聴衆に向かって・後編

『隣に座っても良いかね?』
『あ・・・はい』


座っているベンチの隣に広げていた楽譜や鞄を慌てて方付けて、座る場所を用意する。散り落ちていた葉を手で払い落とし、どうぞと声をかけて、月森は少し端に寄った。
すまないね、そう微笑んだ深い皺の奥にある目が一層細いものとなって、学長はゆっくりと隣に腰をおろした。


緊張・・・してしまう。
顔と名前は知っているが、一学生の身では滅多に会うことができない人物だ。学校経営に携わっているものの、今も音楽世界に与える影響は絶大な、名ヴァイオリニストでもある。手持ちのCDや評伝が脳裏をよぎり、緊張度は更に増す。そんな偉大な人物が、一体自分に何の用なのか。


何を話せばいいのか・・・何か話さなければ。


膝のに置かれた上の両掌を、ギュッと強く握りしめた。
けれどもとっさには思いつかず、考えるほどに気だけが焦って空回る。きっと自分が話し出すのを待っていてくれているんだと、醸し出す穏やかな空気を隣から感じるのに・・・。


互いに無言のまま、目の前の光景をただ眺めていた。
僅かに紅葉しかけの木々が、フレームのように囲む小さな湖。陽の光を浴びて輝く水面。
秋を感じさせる、ひんやりさを纏った風がさっと吹き抜けて、煌めく水面を凪いでいく。
さわさわという葉擦れの音と、足下を踊るように舞い踊る落ち葉が、そっと背中を優しく押してくれた。


『学長先生は、こちらにご用があったのですか?』
『なに・・・単なる気晴らしじゃよ。湖の見えるこの森が好きでね、よく散策に来るんじゃ。森にはいろんな音が溢れている・・・優しさや美しさ、怖さ、妖しさといった感情も。森の“気配”を感じると、無性に音楽がしたくなる』


俺の場合は“安らぎ”が大きいのだが、違うのだな・・・。
そういう感じ方もあるのかと、どこか新鮮な驚きが心に沸き起こった。


もともとドイツ人は森に住む民族だったから、森への愛着は強く、保護しようとする意識も当たり前のものとして根付いている。ベルリンの都心部にも、あちらこちらに存在する広大な緑地。
森に対する意識も、ドイツ人特有のものがあるようだ。例えばグリム童話というのは、そんなドイツ人の森に対する想いや感性を話にしたものかもしれない。「赤ずきん」「ヘンデルとグレーテル」「ブレーメンの音楽隊」、どれも森をテーマにしたものだ。


『あの・・・どうして、私の事をご存じなんですか?』
『おぉ、この間の事か。君のレッスンが次にあるからと、丁度追い出された所での。おっとそれより、あの部屋にワシがいたことは、他の教授どもには内緒じゃぞ。あそこはワシの隠れ家なんじゃ』


口元に人差し指を当てて、内緒と悪戯っぽく笑う。
偉ぶる所もなく、あくまでも自分と同じ目線でまるで語りかけるそれは、まるで無邪気な少年のように爽やかで。
優しく包み込むような音色、それでいて、どこか懐かしく心浮き立つような・・・。
CDでしか聞いたことがないが、この人物が奏でる音色が色鮮やかで印象的なのは、きっと人柄をも現しているのだろう。奏でる音色と同じように、穏やかに語りかけてくる表情や、一言一言に引き込まれずにはいられない。
いつのまにか先程までの緊張が、すっかり解けていた。


『隠れ家・・・ですか』
『君達の様子が良く見える場所でな。それに、他の小うるさい教授どもから隠れる時にも便利でのぉ。あやつには煙たがられておるが、師弟関係のよしみで度々立ち寄らせてもらっておる。お陰で、素敵な演奏を聞かせてもらったよ』
『き・・・恐縮です』


面と向かって言われると、恐れ多くて恐縮すると同時に、照れくさくなってしまう。お世辞や社交辞令ではなく、心からの賛辞に、思わず月森は顔を少し赤らめた。


先日、ヴァイオリン科の新入生の前で演奏を披露した時の事だろう。そういえば、レッスンの時にも先生が仰ってた。「のびのびした演奏だったと、学長が褒めていらしたぞ」と。思えば、そこから今の状況が始まったのだ。
自分に足りないものは何なのか・・・言った本人に聞くのが一番良いのかもしれない。


月森は身体を少しずらして隣の学長に向き合うと、皺の奥に隠れた細い瞳を真っ直ぐに見つめた。
ただの好々爺でないのは、穏やかさの奥に潜む鋭さと強い意志をみれば明らかだ。


『学長先生に、質問しても宜しいでしょうか』
『構わんよ。教え子の教え子は、ワシにとっても教え子でもある。いわば孫じゃな君は。孫というのは、ジジイから見れば可愛いものじゃ。つい手を焼きたくなってしまう』
『ヴァイオリンを上手く演奏するのと、それを人に伝える、つまり聴衆に向かって演奏する能力とは、別でしょうか? だとしたら、その力とは何なのか。どうしたら伸ばすことができるのですか?』


勢い余って詰め寄るほど真摯に問いかける勢いにたじろぐ事もなく、じっと月森を見つめる。
笑顔でお茶目な返事を返していた学長が、スッと堅く表情を変えた。音楽家の・・・教育者のものへと。
一気に吐き出してエネルギー尽きたのか、月森はどこか力無く溜息を吐きながら、避けるように瞳を反らした。


『先生が、レッスンだけが音楽ではないと私に言いました。その意味を考えていたのですが・・・・』
『ほう、あやつがそう言ったのかね』


驚いたのか、皺の奥の細い目が少しだけ大きく見開いた。そうかそうか・・・と頷きながら面白そうに、くっくっと肩を揺らして小さく笑い出す。


『あの・・・・・・』


自分は、何かおかしな事を言ったのだろうか? 笑い止まない学長に、少し不安になってくる。


『いや、すまないのう・・・。今でこそ教職なんぞに就いておるが、昔は手のかかった教え子でのう・・・。随分ワシも苦労させられたわい。君が言われた言葉は、ワシがあやつに伝えた言葉でもあるんじゃ』
『先生に?』
『あやつが、君くらいの時だったかのう・・・』


ヴァイオリンの師である教授の、意外な過去が突如判明して興味がそそられたが、今はそれどこではない。
きっと若い頃は何かあっただろうと、時折思っていただけに聞き出したいのは山々だが・・・・。
懐かしいといいつつも、学長も教授の件にはそれ以上触れることは無いようだ。


『オーラが取り巻くような輝かしい才能を持つ若い音楽家には、可愛がられ、過保護にされてきたという雰囲気が、どことなく漂っているように思われる。それが仲間達を遠ざけ、後の精神的疾患の原因となる事が多い。
同じように、ヴァイオリンの話しか出来ない大人の演奏家の場合も、その輝かしい才能の裏で何かが欠落している。音色というのは正直で、そういった彼らの生き様が全て現れてくるんじゃ』


耳の痛い話だ。俺の事を言っているのか・・・。


そう感じるのは、少なからず自分に思い当たる節があるからだろう。淡々と静かに語られる言葉の一つ一つが、心に重くのし掛かってきて、苦しささえ感じる程だ。向けられた表情が穏やかなだけに、実際に音楽に携わってきた、見てきた者の重みが一層感じられる。


『一つの道に徹し、常に努力を続ける事は大切じゃが、そうした努力は、演奏家の価値そのものとは無関係じゃと思う。ヴァイオリンに対する熱意のもと、自分を過度に専門化しすぎるのは危険じゃ。人間としての幅を広げる妨げにもなる。ひいては、音楽の幅を狭める事にもなりかねん』


人生の、とりわけ音楽の大先輩から語られる言葉の中に、今の闇から脱する・・・自分の音楽を掴むヒントがあるかもしれない。月森は真摯に見つめて、一言も漏らさないようにと聴き入った。


身の回りにある全てが音楽なのだと。音楽だけがレッスンではないというのは、そういう事なのだろう。
分かったと当時に、小さな溜息が漏れた。結局は、この先も苦しみから逃れられないと言うことか・・・・・・。


『芸術に対する熱意というのは、常に葛藤が伴われるのですね』
『そうじゃな・・・。この世のバランスは、こうした正反対のものによって築かれている。これが無ければ、緊張感が無くなって、毎日が平凡でつまらないじゃろう?』


大げさに肩をすくめるジェスチャーに対して、そうですねと、顔に浮かぶ苦笑を止めることが出来なかった。
確かに演奏には、ある程度の緊張感も必要だと思うが・・・。


『正反対と聞いてねレンなら何を思い浮かべるかね?』
『正反対・・・ですか?そうですね・・・・・光と陰、感情と理性、音の強弱・・・』


突然言われて戸惑ってしまったが、正反対のものをいろいろ思い浮かべると、尽きる事がない。「絶望」の中から「希望」が顔を覗かせたと思えば、「失敗」は成功の元だったりもする。
対になっているというのなら、今の状況の反対側には、希望が・・・新たな道が、きっとあるのだろうか?
光と陰が紙一重で隣り合っているように、俺のすぐ側に答えがあるはずだ。しかし全く気配さえ現さないそれに、歯がゆさと苛立ちさえ覚えてしまう。


噛みしめるようにポツポツ語る月森の答えを、学長は白く蓄えた髭を弄びながら、ふむふむと頷いている。


『弓とヴァイオリンの関係もそうじゃ。弓が呼び起こし弦が答える側、二つで一つ。相反する互いがそれぞれに役割を持ち、親密な関係とバランスの上に成り立っている。そういえば、弓とヴァイオリンは男性と女性を象徴しているのは、知っているかな?』
『は!? あ・・・・いえ・・・・その・・・・・』


返す言葉が見つからずに、言葉を濁らせた。頬の辺りが次第に熱を帯びるのが分かる。
突然何を言い出すのか、この人は。いや・・・知ってはいたけれども・・・。
しかも俺の心を見透かしたように、思いもかけない所で確信を付いた事を言ってくる。
油断ができない点で同じなのは、やはりあの教授にこの師匠ありなのだと、妙に納得してしまう。


二つで一つ・・・。
違う役割を持った互いの、親密な関係とバランス・・・。


木霊のように心の中に何度も響き渡りながら、ゆっくりと言葉が染み渡っていく。
意味するものは、決して音楽の事だけではないのだという事も・・・。


『健全な私欲とは、自分に対する深い理解の上に成り立っているものだよ。全てを悪と決めつけて封じ込めるのではなく、たまには自分に正直に生きなさい。純粋な気持ちで自分自身に向き合った時、音楽はひとりでに歌い始める』
『純粋な・・・気持ち・・・・・・』
『深呼吸して、周りの景色を見てごらん。きっと心の目に、今まで見えなかった何かが見えてくる筈じゃ』