円舞曲

11月に入ると、それまで緩やかに流れていた季節が急速に動き出す。
厳しい冷え込みと強く吹き付ける風が秋の穏やかな気配を消し去り、瞬く間に街を冬の色へと変えていく。

日が沈むのも早ければ朝が明けるのも遅くなった。その為、まだ薄暗い中を気忙しく行き交う人の波に呑まれながら大学へと向かう日々。途中でやっと明けだす淡い空を、わずかに差す陽に縋り付くような思いで見上げた。


今にも雨か雪が降りそうな・・・泣き出しそうな空の色。


ここ暫く見る機会がめっきり少なくなった太陽を恋しく想いながら、どんよりと厚い雲に覆われた灰色の空へと、吐く息がどこまでも白く真っ直ぐ天へ昇っていく。頬を切られるような強く冷たい風になぶられて、身を竦ませるようにコートの襟を立てた。


音楽大学の黒く堅牢な正門をくぐれば、正面の大講堂へと真っ直ぐ続くリンデン(菩提樹)の並木道。
かつて青々と豊かに茂っていた葉も寂しげに枯れ枝となり、赤茶色く染めた葉を僅かに残すのみとなっている。絨毯のように敷き詰められていたであろう落ち葉は綺麗に片付けられ、針金のように黒い枝の並木道となった隙間からは、灰色の空だけを映していた。


葉の落ちかけた枝をみて人が感傷的になるのは、自分の心の隙間をそこに見いだすからなのだろう。
葉が落ちて全てが枯れ枝になった時に、自分の心までもが空虚になるのでは・・・と。


耳元を吹き抜ける冬の風が奏でるもの悲しい旋律が、心の隙間をかいくぐって、切なさという揺さぶりをかける。
早く俺の心を隙間を埋めてくれる、暖かい存在が訪れる日が来るようにと、願わずにいられなかった。





『レーン!』


遠くから呼びかける声に、感傷的な空気は脳天から打ち破られる。朝っぱらから、学生達が多く行き交う人混みにも関わらず、大声で俺を呼ぶ人物はただ一人しかいない・・・。周囲がざわつき始める中、気付かない振りをする訳にもいかず、思わず顔を顰めて振り返った。


『レン、おはよう!』
『おはよう。この寒い中、朝から元気だなヴィルヘルム・・・』
『あーっ、眉間の皺。何だよ、ご機嫌斜めに顔しかめちゃって』
『誰のせいだと思ってる』


皆が呼ぶヴィルという愛称でなく、正式な名前で呼ぶ時には俺の機嫌が悪いと相場が決まっている。にも関わらずヴァイオリン科のこの友人は気にした素振りも見せずに、誰のせいだろうねと笑って、少し癖のあるブロンドの前髪を掻き上げた。


『朝一番でレンに会えて良かったよ。これもやっぱり運命だよな』
『・・・は!? 一体何の話だ』


相変わらず突拍子が無くて、意味が分からない。
首に巻いたマフラーに埋もれるように、ニカリと白い歯を見せて笑う彼にじっと訝しげな視線を向ける。道々話すからと促され、並木道の下を並んで歩き出した。


『レンに頼みたい事があるんだ』
『・・・事と次第によるが』


大学の学生組織の会長を努めている彼には以前から度々、「頼み」と言われて様々な行事に連れ出された事があるだけに、今回もその手の類かと身構えるのは致し方ないだろう。果たしてどんなやっかい事なのか・・・。
一瞬にして緊張を纏った俺を察知して、そんなに警戒しなくてもと呆れたように小さく肩を竦ませた。


『悪い話じゃないさ。ワルツの演奏をしてくれないか?』
『ワルツ?』
『実は来月に俺の兄さんが結婚するんで、身内や親しい人達を招いて披露宴のパーティーをやるんだ。何もこんな寒い時期にやらなくてもいいのに、スケジュールが合わなくてね』
『そのパーティーとワルツと何の関係があるんだ?』


心底不思議そうに問う俺が意外だったらしく、きょとんと目を丸くすると、そうか日本とドイツは違うのかと呟いた。


『教会で式を挙げた後パーティーをするんだけど、肩肘貼らずに気軽なものさ。招待者のも服装も普段よりお洒落なら何でもいい感じ。一般的にはレストランを借り切って立食形式が多いんだげと、今回は実家でやるんだ。特に堅苦しいスピーチも無いし、新郎新婦も招かれた人も、お互い自由にゆっくり話をする事ができる』
『日本のと随分違うんだな。こちらは形式張って堅苦しいものなんだ』


へーそうなのか・・・何だかつまらないな。
そう言う彼に何か反論すべきなんだろうが、いかんせん俺の知らない世界だから話のしようがない。こういうのは女性である香穂子の方が詳しそうなんだが。


それに議論好きな彼らは時にこちらが反論するのを期待して、感情を煽る事を言ってくる節がある。当初はいちいち腹を立てたものだが、国民性を理解した今ではすっかり慣れた。彼も日本の事情を聞きたそうにしていたが、自分の事が優先らしく、深くは追求してこなかった。


『パーティーの最後に新郎新婦がみんなの前でワルツを踊るのが、ドイツの結婚式の慣わしなのさ。いわばパーティーの大事なクライマックスだな』
『もしかして、新郎新婦が踊るワルツの演奏を、俺がするのか?』
『ご名答! ここでワルツが踊れないと様にならないから、ダンス教室に通う人も多いんだ。兄さんも今からダンス教室に通っているんだけど、もう〜必死な割にへっぴり腰もいい所。あれはワルツというよりカーニバルの道化師だね、義姉さんが気の毒だよ。ヴァイオリンのように上手くいかないってぼやいていた』


思い出したように腹を抱えて笑い出す彼に、ふと湧いた疑問を投げかけた。


『なぜ俺が? 演奏家なら君のご家族やお兄さんの友人筋にも大勢いるだろう?』


ヴィルヘルムの家族も音楽一家だ。俺の母と同じく音楽界の第一線で活躍するご両親を始め、彼の兄も今注目されている若手のヴァイオリニストである。普段全くそんな素振りはみせないが、家の歴史が古い分排出している人物も多く、背負う重さも俺より遙かに大きいようだ。
日本では珍しがられる境遇も、ここでは同じような人々が周りに溢れいている。さして気にされることも無いのが、正直ありがたいと思う。


『パーティーのプロデュースは、俺が全面的に引き受けているんだ。俺が演奏してもいいんだけど、身内だから挨拶回りもあるし。兄さんや義姉さんの関係はあくまでもゲストだからな。シュバイツ辺りに頼もうかと思ったんだけど、ヤツは酒が絡むと不安なんだよ・・・。その点レンなら安心だ!』


バンと肩を叩いて、納得したようにうんうんと頷く。
俺なら酒に呑まれなさそうだという、消去法なのか?
眉を潜めて睨むものの、しかし帰ってきた答えは予想とは違うものだった。


『身内の気軽なものとは言っても、親父達の絡みもあって来賓は音楽業界のそうそうたる面子が予想される。レンなら実力も申し分ないし、大舞台での度胸があるだろう? フランツ家のパーティーに相応しい演奏家として、君の腕を買っているんだ』
『ヴィル・・・・』
『それに・・・何かこう・・・プランナーとしての俺の勘が、レンにしろって告げてくるんだよ。レンなら何かやってくれそうな・・・そんな感じ。目が覚めたらいてもたってもいられなくて、だから朝一番で会えたのが、運命って訳』


茶化した中に垣間見せる、真摯で真面目な本来の姿。
彼にとっては家を背負っての重要なパーティーである事に変わりはないのに、俺の演奏を認めて信用してくれるその気持ちが嬉しくて、出来ることなら応えたいと思った。
「何か・・こう・・・」と、もどかしげに手を戦慄かせる様子を見ると、単に面白がられているだけの気もするが。


『パーティーは何時の話なんだ?』
『ちょっと待ってくれ、今手帳を出すから。えっと・・・12月の・・・・』


歩む速度を緩めながら器用に鞄の中にあった手帳を取り出し、日付を確認する。


その日は・・・。
告げられたパーティーの日程は、ちょうど日本からやってくる香穂子が俺の元に滞在している期間だった。


確かに、悪い話では無かったと思う。
ライバルでもあり、友人でもある彼にこうまで見込まれて頼まれれば、断るわけにもいかない。
かと言ってせっかく久しぶりに会える彼女を、一人にさせる訳にはいかない。いや、一人にさせたくない・・・。


どうしたらいいものか・・・口元に手を当てて暫く思案する。
そうだ・・・・!


『引き受けてもいいが、二重奏では駄目だろうか?』
『二重奏?』
『あぁ・・・ちょうどその日、日本から香穂子が・・・彼女が来ることになっていて、クリスマスを久しぶりに一緒に過ごす予定なんだ。彼女も俺と同じくヴァイオリンをやっている。・・・だからもし良ければ、一緒に演奏したいんだが』


俺はともかく、彼女の演奏を聞いてもらえるいい機会だと思ったから。それに二人で一緒の舞台に立って演奏がしたいというのが、一番の望みでもある。彼女との思い出の一つになればと・・・。
意外な申し出に驚いたように目を見開いていたが、やがて満開の笑みを浮かべて快諾してくれた。


『もちろんOKさ、レンに任せるよ。ありがとう、引き受けてくれるんだな。そうか二重奏か〜思いつきもしなかった。やっぱり俺の勘は正しかった!』


バンバンと強く俺の肩を叩く手を痛いじゃないかと振り払うと、ニヤリと悪戯っぽい笑みを向けるヴィルヘルム。
意味ありげな笑みに、何やら背筋に薄ら寒いものを感じで、思わず聞き返せずにはいられなかった。
聞かなければ良かったのに、その予想は見事に当たる事となる。


『だから、なぜそうなるんだ?』
『えっ!? だって考えてもみろよ、これって凄い事だぞ。パーティーのクライマックスを飾る新郎新婦のワルツ。
ホールの中央で、みんなに見守られながら幸せそうに踊る二人・・・。そのワルツを、未来の新郎新婦である恋人達が奏でるんだ。二人を祝福しつつ、自分達もと幸せを重ねる、甘〜い恋の二重奏。最高の舞台じゃないか!』
『なっ・・・・・!!』
『どっちが主役だか、分かんないね〜』


いつの間にか、互いに歩みはピタリと止まっていた。


何と言ったんだ?
未来の新郎新婦!? 恋の二重奏!? 
ちょっと待ってくれ・・・そこまで、考えていなかった・・・。


ヴィルヘルムは目の前にその光景が見えているかのように、身振り手振りで演技しなが、まるで少女のように想像の世界に浸っている。通り過ぎる学生達が不思議そうに注目するのを、全く気にも留めずに。
誰か・・・真面目なんだかそうでないんだか分からないこの男を、黙らせてくれ・・・!


こめかみを引きつらせながら耐える俺の脳裏に、どこぞの煽り文句のような先程の言葉が焼き付いて離れない。
何度も何度も俺の中で木霊して、次第に眩暈がしそうな程の熱を生み出していく。


沸き上がる熱と共に、脳裏に鮮やかな光景が浮かび上がる・・・音色と光を伴って。
ホールの中央で幸せそうにワルツを踊る新郎新婦の傍らで、ヴァイオリンを奏でている俺と香穂子の姿。
空間を満たしていく、甘く温かな音色。
俺の目には、楽しそうに演奏する香穂子が・・・主役である花嫁よりも・・輝いて見えた。


『おっ・・・レン、お前真っ赤だぞ? は〜ん、もしかして照れてんのか?』
『違う!!』


珍しい物を見たとばかりに、面白そうに俺の顔を覗き込んでくる彼を振り払って、足早に歩き出す。
頬をなぶる風が火照った熱を冷ましてくれて、心地よい。


『最近妙にウキウキしてご機嫌だと思ったら、そういう事だったのか〜』
『・・・・・っ!』
『今更“無し”なんて言わせないからな。彼女と一緒でないと嫌だって、駄々捏ねたのはレンの方じゃないか』
『誰もそうは言っていない!』


後ろを振り返らず、照れ隠しに強く吐き出すように言い捨てる。
待ってくれよ後ろから声が掛かるが、待ってなんかやるもんか。
それに気付かれていたとは・・・いちいち鋭いやつだ。いや、単に俺が正直なだけなのか・・・。
競歩のように更に歩くスピードを上げて振り切ろうとするものの、走って追いつきざまにガッと肩を掴まれた。


『レン、からかって悪かったよ。でも素晴らしいって思ったのは本当だぜ、凄く嬉しいんだ』
『・・・・・・・・・』
『大切な兄さんと義姉さんの幸せな門出に、これ以上の最高な贈り物は無いからな』


先程までのおどけた表情を一変させ、ブルーグリーンの真摯な瞳が真っ直ぐ俺を射抜く。
俺の正面に回ると、握手の手を差し出してきた。


『二人の演奏を楽しみにしているよ。レンが認めるヴァイオリニストなら、彼女も素敵な演奏をする人なんだろうな。きっと兄さんも義姉さんも喜んでくれる。素晴らしいパーティーになりそうだ』
『任せてくれ。君の顔に泥を塗らない演奏をして見せる』


差し出された手を硬く握り返して成功を約束すると、ふと思い出したように申し訳なさそうな表情を見せた。


『せっかく二人水入らずの所をすまないな、彼女にもそう伝えておいてくれよ』
『あぁ・・・・・伝えておく』
『ついでに、主役の座を奪わない程度に宜しく頼むよ』


釘を差しているのか、はたまた煽っているのか・・・・。
楽しげに笑うこの友人に向かって、きっとまた俺は赤い顔をしているのだろう。
この冬一番の冷え込みとニュースで聞いたが、寒さはどこかへ消えてしまったようだ。


二つのヴァイオリンで奏でる円舞曲。
彼の期待通りに主役の座を二人で奪ってしまう程の音色を、早く香穂子と奏でたいと、心から思う。


『曲目はレンに任せるから、決まったら連絡してくれ。兄さんにダンスの練習させなきゃいけないから。じゃぁ招待状は二枚・・・とりあえずどっちもレン宛でいいよな。えっと・・・彼女の名前はカホコ?だっけ? 招待状送るからフルネーム教えてくれよ、出来ればスペルも』


もう覚えたのか、素早いなと苦笑しつつ、ペンと共に差し出された手帳を受け取る。
彼女の名前をサラリと書いて再び返すと、じっと書かれた名前を見つめた後にポツリと呟いた。


『カホコ・ヒノ?』
『あぁ・・・・・・』
『これが、レンの彼女の名前か・・・。良かったな、今年こそ一緒に過ごすことができて』
『ヴィル・・・・・・・』
『まだつまらない意地張っているようなら、俺がレンの首根っこひっ捕まえて日本まで送り届ける予定だったのに、無駄に終わったな。日本に行きそびれたよ』


嬉しい誤算だと言う穏やかな笑顔に、俺の口元も自然に綻んでいた。
静かに穏やかに、沸き上がる気持ちのまま。


『それは残念だったな』
『なんの、羨ましく無いぞ。俺のイブも彼女と一緒さ。まぁ・・・墓参りだけどな』


視線を逸らして、少し寂しげに灰色に覆われた遠くの空を見上げた。
墓参り・・・恐らく留学中に異国の地で亡くなったという想い人の事だろう。


クリスマスは欧米人にとって神聖な行事であり、日本の正月のようなものだといえる。
ドイツの人々はクリスマスに備えて墓地も綺麗にする。墓用のクリスマスツリーもあり、イブの日も夕方暗くなる前に必ず家族全員でお墓にいくそうだ。その後に家族揃って夕食を取り、地元の教会で行われるミサへ行くという。


これが、クリスマスの正当的な過ごし方。


国が違えば過ごし方も、全く違うものなんだな。
大切な人と過ごしたい・・・。根底にある想いは、同じなのに。


空を見上げていたヴィルヘルムが俺の腕を掴んで揺さぶると、天を指さした。


『おいレン、見ろよ・・・やけに寒いと思ったら、雪降ってきたぜ』
『本当だ・・・今年の初雪じゃないか?』




灰色の空から舞い降りた、白く小さな冬の天使達。
手の平の上ですぐ消えてしまう、まだ頼りない彼らは、やがて街を覆い尽くす白色のヴェールとなることだろう。


全ての物音や、心に宿した悲しみや寂しさといった想いまで、白いその身に吸い込ませながら・・・。