遙か遠き君へ・前編
ドイツの夜は早い。
日照時間の短い秋〜冬になると15時にもなれば早くも暗くなり始め、昼間と違い気温も2桁から1桁へと下がってしまう。その分夏などは、夜10時なっても明るいままのだが。
練習が終わって校舎を出ると、辺りはすっかり闇に覆われていた。右腕の時計を見ると時刻はまだ17時少し手前。
頬を切るように吹き抜けた冷たい風に一瞬肩を竦ませると、ヴァイオリンケースをしっかり持ち直して足を踏み出す。
季節だけでなく心にまで、鬱々とした冬の訪れを告げるような向かい風に耐えながら、リンデンの並木道の先にある正門を目指した。
大学の正門を抜けて、昼間とは違った雰囲気と賑わいを見せている街中を、駅を目指して足早に通り抜けていく。
視界を流れるように映る景色を見て思う・・・夜はベルリンを美しく見せると。
ドレスアップしてオペラやコンサートに行く者、煌々と輝き出すヴァリエテやナイトクラブの照明・・・・。闇の中から眠らない街ベルリンという、もう一つの顔が現れる。
近代的な建物やコンクリートの工事現場は闇に消え、アンティーク風なランプの灯りの中に写し出されるシルエットに、“黄金の時代”と言われた20年代の妖しい面影がよみがえってくるようだ。
自宅のあるダーレム駅に降り立ち、週末用の食料を調達するため駅近くの商店に立ち寄った。
閉店前の駆け込み客で溢れる店内には、勤め帰りの人が多く見受けられる。閉店時間に追い立てられて皆が殺気立って買い物しているし、混んでいるから店員も輪をかけて不機嫌だ。
法律で定められていることもあり、ドイツの店は日曜祝日は完全に休み、土曜日も午前中までの営業だ。この辺りの界隈も平日は18時で閉店してしまう。規則が緩やかになってきたようで、たまに遅くまで営業する日もあるが、開かないといったら開かないのがドイツの商店。だからどの家庭にも、食料の貯蔵庫が存在する。もちろん俺の家にの地下にも貯蔵庫は存在する。一人だから、殆ど使ってはいないが・・・。
誰しもが感じていると思うが、買い物するのに、なぜこんなにもストレスを感じなければならないのか・・・・。遅くまで営業していたり、24時間のコンビニがある日本が、この時ばかりは懐かしく感じてしまう。
早々に買い物を済ませると、大きく溜息を吐きながら店を後にした。
賑やかな駅前から数分もすると、今は闇に覆われた緑の中に閑静な住宅地が広がっている。
道の両側に立ち並ぶ家々の窓に、灯りがともっていた。きっと夕食や家族団らんの時間なのだろう。どの家庭も19時くらいまでには家族揃って夕食を済ませるから。灯りを囲み暖を取り、食事を楽しみ、話に興じる・・・。
それぞれの家庭の色を現して、一つ一つの灯りが違った色を醸し出しているように思えた。
どんなに足早に急いでいる時でさえここまで来ると、ついのんびり家の灯りを眺めながら家路に就いてしまうんだ。
「おかえりなさい・・・・・」
そっと呟いてくれているような優しい灯りは、まるでキャンドルの炎のように柔らかくて暖かい。
冷たい闇夜だけでなく、俺の心までも照らしてくれるようで、胸の奥からじんわりと広がってくるのを感じた。
優しさと暖かさと懐かしさと・・・・少しだけ、羨ましさと。
沸き上がる思いと同時に切なく締め付けられる感覚に、目を細めつつ・・・。
空っぽのメールボックスを確認して自宅の玄関扉を開けると、いつもように広がる真っ暗で誰もいない空間。
だからこそ余計に感じてしまうのかもしれない・・・・・・。
「灯が消えたような淋しさ」とは良く言ったものだ、と苦笑を隠せなかった。
調達した食料をキッチンへ置き、簡単に夕食を済ませると自分の部屋に引き上げた。
ヴァイオリンケースや鞄を置き、デスクの前に座るとパソコンを機動させる。
自宅で日本語を打ち込めるパソコンを使えるようになってからは、随分と楽になったと思う。
大学のコンピュータールームでもE−メールを送ることが出来るが、日本語は使えない。外国人が多い街といえども日本人はそれほど多くないから、街のインターネットカフェも日本語の使える店が殆ど無いのが実情だ。使える店を探し出すまでに、以前は随分時間がかかったな・・・としみじみ過去を振り返る。
数件の新着メールがあるとサインがあるようだ。
大学関係の連絡の他、出張中だという父や、海外公演中の母からなど、届いているメールを順にチェックしていく。
そして最後に・・・・・・。
「香穂子・・・!?」
思わず眼を見張った。
それまで何となく機械的に眺めていた画面を、目が覚めたように凝視する。
日本にいる香穂子からのメールだ。
一体どれくらいぶりだろうか。
前回彼女からもらったメールを返信して以来、すっかり連絡が滞ってしまっていたから。
きっと、寂しい思いをさせているかも知れない・・・。
押さえることが出来ない驚きと嬉しさで心が打ち震える中、奥底では罪悪感が交錯する。
ゆっくり深呼吸して気分を落ち着かせると、自らの心の鍵を開くような気持ちでメールの開封をクリックした。