未来への鍵
昼夜や夏冬の気温差が大きい中欧の国々は、年間を通じて気温が低く冬の訪れも早いが、日本ほど明確でないけれど四季がある。朝晩の冷え込みや空の高さ、河を流れる水や響く音色・・・夏場の強い日差しが和らぐ9月に入れば、湿度の少ない爽やかな空気の中にも、季節の移り変わりを感じられるようになった。
10月の最終日曜日にサマータイムが終わるまでまだ少しあるが、冬時間に入る頃には最も美しく彩られた季節を迎えることだろう。緑あふれるこの街や音楽大学の構内が、黄金色に染まる景色を君にも見せたいと思う。
黒いアイアン製の堅牢な門を潜り、リンデンバウムの長い並木道を抜けると、バカンス中にレッスンで通っていた時とは違う、活気ある人の流れに圧倒されそうだ。バカンスを終えて久しぶりに会う友人たちと、過ごした夏休暇について互いに語り合うもの・・・。そして長い夏のバカンスが終わり冬セメスターを迎えた音楽大学に、見慣れない学生が多く溢れていると思ったら、新入生のようだな。
地図を片手に周囲をきょろきょろと見渡しているのは、大講堂や講義棟を探そうと場所を探しているのだろうか?
広い敷地や数多く存在する建物に慣れるには数か月・・・一つのセメスターが終わるくらいの時間を要するだろう。大学の構内で道を尋ねられるのは珍しくないが、毎年この時期は多いな。
俺たちにとってはレッスンや講義といった変わらない日々の始まりでも、彼等は自分の音楽を極めるために、世界中からこの場所へ集まってきたんだ。始まりの季節は春・・・入学式や卒業式は春や桜の季節に迎える事に馴染みがあるせいか、まだ違和感があるけれども。希望や強い意志を胸に秘め、硬く研ぎ澄まされ緊張している姿に、数年前の自分を重ね思い出してしまう。
ちょうど視線の先にいたブラウンの髪をした青年が、俺と目が合うと持っていたヴァイオリンケースに目を留め、嬉しそうに駆け寄ってきた。第一声よりも先に勢い余り、持っていた案内書を差し出しすところをみると、やはり迷子らしい。
『あの、すみません。講義棟の場所を教えてもらえますか? これからレッスンや講義の予約説明があるんですけど、広い敷地内にいろんな建物がたくさんあって、迷ってしまったんです・・・』
『・・・君の専攻学科は? この大学は、学科や専攻ごとで利用する建物が違うんだ』
『えっと〜器楽科です、主専攻はヴァイオリン。あなたがヴァイオリンケースを持っていたので、つい声をかけてしまいました。分かりくい地図だと敷地の奥にあるらしいんですけど、まだまだここから遠いでしょうか?』
『器楽科の講義棟は、正面にある大講堂を越えたさらに奥にあるんだ。大きな森と緑地を控えた場所に、蔦が絡まった古い離宮がある・・・そこがヴァイオリン科の講義棟だ。教授たちの多くもそこにいるし、個人レッスンもおそらくそこになるだとう。急いでいるなら早くした方がいい』
オリエンテーションに遅れたら講義が受けられなくなるぞと、手早く説明を済ませれば、元気良くお礼を言って踵を返す。だが遥か先を目指して駈け出そうとした背中に、ふと大事なことを思い出し慌てて呼び留めた。数歩進んだところで急ブレーキをかけた青年は、不思議そうな眼差しで肩越しに振り返る。呼びとめてすまないと改めて声をかけてから、なぜか噴き出す熱さを抑えるために一つ深い呼吸をした。
『君の専攻は、確かヴァイオリンだと言っていたな』
『えぇ、そうですけれど・・・』
『器楽科目の古い講義棟裏手に、広い芝生の緑地と大きなリンデンバウムの樹がある。そこがヴァイオリン科の学生たちが、学年問わず集う溜まり場になっているから、気が向いたら君も来てみるといい。議論や演奏など、興味深いものが見られる筈だ』
『裏のリンデンバウムが目印ですね、ありがとうございます!』
賑やかな場所は苦手だし、ましてやひとに声をかけて誘うなど今まではあり得なかったのに、突然思い立って声をかけた自分に驚くしかない。それだけ俺も変わったということだろうか、周りに集う仲間たちの影響だろうか。笑顔と共に軽やかに走り去る姿を見送りながら、そう想いを馳せているとタイミング良く肩を叩かれ、覚えのある声が背後から聞こえてくる。肩越しに振り返れば、にやりと悪戯な笑みを湛えるヴィルヘルムが、一人納得するように、うんうん・・・と小さく何度も頷いていた。
『見てたぞ、今の一部始終。俺は感動したよ、特に最後でリンデンバウムの場所を追記したあたりが。まさか一番こういうの嫌そうなレンが、初々しい新入生に声をかけてくれたなんて。この数年間をかけた地道な活動も、ようやく芽がでたってところだな・・・俺は嬉しいよ』
『なっ・・・!』
『声をかけそびれたから待っていたんだけど、この決定的瞬間を収めたくて携帯動画に撮ったんだ。ほら、写真だとシャッター音がするし感動が伝わらないだろう? 日本にいるカホコもきっと喜んでくれると思うから、さっそく送ってもいいよな?』
『余計な事はしなくていい、すぐに消してくれ』
『なんだ、つまんない。日本にはカホコの写真を取って送ってくれる、君たちの友人がいるんだろう? ならレンの写真もカホコに贈るのは、立派な俺の仕事だと思うんだ。カホコだって、レンの事が知りたい筈さ』
正論に押し切られれば、嫌と言えないのが辛い。気持は嬉しいがそれとこの隠し撮りは話は別だ。文面を打ち出す携帯電話を取り上げようと手を伸ばしたが、あと僅かのところでひらりとかわされ、にやりと送信完了を知らせてきた。深く溜息を吐いて踵を返し、振り切るように足早に進むが、あっという間に俺の隣へ追いついてしまう。
ただ前だけを見据える俺の顔を覗き込みながら、すまないと謝る笑顔に、言葉にならない想いを溜息にするしかない。新学期早々、ペースを崩さないで欲しいんだが・・・。
『久しぶりだな、元気だったか?』
『ここで会うのは久しぶりだが、ついこの前も会っただろう? 今年の夏は香穂子よりも、君と多く過ごした』
『そうだったな、せっかく渡欧してきたカホコとの時間を俺が横取りして悪かったよ。去年のバカンス明けは、日本に帰らなかったレンに、今度こそ首根っこひっ捕まえて連れてゆくって言ってたのが懐かしいよ。あの頃は、まさか彼女の方が来てくれるとは思いもしなかったから。しかし俺たちも四年か〜早いよな』
『学生組織の会長職も、後任を決めて引き継ぐのだろう? 今日これからあるオリエンテーションが最後の仕事になるのか?』
『まぁ表向きはね。その後も上講過程のマイスタークラスに進む予定だから、しばらくは大御所としておさまっているけどね』
少しずつゆっくり歩みを緩めながら、子供のような意地で背けていた視線を隣へ戻す。スピーチは演奏よりも緊張するよと苦笑を零し、ポケットから出したメモ用紙を取り出して、ブツブツと口の中で唱えていた。並びながらゆっくりとした速度で歩みを進めれば、同じ学科の顔馴染みたちが、挨拶を交わしてすれ違っていった。だがふと思い出したかのように顔を上げ、じっと問いかけるように、丸く見開いた眼で俺を見つめてくる。
『なぁ、レンは卒業したら日本に帰るのか? このまま残って、ヴァイオリニストとして活動するのか?』
『俺も演奏活動をしながら、上議過程のセメスターに進む予定だ。俺は高校の途中で早く留学したから、香穂子たちとは一年近く差があるんだ。香穂子を一年ほど余計に待たせてしまうことになるが、彼女の大学卒業にちょうど時期が重なる。二人で新たな出発をするには、区切りも良いだろう。だが・・・帰るか残るかまでは、まだ決めていない。いずれは日本へ戻らねばならないが、正直迷っている』
『そうか、レンがいなくなったら寂しいな・・・。学長先生の家にホームステイしたこの夏に、だいぶ馴染んだみたいだし、カホコもこっち来て一緒に住んじゃえばいいのに』
『そうできた良いが・・・。こればかりは、俺の想いだけではどうにもならない。何よりも、彼女の気持ちが大切だ』
一年の始まりである冬セメスターの初日に行われる、必須参加のオリエンテーションを受けるため、溢れる人波をすり抜け大講堂に向かう。頬をなぶり身体を通り抜けた爽やかな風を、吸い込み受け止めるように空を仰げば、青く茂るリンデンバウムの隙間から高い空が俺を見つめている。
新しい季節か・・・俺にはいよいよ、最後の年だ。
鞄とヴァイオリンケースを抱え直し再び歩みを進めれば、止まっていた風も一緒になって動きだす。それは動き始めた俺たちにも似ているな、風となったら君の元へ行けるだろうか。心を開いた分だけ、心地良く生きてゆけるのだと教えてた君へ、今度は俺が届けよう。心の窓を開けてくれ、そこに二人で新しい風を入れよう。
リンデンバウムの木影を抜けると眩しい白さの光に包まれ、思わず眩しさに目を細めた。残暑の強い日差しが石造りの建物や石畳に反射しるのは、まるで光が生まれる場所のように見える。中世の街並みを思わせる石畳の広場に、白くそびえるのは音楽大学のシンボルとも言える大講堂。帝国時代の宮殿の名残といわれ、装飾だけでなくホールや音響設備も、歴史あるコンサートホールに引けをとらず素晴らしい音色を響かせてくれる。
長い夏期休暇に入る前は、この大講堂で卒業を迎える学生たちによる公演が行われたのも、まだ記憶に新しい。
いよい来年は俺がそのステージに立つのかと思うと、過ぎ去ればこの数年が長かったようであっという間だったように思える。香穂子と離れ、単身渡欧してこの音楽大学の門を潜ってから、四年目を迎えるんだな・・・あと残り一年も、早く過ぎ去るのだろうな。だが最初の数年は時の流れがひどく長くて、早く感じるようになったのはここ最近かも知れない。一時的に遠ざかってはいたものの、頻繁に連絡を取り合ったり、香穂子と過ごす時間が長くなったせいもあるのだろう。心の動きは、時の流れの早ささえも変える力があるのだと、そう思う。
ギリシャ神殿風の白い柱が長い影を落とし、ピアノの鍵盤のように白と黒のコントラストで染め上げる階段を、人の流れに沿いながら昇ってゆく。最初はただひたすら前だけを見て、だが中ほどでふと立ち止まり自分の居場所を確認するように周囲を見渡せば、真っ直ぐ続く緑の並木や街の景色までもが広く見渡せる。そして再び歩み出すと、頂きを目指すだけでなく景色を楽しむ余裕が出来ていて・・・自分が過ごしてきた心模様は、この長い階段に似ているのかもしれない。
『おっと、すまない。代表でスピーチをするから、一足先に舞台裏へ行かなくちゃいけないんだ。学生会のミーティングがあるのすっかり忘れてた、じゃぁまた後でな。さっきの新入生に声かけたんだから、ちゃんとレンもリンデンバウムの溜まり場へ来いよな。歓迎の演奏会でもしようぜ』
『あぁ、わかった。演奏会なら異論はない』
忙しなく肩越しに振り返りながら手を振ると、数段飛ばしの息も切らさない身軽さで、長い大階段を駆け昇ってく。癖のあるブロンドの髪ごと白い光に溶け込み、並ぶ柱の奥へと消えていった。
俺を忘れないでほしい、必ず君の元へ戻るから待っていてほしいと。そう言たかったが遠い道のりの先が見えず、何も約束できない・・・とただそれだけを伝えて旅立ったあの頃の想いが、切なく締め付け蘇る。だが、今は違う。少し遠まわりをしたけれど、香穂子を迎えに行く・・・君の元へ戻るとゆるぎない確かな想いで約束することができた。
だがその為には卒業するだけではなく、掴み始めたプロのヴァイオリニストとしても、活動も確かなものにしなくてはいけないな。音楽の高みを求める道に終わりはなくて、次から次へと目の前に道が現れる。君との道が寄り添うのもゴールではなく、またそこから新たなスタートが始りだ。残り少ないの時間の中で、山積みにされたやるべきことの多さが、大きな壁となっているよ見えた。
卒業した後のこと・・・か。
だいぶ先だと思っていたが、この国へ残るか日本に戻るか、その答えもそろそろ出さなくてはいけないんだな。