音色の先にあるもの・後編

薄暗いゴシック調の室内に、小さな窓から差し込んだ光が絨毯のように照らしている。
部屋の中央に置かれた譜面台を前に佇む月森が、光のスポットライトを浴びながら、無心にヴァイオリンを奏で続けていた。
透き通る高音が空に吸い込まれ、艶のある深い低音は地へと染み渡る。切なく、時に情熱的に響き渡る音色が、中心部の月森から渦を巻くように溢れ出し、部屋の中を満たしていく。
いにしえの曲に命を吹き込むその様は、時を止めた館をも、当時のままの輝きへと甦らせるようでもあった。



音楽というものは、譜面通りに弾きこなす技術面を磨くより、表現力や音楽性を深めていく方が時間がかかる。
作曲家がどう表現したかったか、何を言いたかったかを理解する為に、膨大な時間を費やしているのだ。
まるで一歩一歩階段を上り詰めるように、曲に込められた魂へと近づいていく・・・。
その課程は苦しくもあるが、同時に楽しいと、やりがいを感じる作業でもある。


ここが違うと怒られ、翌日までにしっかりさらっても、今度は別の場所で「そうじゃない」と注意をされる。
日々そのような事の繰り返し・・・。


曲がフィニッシュを迎えて空気が余韻で震える中、弓が大きく弧を描いて降ろされた。
少し離れた所にある重厚な机の前で、腕を組みながら月森の演奏を聞いていた教授が、ゆっくりと閉じていた瞳を開いた。


『今日は、ここまでにしよう』
『ありがとうございます』


最後のダメ出しが無いことに、ホッと内心胸を撫で下ろし、月森はヴァイオリンを肩から降ろした。


『レンは、どんなヴァイオリニストになりたいんだね?』


なぜ先生は今更こんな事を聞くのだろう?と眉をひそめ、コツンコツンと響き渡る足音を目で追った。
足音は窓際まで歩み寄るとピタリと止み、くるりと月森を振り返った。
壁に寄りかかって窓からの風を顔の片側で受けつつ、部屋の中央に佇む愛弟子を静かに見つめる。


逆光で表情が見づらいだけに、相手の真意が計りかねる。
それでも、言わなければ伝わらない。
腹のさぐり合いなんて自分には無理な話だから、真っ直ぐ見据えて自分の考えを述べることにした。


『いつも相手の心に響く演奏がしたいです。伝いたい気持ちが届くように、誰かに何かを伝えられる演奏がしたい』
『だいぶ昔の君だったら、聞けなかった答えだ。レンに、それを教えてくれた人がいたのかな?』
『はい・・・・・・』
『素敵な女性に出会えて良かったな』
『な・・・何で分かるんですか!?』


何も言っていないのに、何故分かったのだろう。しかし正直に返してしまった事に気づいて、慌てて我に返る。
はめられたかもしれないと、照れのあまり顔が赤く染まっていく。
そんな月森の様子をくっくっと面白そう肩を揺らして、悪戯っぽく返す教授。
月森は真っ赤になりながらも、真っ向から睨んではねつけた。


隠しても仕方がない。
香穂子の事を根ほり葉ほり聞かれるのは困るが、俺に音楽の大切さや素晴らしさを教えてくれたのは彼女だ。
自慢すればこそ、隠すものは何もない。


『君を見ていれば・・・音色を聞けば分かる。こちらはプロだからな』


一体何のプロなのかと、思ってしまう。音楽の?・・・それとも?
答えの真意が分からないだけに、警戒心が強くなってしまう自分がいる。
相手が教授とはいえ、こと香穂子が絡めば話は別だ。
しかし話は、違う方に逸れたように見えた。


『想う人に音色を届けるのは大切な事だ。しかしプロのヴァイオリニストになるのなら、音色を届ける相手が1人だけでなく、世界中の大勢の心に届けなければいけないな。いつも、先程のような演奏を聞かせてくれればいいのだが・・・・・・』
『先程・・・・・・・き・聞いていらしたのですか!?』
『ここに居れば否が応でも聞こえてくる。伸び伸びした演奏だったと、学長も褒めていらしたぞ』


確かにヴァイオリン専攻の溜まり場は、この部屋の真下に当たる。演奏を聞くなという方が無理な話だ。
そこで、はたと気が付いた。演奏が違うとはどういう事なのだろう?
と同時にやはり・・・という思いが心をよぎる。
薄々自分でも気付いていた。
何かが足りない・・・。何かが違うと・・・・。


『今のレッスンと、先程の私の演奏が違うというのですね?』


ところが月森の質問には答えず、逆に違う質問を投げかけてきた。


『さてレンに質問だ。20世紀を代表する2大ヴァイオリニストといえば、誰だね?』
『ダヴィド・オイストラフとヤッシャ・ハイフェッツです』
『ご名答。ただしこの二人の音楽性は殆ど正反対の対極に位置している。』
『えぇ・・・一般論ですが技巧のハイフェッツ、それに感動のオイストラフと言われています』


「ソ連(ロシア)の巨匠=オイストラフ」と「ロシア生まれ・アメリカのスーパースター=ハイフェッツ」の二人は、キャッチコピーはともかく、ヴァイオリンに関心のある殆ど全ての人々に絶大な影響を与えた。


オイストラフの演奏は「あたたかい」「ロシアの大地を思わせる雄大さ」などと評される事が多く、反対派をそれほど生み出さないのに対して、ハイフェッツの演奏は「冷たい」「あまりに技巧的」と非難されることもあった。
オイストラフの音楽が「癒し」をもたらすとすれば、ハイフェッツの音楽は、どちらかと言えば感情を高ぶらせる場合の方が多い。


優秀な弟子を数多く育て後生へと残したダヴィド・オイストラフ。孤高・孤立のヤッシャ・ハイフェッツ、と人生においてもひどく対照的な二人でもあった。


『理想像を挙げるとすれば、この二人の融合体という所だろうな・・・・』
『二人のヴァイオリニストと、私が何か関係があるのですか?』
『大ありさ。偉大な二人に例えるなら今のレッスン、いや授業や公の場で奏でる君の音色は、まさしくハイフェッツのものだ。競争から解放されて、オフで奏でる音色がオイストラフのものであるようにね』


月森は驚きに目を見開いた。
偉大なヴァイオリニストに例えられて、一見嬉しいはずなのだが、言われている事はかなり皮肉で辛辣だ。
いつのまにか、昔の俺の演奏に戻っているということなのだろうか・・・。
技術ばかり・・・学ぶことに専念しすぎて、聴かせる事を忘れていると?


胸が、きりきりと見えない紐で締め付けられいくように感じた。
息が詰まる苦しさに、思わず眉根を寄せた。


『レンの音色からは強固な意志が感じられる。それは大切なものだ、間違いだとは言わない。ただ音楽は手段ではないと、レンの大切な人からも教えて貰ったのではないか? 行為自体が芸術と化しすぎているのは、君の本意ではないだろう?』


教授は壁から身体を起こすと、月森の方へと向き直った。
暗闇に敷かれた光の絨毯の上を、ゆっくりと歩み寄る。窓からの光を背負い、真っ直ぐに月森を見据えて・・・。
足音が大きく耳に届くに連れ、逆光だった表情が次第にその全貌を表していく。



『私が全て答えを言ってしまうのは簡単だが、それでは意味がない。レンも納得しないだろう?』
『私はどちらのヴァイオリニストにもなりません。私という・・・月森蓮というヴァイオリニストになります』


あくまで教育者としての堅い表情を崩さない、教授の瞳をまっすぐ見つめて己の意志と決意を述べる。
自分自身にも、改めて言い聞かせるように・・・。
月森の琥珀の瞳の奥に、熱い炎が宿った。


『音楽は、君の血の中にあるんだ。探している答えは、君のすぐ側にある』


俺の血の中に・・・と先生が指さす先は、激しく脈打つ鼓動。
心臓の上にピタリと当てられた、人差し指の銃口が、俺を真っ直ぐに射抜いた。






『レン・・・・』
『何でしょう? 先生』


部屋を出ようとした所で背中に声を掛けられて、月森はドアノブを手にしたまま、くるりと振り返った。


『いや・・・何でもない。そうだ、一つだけレンにヒントをあげよう。レッスンだけが、音楽ではないぞ』
『失礼します・・・・』



いい瞳だ・・・・・・。
バタンとドアが閉まり、悩める教え子の姿が消えた後も、教授は閉まった扉をじっと見つめていた。
コンサートマスターと国際コンクールの件は、もう少し後にした方が良さそうだな。
この調子なら、きっとすぐ答えを見つけるかも知れないから・・・・。