聴衆に向かって・前編

街のビアホールを思わせる広さと開放的な雰囲気の中、お昼時で賑わう大学の学生食堂(メンザ)。
授業の緊張感から解放された学生達が、議論に花を咲かせながら、あるいはゆったりと自分の時間を持ちながら、ざわめきと雑踏の中でそれぞれの時間を過ごしている。


メンザの食事は「うまい・安い・バラエティー豊か」と言われているが、昼食を取る暇があるくらいなら勉強したいという学生には、構内のカフェテリアで軽食を取ることもできる。
「安い」はいいとしても味についてはメンザによって善し悪しがある。我慢できる程度にまずいと言うのが一般的だ。
それにメニューも数種類用意されているものの、毎日食べても飽きない程バラエティー豊かとは言い難い。


ドイツの食事は昼にボリュームのある温かいものを食べ、夕食は冷たくて軽いもの。パンとハム程度で済ませる事が多い。夏ならともかく、寒い冬に外から帰って冷たい食事が続くと、日本の食事が無性に懐かしくなったものだ。
日本でも一人の事が多かったから、毎日という訳では無かったが、毎食違う料理を用意してくれる日本の夕食の温かさは、心までも温めてくれていたんだなと思う。



『ドイツの伝統食“焼きソーセージ”を、どうやったらここまでマズくできるのか、教えて欲しいもんだね』


溢れそうなケチャップの海に沈んでいる、ボリュームのある焼きソーセージを頬張りながら、顔をしかめるヴィルヘルム。あ〜あ、付け合わせのポテトまで隠れちゃって・・・と嘆く彼。
その隣にいた友人のシュバイツが、フォークの先で皿の上のジャガイモ料理をつきながら溜息を吐いた。


『ここのメンザより、インビス(屋台)の方が断然美味いよな。でも腹にたまれば何でもいいって奴らは、たくさんいるし。俺ら学生には安いってのがありがたいぜ』



嘆きつつもしっかり平らげた上、おかわりまでしている彼らもまた、腹にたまればという強者なのだろう。
確かに街にある、日本でも馴染みのファーストフード店やインビス。それよりもパン屋のパンの方がいく分か美味しく感じると、この俺でさえ思うのだから。


同じような事を思いつつも黙々と食べ続ける月森を、向かいの席でテーブルに両肘をつきながら、ヴィルがしげしげと眺めていた。


『その点、レンは食べ物に執着なさそうだもんな。というか自分が興味あるもの以外には冷めてそうだし・・・。お前も食べているこの焼きソーセージの何が悲しいか、レンには分かるか?』
『・・・・・・こういうものだと思っていたんだが、違うのか?』


ポソリと呟いた月森の言葉に、二人が同時に目をむいた。
音を立てて勢いよく椅子から立ち上がり、二人ともテーブルから身を乗り出して詰め寄ってくる。


『おいレン! これがドイツの味だと思われちゃ困るぜ!』
『そりゃドイツの味って何だと言われると、特にベルリンは何でもアリだから困るけど。それよりレンも何年ドイツに住んでいるだよ! まったく・・・ちゃんと食事しているのか、不安になるじゃないか』


反論があれば食い付つかずにいられない、という議論好きは、ドイツ人の国民性だと諦めている。
しかし何も焼きソーセージにここまで熱くならなくても・・・と心の中で溜息を吐く。
今は、そんな話に付き合っている暇は無いんだ。


『すまない、先に失礼する』
『あっ・・・おい、レン!』


月森はトレイを手に取り椅子から立ち上がると、いまだ賑やかな人混みの中へと、次第にその姿を隠してゆく。
まだ話が・・・とわめき散らす二人の声を背後に聞きつつ、メンザを後にした。




ひとり静かになりたい時には、講義棟裏の緑地に散策に来る。もちろんヴァイオリン専攻の溜まり場を避けて。
昔は狩猟場だったこの広大な森の奥地には大学構内に関わらず、小さいながらも自然の池が存在する。
もはや規模の大きな公園といった方がいいかもしれない。


昔から、水のある場所が好きだった・・・・・。
河あるけれども海の遠いドイツで、俺にとって水辺は貴重な存在だ。
だから心を落ち着けたい時や、考え事をしたいときには、決まってこの場所にきていた。


こぢんまりとした湖には、どこか清浄さと静けさが漂っているように感じる。
月森は湖を眺められる木陰のベンチに座りながら、膝の上に譜読みの為の楽譜を広げていた。


短い夏が終わると、夏よりも更に短い秋が駆け足でやってくる。
数日前までは厳しかった残暑もすっかり勢いを弱め、木陰から差し込む木漏れ日も柔らかく、長い陰を手元の譜面に落としていた。あと半月もすればこの一帯の緑も黄金色に染まり、敷き詰めたように広がる落ち葉が日差しに煌めいて、絵画のように幻想的な光景を見せてくれるだろう。


突然さっと吹き抜けた風が木々のざわめきを呼び起こし、手元の楽譜を空へと攫おうとしていた。


「・・・・・・!!」


ハッと気付いて、慌てて舞い散りかけた楽譜を手で押さえる。安堵で胸を撫で下ろすと、同時に譜読みをするつもりだったのが、まったく頭に入っていないことにも気付いた。


何をやっているんだ俺は・・・・・。


月森は屈み込むように、頭を項垂れた。
先日からずっと、この調子だ。他の事で集中力を切らして、結局手に着かなくなってしまう。
レッスンで教授から指摘された、自分の持つ音楽の二面性。
OFFの時にあってONの時に無いもの・・・・・それは一体何だろうと、心に引っかかっているその事ばかりを、ここ数日考え続けていた。


月森は、自分の両腕をじっと眺めた。
この両腕から生まれる、俺の音楽・・・・・・・。


ヴァイオリニストがその右腕を通して自らの意思を伝え、知性と正確さは左手によって、更に感情は前腕からのヴィヴラートで表現をする。
エネルギー、テクニック、感情。3つの全てがバランス良くかみ合わさった時、初めて最高の演奏が出来るんだ。
全てを兼ね備えた演奏に出会えた奏者や、聴衆が心に抱くもの。
それが「感激」、あるいは「感動」なのだと思う。


演奏に手を加えなければいけないのか、自分自身を変化させなければいけないのか・・・・・・・。
恐らく自分自身だろうな。
感情を抜きにしては、どんなエネルギーもテクニックも全く意味をなさない。
胸に沸き上がる感情の鼓動が音色に響き渡ってこそ、聴衆を音色の一部として取り込めるのだから。


頭では分かっているものの、自分の事となれば見えない、分からないというのが現実だ。
今足りない「何か」に目覚めて、音楽に影響を与え出す。その瞬間がいつなのか、全く予想が出来ない。
考えれば考えるほど深みにはまっていくようで、抜け出せなくなっていく錯覚に捕らわれる。


「朝のこない夜はないんだよ・・・」


脳裏に、いつも口癖のように言っていた香穂子の言葉がよぎった。
どもまでも前向きで、眩しい笑顔を向ける彼女の・・・。
そうあって欲しい、早くこの闇かのような苦しみから抜け出したい。


以前にこんなにも心乱れたのは、いつだったろうか。
記憶を巡らすと、高校時代に催された学内の音楽コンクール期間だったと思い当たった。
あの時は香穂子の音楽が、そして彼女がいたからこそ、新たな自分と自分の音楽に目覚めることが出来た。


だが今は違う。
感じている壁は、恐らく高校時代のものとは比べようも出来ない程大きい。それに今は俺一人・・・・・・。
この苦しみを越えた時、きっと俺の理想とする音楽に近づける。
君の隣にふさわしくあるようにと、胸を張って言える男にになるんだと。
そう思うのに・・・・・。
両の手と心は、闇の中を彷徨ったまま、光の出口を見い出せない。


両腕に穏やかに降り注ぐ太陽の光が、暖かく俺の腕を包んでいく。
海を隔てた香穂子の想いが光の欠片となって、まるで無言の励ましをしているようだ。
そっと背中を包んで押してくれるような優しさが心に染み渡り、無性に切なくて、胸が苦しくなってしまう。


月森は降り注ぐ光の欠片を掴むように、両腕の掌を強く握りしめた。


『若者よ、せっかくの良い天気に深刻な顔して、何かお悩みかね』


鬱々とした空気を一瞬でうち破る、脳天気な声が目の前から掛けられた。
顔を上げると、白い髭を蓄えた初老の紳士が、にこやかに立って自分を見下ろしていた。
どこかで見覚えのある顔だと、相手の顔をじっと見つめる。
そういえば先日レッスンの前に、部屋の扉前で鉢合わせした・・・・・・・と記憶の糸を探り当て、思わず立ち上がった。


『・・・学長先生!』
『やぁ、レン。久しぶりだね』