優しい光りに想いを込めて・11



六角形をした空の玄関・・・市街地からほど近い空港は、白を基調とした明るく広い空間が広がり、大きなスーツケースを引く旅人達が行き交っている。絶え間なく流れるドイツ語の出発便アナウンスと賑わいが、この空の港のBGMと言えるだろう。黒地に白く光る電光掲示板は、常に行き先表示を変えながら忙しなく回り、分刻みのフライトを継げていた。


出発ゲートの前にある待合ロビーには青い空を思わせる広めの椅子が並んでいる。六角形の形に添いぐるりと輪を囲むフロアーは広く開放的で、カフェやレストランの他に様々な店が並び、大きなショッピングモールを思わせる。
のんびりと落ち着いた雰囲気が漂い、長いフライトを終えての疲れを癒したり、これからの旅立ちに向けて一息つくのには最適だろう。

フランクフルト国際空港行きの国内線の便名がアナウンスに流れ、電光掲示板に表示をれると、ソファーに身を埋めていた学長と婦人が顔を見合わせ切なげに眉を寄せた。この空港から日本までの直行便が出ていないため途中で乗り換えるのだが、香穂子が乗る飛行機もいよいよ用意が整った事を知らせている。


『いよいよ出発か・・・やはり見送りは寂しいのう。この空港にカホコを迎えに来たのが、つい昨日の事のように思えるわい。このソファーにポツンと座り、ワシらが来るのを待っておったのう。期待と緊張できょろきょろ周囲を伺いながらもどこか寂しそうで、小さな子犬みたいだったのにすっかり見違えたな』


腕の時計を見て時間を確認した学長が、懐かしそうに皺に隠れた瞳を細め、遠くソファーの先を見つめている。その先には、ほんの一ヶ月前だった夏の光景が浮かんでいるのだろうか。三階まで吹き抜けになっている中央通路には星をかたどった光りの電飾がアーチを作り、空間に華やかさを添えていた。

何かに気づきおっ!と声を上げた学長が、ソファーにもたれていた背を僅かに起こした。その視線の先には新たに買ったお土産物の紙袋を抱えた香穂子が、髪を揺らしながら星の通路を軽やかに駆け寄ってくる。飛び込む勢いを抑えつつただいまとそう言って並び座る学長や夫人の元へ辿り着くと、ふぅと肩で息を撫で下ろす香穂子へ、一つ隣にずれた婦人がどうぞとにこやかに席を空けて誘う。

二人の真ん中が彼女の居場所という欠かせない存在になったのは、一ヶ月と少しという短さだったが音楽と生活を共にして築いた絆の証。心地良い場所に自然な仕草でソファーへ座ると、おかえりと微笑で出迎える二人に礼を述べつつ笑みを浮かべた。


『お待たせしてすみませんでした。ヴァイオリンと荷物を預かっててくれてありがとうございます』
『おかえりカホコ。そんなに慌てて走らんでも大丈夫じゃよ、万が一怪我をしたら大変じゃからのう。搭乗のチェックインと荷物は預け終わったのかね?』
『一秒でも長く一緒にいたいから、時間がもったいなくてつい走ってしまうんです。ごめんなさい、気をつけますね。えっと・・・航空券をボーディングパス(搭乗券)に引き換えてきました。いよいよ日本に帰るんだなって実感が湧いてきます。それよりも本当に良いんですか? 帰りの飛行機チケットを手配してもらっただけでなく、プレゼントだなんて。私、お金払いますから』


慌ててハンドバックから財布を取り出そうとする香穂子の手を留めると、振り仰ぎ大きく見開く瞳へ微笑みながら静かに首を横に振った。包み込んだ手からするりと抜け出し、でも・・・・とそう言って尚も食い付く頭をポンポンと軽く。どうか聞き分けてくれと、子供へ優しく言い聞かすように。


『いいんじゃよ。この一ヶ月間、素敵なバカンスを過ごさせてくれたお礼じゃ。レンには申し訳ないくらいに、ワシと妻でカホコを二人占めしてしまったからのう。カホコが貯めた片道分の旅費は、またドイツへ帰ってくる時のために取って置きなさい。次に会う時には、課題に出した曲たちを聞くのを楽しみにしておる』
『そうよ、あなたもうお客様ではなく私たちの大切な家族だから、いつでも好きなときに帰ってきてね』
『ありがとうございます、どうしよう・・・凄く嬉しくて涙が出そう。じゃぁドイツのお父さんとお母さんに恥しくないように、ヴァイオリンもっともっと頑張らなくちゃ』


瞳に煌く雫を指先で拭い、航空券を胸に抱き締める香穂子を、両脇から温かい眼差しが見守っている。この先慌しくなるから今のうちに・・・そう言って学長と婦人が視線で会話をすると、それぞれが鞄から取り出したものが彼女の膝へとへと差し出された。右隣にいる学長からは一通の手紙を、そして左隣にいる婦人からは花柄模様のラッピングに赤いリボンが結わえられた包みを。きょとんと目を丸くしながら手に取ると、花柄の包みからは甘く香ばしいバターの香りが漂ってくる。

すっかり馴染んだこの香りに思い当たるものがあり、まさかと目を輝かせる香穂子に、その通りだと言葉を込めて静かに婦人が隣で頷く。


『あの、これは一体?』
『私と主人からの餞別よ、私はクッキーを焼いたの。日本までの道のりは長いから、もしもお腹がすいたら機内で食べてね』
『え!奥様いつの間に・・・もしかして夜中に電話があった後から、朝までの間に作っていたんですか!? 午後のティータイムに欠かせない、大好きな手作りクッキー。もう美味しいクッキーが食べられないと残念に思っていたから凄く嬉しいです・・・。ケストナー家の事を思い出しながら、一枚一枚大切に頂きますね』
『ワシからは手紙じゃ、美味しく食べられずにすまんのう。大切な娘をワシらに託してくれたご両親への挨拶と、カホコへのメッセージを込めてある。中身はドイツ語だから、カホコが読んであげるといい』
『もうっ学長先生・・・手紙を読む前から泣かせるような事言わないで下さい。どうしよう、手に持っただけでも心が震えているのに、ちゃんと最後まで読めるかな・・・』


手に持ったクッキーと手紙がほんのり熱を帯びて温かいのは、優しい想いが籠っているからなのだろう。お腹と心が膨らむ大切な想いの手土産。受止めた手の平からじんわり伝わり、心と身体の中へ満ち溢れてゆくのを感じる。この一ヶ月、心の豊かさや風土に根ざした深い音楽や幸せとは何か・・・自分が目指すものなど大切な事をたくさん教えてもらったと思う。感じた一つ一つは煌く宝石のような宝物だ。

瞳潤む透明な雫を堪えながら小さく震わせる香穂子の肩を、学長の温かく大きな手が包み、ポンポンとあやすように優しく叩く。ゆっくりと振り仰いだ赤く染まる目元に、カホコが笑顔になるとっておきの秘密を教えようと、そう言って悪戯な笑顔を浮かべた。

昨夜遅くに日本から急な帰国を促す電話があった後、カホコは子犬のワルツを抱いて部屋へ戻ったが、ワシはパソコンで飛行機の手配をしつつ手紙をしたためて。キッチンに降りた妻は、お茶の度に大好きだと彼女が美味しそうに頬張っていたクッキーを焼き、それぞれに長いようで短い夜を過ごし朝を迎えていた。

贈り物は秘密に限るじゃろう?と悪戯が成功した子供のような喜びで伝えると、笑顔の瞳に朝露のような煌きが溢れ出す。秘密にしている間も。相手の事をずっと考えている・・・その心が嬉しいと、送る側だけでなく受け取った側も思うから。


『この空港の滑走路脇は芝生が広がっているんじゃが、草むらを駆ける多くの野うさぎを見かけるんじゃよ。しかし滑走路の改修が進んだ今はあまり見られなくなって少し寂しいがのう。空港を駆け回る香穂子を見ていたら思い出したわい』
『えっ! 空港にうさぎさんがいるんですか! 大丈夫なんですか? 飛行機に引かれた大変!』
『大丈夫じゃよ、彼らは賢いから滑走路には飛び出したりしない。離着陸の時に飛行機で滑走路を駆けていると窓の外に、隣の原っぱを元気に駆け回る野うさぎが出迎え、そして見送ってくれるはずじゃ』
『へー凄い! 今までは通路側だったから気づきませんでした。今回はちょうど窓際なんですよ、ウサギさんに会えるかな〜楽しみです』
『そんなの見た事無いというヤツも多いいが、人によって見る景色は違うものじゃ。こんなに可愛くて楽しいのにもったいないとワシは思う。もしも渡欧前に教えてあげられたら、きっと心配や不安で固まっていた気持も和らげてあげられたかも知れんな。野うさぎたちも、旅立つカホコを見送ってくれるじゃろう』


飛び立つ飛行機を眺めながら草むらを駆けるうさぎに想いを馳せ、楽しげに綻んだ笑顔にほっと安堵したのも束の間。旅立ちという言葉に反応した笑顔はすぐにしゅんと萎み、そわそわ落ち着き無く周囲を見渡し始めた。タクシーターミナルのある外側道路のドアが開けば敏感に察知して、すぐさま肩越しに振り返り・・・行き交う人ごみの中からたった一人を探し出しているのだと分かる。違うと分かれば肩を落とし、きゅっと手を強く握り締めながら自分の中にある焦りと戦っているのが、高鳴る鼓動となって伝わってくる。

いてもたってもいられないのだと告げる、寄せられた眉や切なげな瞳から、カホコも身の内から湧く苦しさを耐えているのだと分かる。だからこそ自分からレンを迎えに行こうとそわそわ動き出す彼女を、動いたら余計にすれ違うじゃろう?とそう言ってこの場へ留めるのに必死だったのだから。


『しかし、レンやヴィルたちは遅いのう・・・。すぐこちらへ向かうとレンよりも興奮しているヴィルから電話があったんじゃが、もうそろそろ着いても良い頃なんじゃがのう。空港から街中まではそう遠くない筈なのに、どこかで道が込んでいるのじゃろうか?』
『ゆっくり挨拶も出来ないうちに慌しくホールを出てきたけど、最後にもう一度会えるんですね。蓮くん、来てくれるんですよね・・・間に合うかな? きっと間に合うって信じています、だんだん近付いているのを、熱く灯る私の心が教えてくるから分かるんです』


ここは六角形をした建物のうち、一番最奥辺に位置するゲートだ。バスやタクシーが多く止まる大きなターミナルはこの正反対の場所にある。彼らはどこから来るのだろうか。車でなら直接内周のロータリーへ入り、目の前の扉から駆けつけることも出来る・・・しかし正面から乗りつけぐるりと回ってくる事も考えられるな。道路に面した正面のガラス扉だけでなく、左右遠くにも気を配りとこれでは確かに落ち着かない。

搭乗手続きは二時間前から三十分前まで可能だ。出発の三十分前まではここにいる事ができる、時間はまだ平気だが追いたてられるほどに焦りを覚え鼓動が高鳴るばかり。どうか間に合って欲しいと、今は祈るしか出来ない自分がもどかしい。


レンと一緒に空港へ向かうという連絡をヴィルヘルムにもらってから、じっとしていられずに何度も繰り返されているその仕草は、ここへ駆けつけている恋人を待っているのだ。出発までに間に合うように収録が終わっただけでも奇跡に近い。出国審査はそれ程時間がかからないから、限界ぎりぎりまでゲートを潜らずにいよう・・・その想いは誰しもが同じだった。

夢をかなえる力は皆持っている。諦めたらそこでおしまいじゃよ、彼らを信じよう・・・。そう言って落ち着かせるように緩めた眼差しを注ぎ、膝の上で強く握り締められているカホコの手にそっと重れば、反対側に座る妻もその手に重ねてくる。温もりを伝え、優しい羽根で包むように。