心の翼・13
少し話をしないか・・・二人だけで。
そう言って差し出した手に、元から一つであったかのように、すっと自然に重ねられ収まった香穂子の手。自分の手よりも一回り小さいが、温かくて柔らかくて俺を包み込むような・・・芯のある強い力で握り締めてくる。繋いだ手が示すのは、彼女自身の心であり姿なんだと思う。
だから、手を繋ぐのが、こんなにも心地が良いのだろう。
ずっと感じていたい、離したくないと想う程に。
楽屋を出てステージまでを繋ぐ、細い舞台裏の通路を歩きながら言葉はなく、ただ互いの手の温もりを感じていた。手の平から伝わる温度で秘めた想いを、握り締める鼓動から確かな存在を。どこへ行くのかを告げずに歩く俺に、香穂子は何も言わず付いてきてくれる。一緒にいるのに一人にさせてしまっているなと、不安を覚えてふと隣を見れば、張り詰めた心がほっと緩む日だまりの微笑みで振り仰ぐ。きゅっと力を込めて握り締めた手に、俺だけに聞こえる見えない言葉を乗せ、心から心へ直接伝えながら。
「ありがとう、香穂子」
向けられる真っ直ぐな眼差しと優しい笑顔、握り締める手の強さや熱さ。
それは俺を信じていると・・・一緒にいたいのだと君の全てを委ね、自分の意思でついて来てくれる君の想い。
どんな時も感じていた溢れる透明な力が俺を強くするから、自信を持って前に進む事が出来るんだ。
受け止めた温かさを微笑みで注ぎながら、指先一本一本に絡めるようにしっかりと手を繋ぎ直した。
二人でゆっくり話が出来る場所を探しながらも、共にいる限られた時間を惜しまずにいられない。この手の中に、今俺の隣に確かな君がいるのに、今夜には日本へ旅立ち、明日にはもう遠く海を離れてしまっている。帰る日があると分かっていても予想外に突然な出来事で、明日も同じようにあると思っていた事が突然消えてしまう・・・。頭の隅が痺れてどこかまだ現実味を帯びず、半分信じられずにいるのが正直な気持ちだ。
寂しさを堪える為に力が働いているのか、それとも認めたくないと、無意識のうちに葛藤しているからなのか。
いや・・・この日常がずっと続く物だと思いかけていた、俺への戒めなのかも知れないな。一緒にいられる今は、俺と君の道が交わった接点の時間なのだから。まだ先があると油断してはいつか後悔する事になる・・・ヴィルヘルムが俺に言っていた通りだと、香穂子に気づかれないように苦笑した。
伝えていない想いもある。君と一緒に奏でたい曲や出かけたい場所、見せたい物など、やりのこした事がたくさんあるが、時間は無情にも過ぎてしまうだけ。音楽と同じくらい毎日どれだけ真剣に、君へ向かい合うかが大切だったのに。限りある時間を思い知らされたときにやっと気づいて、君を強く想うんだ。一緒にいられる時間はあとどれくらいなのか・・・こんなにも大切で愛しい存在なのだと。
ならば残りの時間で何が出来るかを、考えなければいけないな。
君も俺も後悔をしないために、穴の空いたような寂しさに潰されないように。
すぐ目的地へ落ち着くのは名残惜しくて、宛てもなく彷徨いながら、楽屋裏の通路や客席を案内しているのは、これから俺の音楽が生まれる場所を君に見せたい・・・いや、君と一緒に見ておきたかったらだと思う。心のアルバムへ同じ写真を残すように。留学が決まって旅立つ前に、過ごした街を二人で日が暮れるまで歩き回ったあの時の想いに似ている。本当ならこのまま街へ繰り出したい所だが、コンサートホールの中に限られてしまうのが残念だ。
細い通路を左に曲がれば舞台袖だが、正面に進み扉を開けると客席脇の通路へ出る。演奏会に来た気分を味わって欲しかったらと、そう言って誰もいない静かなロビーを通り抜けて客席へと向かった。コートや傘がある場合にはガルダローベ(クローク)へ預けるのだが、座席の位置によって何カ所も分かれており、違う席だと預かってもらえない。本来のコンサートなら、座席のアルファベット表示を頼りに枝分かれをしていく階段を上ってゆく。
「安い席ほど上に上るのはどのホールでも同じ。特にこのホールはステージの後方まで客席が囲む、ワイン畑のような独特の構造をしているため、座席配列も不規則だ。もしも君がコンサートを聞きに行くのなら、時間の余裕を持って来るといい」
「蓮くんのコンサートに遅れたら大変だもんね。ぎりぎりに席へ着いて大汗かきながら、バタバタしているうちに曲が始まるのは困るもの。古い歴史があるから、日本の劇場とは作りが違うんだね。ありがとう、気をつけるね」
重い扉をゆっくり押し開き、一階の客席中央まで進み出る。繋いだ手を引っ張られて後を追えば、ステージの目の前でじっと佇み、くるりと背後を振り返った。二階三階と馬蹄形に囲む客席をぐるりと見渡し、目に映る物全てに感嘆の声を上げている。
「うわ〜凄く広いんだね! 建物に染み込んだ音の重みで、身がきりっと引き締まる感じがするの。ここで蓮くんの音楽が生まれるんだね、どんな音がするんだろう〜早く聞きたいな」
広いステージや、天井にある豪華な照明を振り仰ぎ・・・大きいねと凄いねと、初めて訪れる場所に目を輝かせて周囲に魅入る瞳。あれは何?と興味を示して熱心に質問してくる香穂子に、丁寧に答えを返しながら。俺は静かにざわめき乱れる心を落ち着けていた・・・君の温もりが俺を包み穏やかな気持ちにさせてくれるんだ。
舞台脇にある客席のドアから抜けてロビーに出ると、先程舞台裏から出た関係者専用の扉に戻ってくる。目を丸くしながら周囲を見渡し、一人だと迷子になりそうだよと困ったように眉を寄せる香穂子に、一人にはさせないから・・・そう言って先へ導くべく扉を開けた。それが世界の境界線であるかのように、扉一枚隔てただけなのに景色と空気ががらりと変わるのを香穂子も感じたようだ。ピンと貼ったヴァイオリンの弦に似た心地良い緊張感、この場所へ踏み入れると背筋が自然に伸びる。
ざわめきと慌ただしさに包まれていた薄暗い舞台袖は、明るく照明が灯され静けさに満ちていた。リハーサルが終わり後は本番を控え、皆はやっと訪れた束の間の休憩に入っているのだろう。板張りの床に二人分の硬い足音がコツンコツンと大きく響き、ステージを通り抜けて広く共鳴した。手を繋いだ香穂子が驚き、ピクリと肩を震わす気配が伝わる。手を優しく包み直しながら目を丸くする瞳を覗き込めば、音にびっくり下のだと照れ臭そうに小さな赤い舌をぺろりと出した。
「香穂子、大丈夫か? 驚かせてすまない」
「私こそ心配させちゃってごめんね、大きな音にびっくりしたの。二人の足音が袖から広い客席へ抜けて、一番奥まで届いて響いたんだよ。ステージに立って客席に向き合ったら、圧倒されちゃうんだろうなって、そう思ったら興奮してドキドキしちゃった。それにね、足音だけでも音楽になるんだなって思ったの。蓮くんほら見て私の腕、鳥肌が立ってるでしょう?」
「本当だ・・・君は凄いな、感じる心の豊かさに俺の方が驚いてしまう。ここは下手側の舞台裏だ。今は誰もいないが、本番になればステージを支える多くのスタッフが行き交い、エネルギーに満ちている。だが舞台袖もステージも客席も、こんなに広い場所だったんだな・・・俺も気づかなかった」
「この大きな箱いっぱいに、蓮くんの音が溢れるんだよね。その中にいられる私は幸運だなって思うの、ありがとう」
繋いだままの腕を、見て?と掲げる香穂子の腕は、確かに少々泡立っていた。寒さからではなく、彼女の心が大きく揺れ動いた証。寒くないか?と空いた腕でそっと撫でさすってゆくと、次第に肌の泡立ちが収まり、代わりに頬がほんのり赤く染まってゆく。もう大丈夫だよと照れる顔に緩む頬と口元はそのままで、肩越しにステージ振り返り、きょとんと首を傾ける視線を誘い示した。
「香穂子、ヴァイオリンを持ってきているんだろう? せっかくだからステージにも立ってみるか? 今は誰もいないし、君の音色が聞きたい」
「・・・うぅん、止めておく。ステージは神聖な場所だから、興味や好奇心だけで立ってはいけない気がするの。ここは蓮くんの場所だよ・・・蓮くんが頑張って掴んだ、夢を叶える場所。いつかは私も演奏したいって思う・・・けどまだちょっと遠いかな。演奏したいっなってさっきまでは思ってた、でも駄目なの。私が甘えちゃいけないって気づいたの」
「そんな事はない!」
「蓮くん・・・・・・」
「香穂子に出会うまで、俺は自分という狭い世界の中で生きてきた・・・俺自身も音楽も。一人で生きてゆけると思っていた俺に二人でいることの幸せ、一緒に生きてゆく喜びをたくさん教えてくれたのは香穂子、君だ。俺は香穂子に出会って俺は変わった。真っ直ぐでひたむきな姿と優しい笑顔、心がそのまま現れる素直な君の音楽が、俺を変えてくれたんだ。多くの人が、香穂子の音楽を求めるはずだ。だから今度は俺から君へ返したい・・・届けたい」
何故駄目だと思うのだろうか、君が頑張っている事は俺が一番良く知っている。君が奏でる音楽の素晴らしさも。
切なげな笑みで静かに首を振る、どこかいつもと違う香穂子に、手を振り解いて正面に向かい合う。沸き上がった勢いのまま、大きく見開かれた瞳の奥まで真っ直ぐ射抜いた。珍しく声を荒げた俺の声に自分でも驚きつつ、広い空間に木霊した余韻を残しながら、静寂に吸い込まれていった。
驚きに息を詰め、信じられない物を見るように目を瞬かせていた瞳が、泣きそうに潤み、くしゃりと頬が歪みだす。慌てて引き締め手の甲でぐいと拭うと、雨上がりの笑顔を浮かべて振り仰いだ。俺の心にも差し込む光は、ずっと堪えてきた感情が溢れそうになるのを、必死に引き締めている彼女の強さ。だが苦しみと紙一重のそれは脆くて・・・だからこそ心の声を伝え、痛いほど胸を締め付けてくるのだろう。
「日本に帰ることを蓮くんに伝えるのが、ずっと不安だった。約束破ったって今度こそ飽きられちゃうかもしれない、それ以上に帰りたくなかったから。でも蓮くんは、ちゃんと受け止めて信じてくれて・・・それが凄く心強かったの。でも大事な演奏前に心配かけて、また蓮くんの音楽を傷つけたらどうしようって、それが一番怖かった」
「また・・・とは、どういう事だ?」
「ヴィルさんから聞いたよ。私が蓮くんに黙って早く学長先生の所で夏休みを過ごしていた時に、蓮くん必死に私の行方を捜してくれていたんでしょう? 心配して演奏も出来無くなっちゃったって、今日の本番が伸びたのもその時に中断したからだって言ってた。大事なデビューCDなのに私、私・・・蓮くんの足引っ張ってばかりだよ、ごめんなさい!」
両手の拳を握り締めながら、堪えきれずに震える引き結んだ唇。いっぱいに見開いた瞳から一筋、また一筋と涙が頬を伝った。弱さを見せまいとする君が流す涙は涙は悲しみではなく、どうにもならないもどかしさや悔しさから、熱い想いが雫となって溢れたのだろう。熱い固まりとなって押し寄せ、気づけば強く胸に掻き抱いていた。背がしなるほど強く引き寄せ、頭を包み込み俺の胸へと押しつけながら。震える身体を閉じ込め、温もりで癒すように・・・熱い吐息をしなやかな髪へ埋めた。
「香穂子・・・聞いたのか。その、ずっと黙っていてすまなかった。本当は一番最初に喜びを伝えたかった。だが不安定な状況だったから、確かな形になるまではと、君だけでなく他の皆にも秘密にしていたんだ。感謝と想いを込めて、君へ捧げる曲を作りたかったから。すれ違ってばかりの俺は、君を悲しませてばかりだな。贈りものを届けた笑顔を思い浮かべながら奏でても、届かなくては意味がないのに」
「蓮くん・・・おめでとう。あのね、秘密にしてるって聞いたから、本当のおめでとうは、まだもうちょっと取っておくね」
「俺は傷ついたりしないから、どうか重荷だと思わないでくれ、悲しまないで欲しい。香穂子は俺にとっての翼だ、真っ白くて大きな天使の翼。俺の心と音楽に溶けこみ一つとなり、暗闇でも導いてくれるから、俺はどこまでも空高く目差して羽ばたけるんだ。俺も、君にとっての翼でありたい。互いに離れた海を越え、共に羽ばたこう。そしていつか一緒にステージに立って奏でよう・・・二人の未来と共に」
今夜日本へ帰るのだと、予想もしていなかった真実を告げられた瞬間、頭の中が真っ白になった。
だがこれはきっとチャンスなのかも知れない。いろいろな出来事を用意して、当たり前に思っていたことや、見過ごしてしまっていた大切な事に気づくための。
そう・・・例えば見上げた夜空に星は見えなくても、本当はたくさん輝いているように。
君がどれだけ俺にとって大切か・・・愛しい存在かを気づかせて、何度も恋に落ちるんだ。
「以前君が俺に言っていたな。自分と同じ人を求めるなら自分と付き合えばいい。ひとりぼっちでいればいいのだと。俺と君だから感じ合えるし、競いながら成長も出来る。互いに溶け合い、生み出せるものがたくさんある。香穂子に出会えて・・・良かった」
「蓮くん・・・ありがとう、私頑張るよ。蓮くんに追いつけるように、いつか同じステージにたてるように。日本に帰ってからもいっぱい練習するから、次に会った時にびっくりさせてあげるね。飛行機で半日の距離は縮まらないけど、心の距離はいくらでも縮めることが出来るもの。すぐ会えるよね、だから寂しくないよ・・・」
胸に額を押しつけ、しがみついていた香穂子も落ち着きを取り戻したようだ。抱き締める力を緩めると、微かに染まった目元のまま恥ずかしそうに、腕の中からちょこんと振り仰ぐ。大好きだよ、そう頬を綻ばせ咲いた花に目を奪われている隙に、身動いで俺の腕からするりと抜け出し、飛びつくようにしがみついてきた。
上手くいかないときこそ心の手を取り合えば、雨が止み顔を出す太陽のように、いつかきっと綺麗な景色が見えてくると思う。だから確かな言葉で伝えよう、飾らない心と言葉で真っ直ぐに俺たちらしく。
伝えきれず形に出来ない熱い想いは、ヴァイオリンの音色に乗せて奏でよう・・・君だけに捧げる愛の歌を。