ヴァイナハテン(weihnachten)
大切な事は俺の口から、直接彼女に伝えたい。だから手紙やメールでなく、電話する事を選んだ。
部屋の壁に掛かった時計を確認すると、現在の時刻は14:00。まだサマータイムだから、時差を計算すると日本は21:00くらいだろうか。週末だから、きっと香穂子は家にいる筈だ。
しばらくじっと電話を見つめた後に、大きく深呼吸してゆっくり受話器に手を伸ばす。
いつもはもっと気軽なのに、なぜこんなにも緊張しているのか。彼女に電話するのは初めてではない。それ程多くはないものの、無性に声が聞きたくなったり会いたくなったりした時、あるいは誕生日や何かの記念日の際になど。
会えない代わりに、電話越しに互いの呼吸を感じ合う声だけの逢瀬を重ねてきた。
持ち上げる受話器が、まるで俺の心を乗せたように、重い。
一つ一つ確かめるように番号を押していく。国際電話の識別番号、日本の国番号、そして彼女の電話番号・・・。
後少しで繋がる・・・なのに途中まで押しかけた所で指が止まってしまった。先の番号を頭が指先へと伝えてくるが、
意志に反して動こうとしない。せめぎ合う苦しさに耐えきれず、一度受話器を降ろしてしまった。
いつもの俺らしくないな・・・。
降ろした受話器を握りしめたまま、深く溜息を吐いた。
不安・・・なのかも知れない。
今更だと、どうしてもっと早くに言ってくれなかったのかと・・・彼女に拒絶されるのが怖くて。でもこのままではいけないのだという葛藤が、息苦しいほどに俺の中で激しく渦巻いている。考えたくはないがもし拒絶されたとしても、それは当然の報いだ。彼女を放って泣かせてしまっていた俺への罰なのだから。
こうしているうちにも刻々と時は過ぎ去っていくのだから、迷っている時間はない。改めて日と時間をおけば、余計に決心が鈍って気持ちが伝えにくくなる。今この時を逃してはいけないのだ。
ようやく俺だけの音楽を見つけることが出来た。その事と一緒に、己の思いも彼女に伝えるのだと。
会いたい・・・側にいて欲しいと、自分を偽らず抑えず、心のままに彼女を求めたい。今度はもう一つの大切なものを手に入れる為に。もうこれ以上、香穂子を泣かせたくないと、自分自身に誓ったのではなかったか!?
どうなるかは“神のみぞ知る”だ。
落ち着かせる為に、瞳を閉じてもう一度大きく深呼吸する。意を決して眼を開くと、迷わないように、止まらないようにと一気に電話のボタンを押していった。
『はい、日野です』
「夜分申し訳ありません、月森と申しますが・・・・・・・」
『蓮くん!?』
言い終わらないうちに俺の名前を呼ぶ元気な声。耳に馴染み、すっと溶け込む心地よい声は、紛れもなくずっと聞きたいと願っていた香穂子の声だった。
「香穂子か、久しぶりだな。今、平気だろうか?」
『うん! あっ・・・今リビングにいるの。子機に切り替えて部屋に行くからちょっと待っててね!』
そう言ってバタバタっと慌ただしい音がしたかと思うと、騒ぎに幕を下ろして隠すかのように、軽やかな音楽が流れる保留音へと変わった。
相変わらずだな・・・・。電話の向こうの慌てぶりが目に浮かぶようで、思わず口元に笑みが浮かんだ。
彼女の声を聞いた途端にあれほど緊張して不安に襲われていのが嘘のように解け、穏やかな気持ちになっているのに気付く。心の在処を教えてくれるように温かい振動が伝わって、水面に広がる波紋のように静かにゆっくりと俺の中に広がってきた。俺にとって彼女がいかに大きな存在か、こんな時にいつも思い知らされる。
『お待たせっ・・・・!』
「そんなに慌てなくても、ちゃんと待っている。急いで怪我でもしたら、そちらの方が心配だ。ともかく、元気そうだな」
ピッと保留音が途切れ、予想通りに息を切らした香穂子が再び電話口に現れた。
クスリと笑うと、笑わなくてもいいじゃない〜と恥ずかしそうに少し拗ねた様子が伝わってきた。
『だって一刻も早く、二人っきりの所で話がしたかったんだもん』
「ありがとう。君の気持ちが、とても嬉しいよ」
甘えたように囁く香穂子に感じるのは、溢れるほどの愛しさ。
伝わる吐息さえも、甘く俺の心を揺らめかす。
耳から伝わる全てで彼女を感じ取ろうと、壁によりかかって瞳を閉じ、気持ちを耳だけに傾けた。
「そうだ、コンクール優勝おめでとう」
『ありがとう、蓮くんのお陰だよ。ちゃんと届いたよ、想いと音色・・・“愛の挨拶”。日本にいる私の所まで。本当に届くんだって、びっくりしちゃった。その力とお守りのお陰で頑張れた』
嬉しそうに話す香穂子に連られて、自然と笑みが漏れてくる。窓ガラスに映る自分の顔が穏やかに微笑んでいるのが見えて、少々気恥ずかしくなってしまった。自分の姿を見て照れるなんて、誰もいなくて良かったと心から思う。
しかしなぜ俺が奏でた曲まで知っているのだろう。曲名までは伝えていない筈なのに、やはり彼女にまで届いていたのだと、信じていいのだろうか。まぁ、今は深く考えないで置こう。それよりも伝えたい大切なことがあるのだから。
『あのっ・・・あのね・・・!』
「どうした?」
「やっぱ、いいや・・・上手く言えないから。いつか蓮くんに直接会えたら、言うね。う〜ん何て言えばいいのかな。魔法というか奇跡というか・・・。とにかくありがとう、すごく嬉しかった』
何かを言いたそうにしていたが結局上手い言葉が見つからなかったらしい。でも気持ちは充分伝わったからそれでも構わないと思う。
ふと、脳裏にと先程聞いたある言葉が過ぎった。
直接会えたら・・・。
ようやく本題に話が繋げそうだ。いつ言い出そうかと思っていたが、きっかけを与えてくれた彼女にしなければ。
このチャンスを無駄には出来ない。
「香穂子、突然で済まないが・・・今度の冬休み、何か予定は入っているか?」
『特に何も入ってないけど、どうしたの?』
「クリスマス・・・俺の為に、開けておいてくれ」
『えっ・・・・・・!?』
「ドイツに・・・俺の所に来ないか。その・・・君に、会いたいんだ」
電話の向こうでは息を詰めて驚いているのが、伝わる空気で分かった。
心臓を鷲づかみにされる程の緊張感が、再び俺を襲う。滑り落としそうな程手にかいた汗を拭うため、受話器を反対の手に持ち替えた。しかし、ここで怯んでいては駄目だ。
「俺が帰ろうかとも思ったが、ドイツと言えばクリスマスマーケットが有名だろう? 年に一度の機会だし、こちらのクリスマスを見てもらいたいんだ。華やかで楽しくて・・・きっと気に入ると思う。他にも君に見せたい所が、沢山ある。一緒に過ごせたらと思うんだが、どうだろうか?」
『・・・・・・・・・・』
「・・・香穂子?」
呼びかけるものの香穂子からの返事は無い。考えているのか、無言の拒否なのか・・・いずれにせよ、そうとう驚いていることは確かだ。それもそうだろう、3年目にして、ようやく「会おう」と言ったのだから。なぜ今頃なのかと、思って当然だ。もし、次に来るのが否定の言葉だったら・・・心と全身で身構えたが、ポツリと呟いた彼女の言葉にそれは杞憂に終わった。
『・・・もうっ・・・ずるいよ、こんなに突然。嬉しくって、泣きたくなっちゃうじゃない!』
必死に涙を堪えているのか、声が震えていた。それでも泣くまいと必死に笑顔を作っているのだろう、力の限り明るい声を絞り出す彼女のいじらしさ。腕の中に閉じ込めて抱きしめたい衝動にかられるものの、海を越えた遠い距離が、それを許さない。思わず伸ばしかけた空いた方の腕は行き場を失い、やるせなさに強く拳を握りしめる。
『・・・嬉しいっ・・・行く、絶対行くよ! 蓮くんの為に、冬休み丸ごと開けておくから!』
「・・・ありがとう・・・」
避けられたのではなく、彼女に受け入れてもらえた事に心から安堵して力が抜け落ちそうになるのを、壁にもたれて寄りかかりながら自分を支えた。後頭部をすりつけるようにして仰ぎ見て、白く広がる天井をぼんやりと視界に映しながら、まるで懺悔をするかのように、胸の内を彼女に開いていく。少しずつ、静かに・・・。
言い訳じみている、と心の中で苦笑しながらも、彼女には聞いてもらいたかった。きちんと話しておきたかった。
「ずっと決心がつかなかった。何も手に入れていないのだから、まだ君に会う資格が無いと。だからいろいろと自分に理由をつけて、気持ちを抑え込んでいた。君に教えてもらった音楽を楽しむ気持ちや、会いたいという想いごと」
『蓮くん・・・・・・』
「でも、それではいけないのだと教えてもらった。君や、俺を支えてくれる周りの人達に。そうしたら、ようやく見つかった・・・俺の音楽が。えらく遠回りをしてしまったが」
自嘲気味に呟いた俺を、香穂子は優しく柔らかく包み込んできた。
良かったね、おめでとう・・・・と。
『ずっと我慢して頑張ってきたから、目指すものを見つけた今の蓮くんがいるんだよ。間違いとか無駄なんかじゃない。でもこれからだよ、まだまだ安心してちゃ駄目だからね』
「香穂子・・・・・」
世界一のヴァイオリニストになるんでしょう?
目の覚めるような思いだった。
彼女自身だけでなく俺をも支える彼女の強さ、大地や海のように広くて温かい母性・・・・。
何よりも真っ直ぐに向けられる信頼と、彼女から伝わってくる溢れる想い・・・。
俺はいつでも、君に支えられているんだな。
大切な君が、どんな事があっても疑うことなく信じてくれる事が心強くて、だから俺は自信をもって生きていくことができる。
「今まで待たせて、すまなかったな」
『蓮くんがあやまることないよ・・・・。蓮くんだって、辛かったんでしょう? もう、いいよ・・・』
失わずに済んだことを、どれ程感謝したことか。
俺も、君を支えられる存在でありたいと思う。遠くにいても、側にいても・・・。
「今回は急だし、飛行機のチケットは俺からのプレゼントだ。優勝のお祝いと、大分早いがクリスマスプレゼントと。
・・・それに、今までのお詫びも兼ねて」
『えっ!? そんな悪いよ・・・ちゃんと自分で行く』
「いいんだ、今回だけは特別に。俺からの気持ちだから」
『本当にいいの? 何だか逆に申し訳ないよ。こんなに素敵なプレゼントをも先にらっちゃって、クリスマスの日にはどうしたらいいの?』
嬉しさを抑えきれないながらもすまなそうに、申し訳なさそうにする香穂子に、ふわりと微笑んで、とっておきの秘密をこっそり教えることにした。そう・・・少し早いに変わりはないが、これはドイツ流のクリスマスプレゼント。
「ドイツのクリスマスは、サンタクロースが二度やってくるんだ。一度目は、聖ニコラウスの日に彼がお菓子を届けに。二度目はクリスマス・イブの夜に、サンタクロースがソリに乗ってプレゼントを配りに」
『じゃぁこれは、甘い方の贈り物だね』
そうだなと言うと、どちらともなくクスクス二人で笑い合った。耳に触れる空気が甘くて揺れて、心地良さにこのまま何時までも浸っていたくなる。俺への一つ目のプレゼントも、さしずめ香穂子がドイツに来てくれるという事だろうか。
「滞在中は俺の家で申し訳ないが、我慢してくれ」
『蓮くんの家って、そっちでも一軒家だっけ?』
「あぁ・・・時折演奏旅行中の母や出張中の父が立ち寄ったりするが、今は俺一人だ。部屋も余っているし」
『そっ、そっか・・・そうだよね・・・・・・』
香穂子はごにょごにょと急に言葉尻を濁して、恥ずかしそうに照れて言い淀んだ。一体どうしたのかと思ったが、ハッと我に返ってその真意に気づき、体中が熱くなるのを感じた。
そうだった・・・・・・。という事は数週間、香穂子と二人っきりで過ごすことになるのだ。しかも一つ屋根の下で。
身体を重ねたことは何度かあるとはいえ、一夜を共にしたことはまだ一度もない。お互い外泊さえもしたことがないのに、いきなりこの展開か。
「い・・・いや・・・そのっ・・・・」
今更お互いに照れてどうするのだと思いつつも、内心楽しみであることには変わりはないが。
ふと、時計をみると大分時間が過ぎているのに気付いた。
つい夢中になりすぎてしまったようだ。名残惜しいが、あまり長話をしては香穂子の家族に対しても申し訳ない。
「では日程が分かったら、連絡してくれ。詳しいことはまた後で」
『うん! 私もすっごく楽しみだよ。ねぇ、ヴァイオリン持っていってもいいよね?』
「あぁ・・・久しぶりに、香穂子の演奏が聞いてみたい」
『今すぐにでもそっち行きたいくらいだよ。早く冬休みにならないかな〜って、あと1ヶ月以上もあるのか・・・・。バイト頑張らなきゃ』
もう遅いからそろそ切るよと告げると、名残惜しそうにする彼女に後ろ髪を惹かれつつ。
おやすみと、静かに受話器を置いた。
電話の横に立て掛けられた卓上カレンダに目を移す。
あと数日で10月が終わる。夏時間が終わって冬時間に移行し、本格的な冬の季節に入るのだ。
秋の収穫祭が終わって11月の声を聞くと、ドイツではもう冬が始まる。太陽が現れる日と時間が少なく、短くなると同時に、厳しい寒さと灰色に包まれた「鬱」の世界に入るのだ。目に映るものや感じる季節だけでなく、人々の心の中にも暗い陰を落とす季節。俺の心も、過去幾度となく闇に覆われそうになったことか・・・。
しかし辛い冬を吹き払うかのように現れるのがクリスマス。ドイツ語でヴァイナハイテン(weihnachten)。
暗く寒い日々を送る人々は、クリスマスという祭りに生命(太陽)の誕生と来るべき春を見いだす。
香穂子の訪れを待ちわびながら一枚、また一枚とカレンダーを捲って12月。色とりどりの屋台で賑わい、幻想的にライトアップされたクリスマスマーケットが写真を飾っていた。
クリスマスを神聖なものとするドイツでは、イブの午後から賑やかなマーケットもしんと静まりかえり、全てが家族単位でしか動かなくなる。家族のしきたりがあるからと、誰も入り込むことが出来ないのだ。
この日ばかりは海外からの留学生や独り者の外国人は、、押しつぶされて死にそうなほどの孤独感を味わうことになる。楽しいけれども、寂しさと孤独を嫌と言うほど思い知らされる季節が、正直好きでは無かった。
けれども今年こそはクリスマスを祝ってみよう・・・ドイツ流に。
俺の冬には「鬱」は来ない。きっと香穂子、君という太陽が俺を照らして寒さと暗闇を包み込んでしまうだろうから。
辛かった冬の訪れが、こんなにも待ちどおしいのは初めてだ。
クリスマスのリースや飾りに囲まれて、キャンドルの柔らかい炎に照らされた君の笑顔がこの部屋に満ちあふれる日まで、あともうすぐ・・・・・・・・。