音楽大学の最も奥に位置する、蔦に覆われた石造りの講義棟。
本来は器楽や声楽科の担当教授の書斎も兼ねた研究室になっているのだが、各部屋が二間続きのため、奥を個人的な研究室に、手前をレッスン室に使用する者が殆どだ。
静けさと厳かさを纏う離宮を思わせる建物は、ロの形をしており中庭の噴水からぐるりと周りを見渡せば、実に様々な音色が部屋から漏れ聞こえてくる。建物全体を覆い尽くすまでになった緑の蔦や重みを感じさせる石壁は、長い年月という悠久の時の流れだけでなく、漂う音色と情熱をもその身に染みこませて、音楽に情熱を傾けた幾多の若者を見守り続けていた。
建物の裏側にある森に面した二階部分に位置する部屋からは、ヴァイオリンの音色が漂っていた。
『では今日注意した所に気を付けながら、最後に頭から通してみよう』
『はい』
薄暗い石壁の室内に、窓から差し込んだ光が絨毯のように一本の道を作っている。
一筋の光のスポットライトに照らされながら、譜面台を前にヴァイオリンを奏でるのは月森蓮。
彼が楽器と弓を構えると譜面台から少し離れた正面に立ち、腕を組んで教え子の演奏に耳を傾けていた。
随分変わったな・・・。
レッスン中から感じていたが、改めてそう思う。もちろん悪い方にではなく、期待通りの良い方へと。
以前は触れただけで切れてしまいそうなほど研ぎ澄まされた空気と、張り詰めた緊迫感を渦巻くようにして発していたのに、同じ曲にも関わらず数週間前までとは大分印象が違う。冴え渡る巧みな技術は更に磨かれているが、それが決して嫌みにならず自然な感じで聞こえ、演奏の表現も豊かで色鮮やかにになったようだ。
自分を抑えず思うまま、心のままに表現することを躊躇わなくなった彼からは、一本気な正確、音楽への一途な思い、真摯な気持ちが演奏に全面的に投影されて聴き手の気持ちを強烈にノックする。
直球勝負という所に変わりはないが、強烈な勢いで投げつけられるだけのものから、一言一言を確実に相手へと届くように語りかけてくるようになった違いは大きい。
エネルギー、正確さ、感情。
強い結びつきで三位が一体となった時、演奏は聴衆の心を強く掴む。
曲にエネルギーを送る右腕のボウイングだけでは感動を生まないし、音をかたちづくる左手の正確さだけでは冷淡になる。しかしソナタをエネルギーと正確さだけで引いた場合、聴衆の心は殆ど掴むことが出来ない。そこには「心の温もり」が欠けているため、手加減無しの正論だけで全てを押し切ろうとする人は、やはり心の温もりに欠けている。周囲は彼の事を「感情の欠片もない人だ」と呼ぶだろう。
人間の場合がそうであるように、エネルギーと知性の間に立って調整するのが「感情」なのだ。
それは常に適応性と順応性が求められる、非常に難しいものであるのだが。
アッチエレランド、リタルダンド、ポルタメント、フォルテやピアノといった音量の変化、そしてフレージングなど言葉では表す事の出来ない程デリケートな美の要素。ヴィヴラートの付ける情感と陰影が、彼の思いと感情の揺れを言葉や仕草のように現し、音楽をより美しいものにさせていた。
その身から奏でられる音色が語るように、硬く覆われた殻を自ら破って彼自身も新たに産まれ変わった姿。
まるで大きな翼を広げて・・・。揺るぎない音で優しく温かく、どこまでも真っ直ぐ伸びて心に届く。
負けず嫌いの性格もあるだろうが、この短期間によく見つけてここまで成長したと思う。
見つけたんだな、自分の音楽を・・・。
激しく渦巻き周囲を圧倒する嵐の中心だった彼は、今や温かく照らす日差しそのものとなっていた。
曲が終わり楽器と弓が静かに降ろされ、月森は黙って教授の反応を待っている。
コツンコツンと乾いた音を響かせながら、譜面台の側へと歩み寄っていった。
『最近楽しそうじゃないか、ティーアガルデンのヴァイオリン弾きさん?』
『なっ・・・なぜそれをっ・・・!?』
曲の駄目出しをされるだろうと身構えていた彼に降りかかったのは、思いもかけない質問だった。急に顔を赤くして激しく動揺する様を楽しむように、腕を組みながらニヤリと笑いかける。
『あそこはベルリン市民の憩いの場だ。誰がいても可笑しくはないだろう?』
『気付いていたら、なぜ黙っていたんですか』
我が家の散策コースなのさと、まだ照れと赤みの残る顔で鋭く睨み返す月森の肩をポンと叩く。
それに俺がいると分かったら、君のことだ。きっと来なくなるだろう?
それでは楽しみが無くなってしまうじゃないか。散策に訪れるベルリン市民も、俺も・・・。
『妻が教えてくれたのさ。東洋人の素敵なヴァイオリニストさんが週末になると現れるってね。興味があって散策ついでに彼女に連れて行ってもらったら、君だった。驚いたのは俺の方だよ』
『そう・・・だったんですか・・・』
『ここ最近だろう? 以前は見かけなかったからな』
その場で鉢合わせなくて良かったと、月森はホッと胸を撫で下ろして安堵の溜息を吐いた。
先日以来、気晴らしや散策ついでというのもあるが、確かにここ最近は週末なると、ティーアガルデンの森やシュプレー川添いでヴァイオリンを弾いていた。少ないときもあれば多くの人に囲まれることなど様々で、好きな曲を奏でたりリクエストを受けたり。常に音楽が身近にあって造詣が深い街の人々だから、くる反応も拍手やヴラヴォーといった歓声から、本格的な批評まで実に様々だった。
『・・・音楽は楽しいか?』
『はい。今ならはっきりとそう答えられます。自分の音楽・・・先生が仰ったように、確かに私の中にありました』
『もっと時間かかるかと思ったんだが、結構早かったな』
『・・・私一人なら無理でした。音楽は一人では出来ないものだと』
『音色だけでなく、音楽そのものが変わったな。弾くから聴かせる、そして心に届けるに。レン・ツキモリという人間がそのまま聴き手の心に届いてきた。綺麗な所も、そうでない所も含めて全部・・・揺るぎない君自分が』
一瞬驚いたように目を見開いたものの、一言も聞き漏らすまいと意識を切り替えて集中させるのが分かった。
真っ直ぐ射るようにに見つめ返す彼に、尚も言葉を告げた。
もっと自分をさらけ出すんだな、そうすれば今よりもっとプロの音に近づける・・・と。
そうだ、ずっと保留にしていた件・・・あの時は重荷以外の何ものにもなり得なかっただろうが、今なら伝えても平気そうだな。こちらもいい加減、そろそろ返事もしなくてはいけないし。
『答えを見つけたレンにご褒美をあげよう。来週から始まる必修授業のオーケストラ、コンサートマスターは君になったから宜しく頼むよ。ついでに朗報だ。今度開かれる国際コンクールに、うちの大学からはレンをエントリーしようという話が来ているんだ。どうだ、やってみるか?』
『わ・・・私がですか?』
おや?喜ぶかと思っていたのに、予想外に戸惑っているようだ。まぁ、当然の反応か・・・。
『これはまた、えらく謙虚にでたな。もっと食らいついてくるかと思ったのに。一度に二倍おいしい話で戸惑っているのか、それとも自信がないとか・・・』
『自信はあります、しいて言うなら前者の方です』
『正直だな。前からそれぞれ話はあったんだ。ただレンがお悩み中のようだったから、俺の判断で話を止めていた。タイトル持ってもプロでデビュー出来るとは限らない。無くてもデビューするヴァイオリニストは沢山いるからな。国籍なんぞも関係ない、要は実力だ。それでも挑戦する価値はあると思うんだが』
石壁に吸い取られるような沈黙が部屋の空間を支配する。
恐らく既に考えはまとまっているのだと思うが、自分の中で意思の確認をしているのだろう。
暫くの沈黙の後、先程までは戸惑いを見せていた月森が確かな意思を持った瞳と言葉ではっきりと告げて、深く頭を下げた。
『宜しく・・・お願いします』
『分かった、上の者にそう伝えておこう。詳しい話は後日だ、チャンスは無駄にするなよ。今日はもう終わりだ』
ヴァイオリンケースと楽譜を持った月森が、ありがとうございましたと再び頭を下げて背を向ける。しかし部屋の扉を開けると、驚く気配が離れた俺の所にまで伝わってきた。
何事なのかと扉での様子を伺うと、目の前に立っていたのは白い髭を蓄え、皺の奥に刻まれた細い目をニコニコと微笑ませた老紳士。この人はいつ見ても神出鬼没だなと思いながらも、ぶつからなくて良かったと胸を撫で下ろした。
『やぁレン久しぶりだね』
『学長先生、その節はありがとうございました』
深々と頭を下げる月森に、かまわんよと笑いながら脇に寄って道を開けた。失礼します言ってと薄暗い廊下の奥に消える背を見送った後に、部屋に入って扉を閉める。
部屋の中央に立ったまま扉から現れた人物に、腕組みをしながら小さく溜息を吐いた。
『学長、いつから扉の向こうにいらいたんですか?』
『おや、すっかりお見通しじゃな。なに、30分ほど前からじゃよ。古い建物ゆえ防音じゃないというのは、こんな時
に助かるわい』
『相変わらず、盗み聞きがお好きでいらっしゃる』
視察と言ってくれと、嫌みをにこやかにかわして部屋の奥へとゆっくり歩んでくる。コツン、コツーンと足音が二人分、合奏のように響き渡っていく。
『いい目をしていたな、迷いの去った真っ直ぐな目を・・・音にもそれが現れていた。悩みだった部分を乗り越えれば、逆に深みとなって味わいをもたらす。彼はこの先、もっと伸びるじゃろう』
『そうですね・・・。あと以前頂いた話の件ですが、両方とも承諾をもらいました』
『そうか、それは良かった。楽しみじゃな。君のいう通り、待った甲斐があったのう』
窓辺に歩み寄り外を見下ろせば秋空の下、そこを講義棟裏を溜まり場にしているヴァイオリン科の学生達が集っている。先程この部屋を出た月森が、輪の中へ合流する姿があった。
通り過ぎようとした所を友人達に引きずり込まれた、といった方が正解だろうか。顔をしかめて溜息を吐く様子がここからも見て取れる。やれやれ、そこは相変わらずだな。
ふと気付ば彼らのこっそり様子を見守っている自分も、これでは盗み聞きの好きな師匠と同じだと、思わず苦笑が込み上げてしまった。確かに、日々大きく変わっていく彼らを見るのはとても楽しくて嬉しいし、本人が気付かない程近くで陰からこっそりと言うのがなおのこと。目が離せなくて、気になって仕方がないという所か。
我ながら、親バカぶりにもほどがあるな。でもそれは学長も同じ事なのだろう。
持てる技術の全てを渡しても、困ったこの性格までは、できれば三代目に引き継いで欲しくないなと思う。
『昔の自分を見ているようじゃないのかい?』
『そうですね・・・でも私はあそこまで純粋で真すっぐで、可愛くはありませんでしたから』
『確かにそうじゃった・・・本当に可愛げがなくて、君にはワシも随分手こずったわい』
『学長・・・・・・・』
過去を思い出しながら空を眺める学長に、もうその話は・・・と眉根を顰めると、気にした様子もなくにこりと微笑み返してきた。
『なに、手のかかる子ほど可愛いもんじゃよ』
『そのお気持ち、今なら私にも分かります・・・・。学長の盗み聞きが、どうしてそんなに楽しいのかということも』