。真っ直ぐ俺を見つめる香穂子が一歩近付き、灯す瞳の光りに射ぬかれ背筋が伸びる。


「蓮くん、見送りに来てくれてありがとう。空港に向かっているって連絡が来た時には、驚きと嬉しさで胸がはちきれそうだった。ホールで収録の合間だったから、お別れの挨拶も時間が無くて慌しかったでしょう? 本当はね、ちょっぴり寂しかったの」
「間に合って良かった。西から東への移動は時差が大きく変わるから、時差ぼけに悩まされるかもしれない。長旅を終えて疲れているだろうが、怪我をして入院されているお母さんを早く安心させて欲しい。今誰よりも香穂子を必要としているのは、ご家族だと思う。今度は俺が会いに行こう、CDのプロモーションやコンサートで、近いうちに日本へ帰れるかも知れないんだ」
「もう〜蓮くんてば、今日は次から次へと嬉しいサプライズで驚かせてくれるんだもの。たくさんの幸せをもらいっぱなしだよ。次に会える約束があると元気になれるよね、私も何かびっくりする贈り物を用意したいな。でも忙しくなるんでしょう、また秋にコンクールもあるって聞いたよ。身体壊さないようにね? 何かあったらすぐ携帯に連絡してね」


見送りや旅立ちは、寂しさや切なさが大きく影を覆っていたけれど、道の先を照らす光りがあるからだろうか。
いつでも君が側にいるような感覚・・・どんな時でも君を想い信じる気持が、更に強くなった気がするんだ。
寂しい事に変わりはないが、不思議と希望に溢れた温かさを感じるのはそのせいだろう。


「じゃぁ蓮くん、行って来ます!」
「あぁ、行っておいで。・・・というのも何だか変な感じだな」


ヴァイオリンケースを肩から背負いハンドバックを持って、俺が託した譜面の封筒を大切に腕の中へ抱えてた香穂子は、すっかり旅立ちの準備が整っていた。さようならでも、またねでもなく、行って来ますと、晴れやかな太陽の笑顔で俺を見つめ、学長先生や夫人、ヴィルと一人一人視線を合わせ語り合っている。


行って来ます・・・か。


前向きな香穂子らしいなと、自然に綻ぶ頬のまま彼女へ近付き、身を屈めてそっと唇にキスを届けた。
触れるだけの短いものだが、しっかりと押し付け柔らかさと温もりを伝え合うように。行って来ますの挨拶だろう?と微笑めば、あっという間に顔をゆで蛸に染めてしまう。恥しそうにきょろきょろと周りを気にしながら、ただいまのキスも忘れちゃだめだよと、上目遣いに甘くねだる事も忘れずに。


もちろん忘れはしない。ただいまのキスは、唇だけで終わるかどうか分からないけれども・・・。







真っ直ぐ搭乗ゲートへ向かっていた香穂子が、ゲートを潜る直前に立ち止まり俺たちを振り返った。
飛び跳ねる元気さを笑顔に溢れさせ、指先までめいいっぱい伸ばしながら大きく手を振ると、再び踵を返し旅立つ人ごみの中へと消えていった。


皆の前では元気で強気に振舞うけれど、本当は寂しがり屋なのを俺は知っている。背を向けた瞬間に泣いてしまうのではと、密かに心配だけれど。心に感じた不安は離れていても伝わってしまうから、笑顔でいてくれていると信じよう。



俺のヴァイオリンが向かう先は、今もこれからも香穂子だけだ。
俺の音楽は君無しでは語ることが出来ない。君が与えてくれたといっても良いだろう。
君へ捧げた曲や二重奏の譜面たちに込めた想い・・・これからは共に奏でていこう、重ねる音色だけでなく俺たちの人生も。


一度離れた互いの道が寄り添い交わるまで、あともう少し。