天使の舞い降りる場所・7
三時間くらいでお開きになる日本の披露宴と違い、ドイツの結婚披露パーティーは。朝の3時や4時まで延々と続くのが普通だ。招かれた方も、あまり早くかえると失礼になるので、午前1時くらいまでは残っていた方が無難とされている。
右腕の時計をちらりと見れば、時刻は午前0時を回ったところ。
しかし大広間は静まるどころかさらなる賑やかさをみせていた。
よくこんなにも騒ぎ続けていられる力があるものだと、驚きを感じずにはいられない。窓辺にあるテーブルに戻って、逞しささえ感じるゲスト達の様子を、腕を組んでぼんやりと眺めながら、大きな溜息が溢れてくる。
目の前に座っている香穂子は両手にしっかりと、もらったブーケを抱えたまま瞳を閉じ、こくりこくりと規則的に頭を揺らしながら眠りの海を漂っている。彼女が花の中に顔を突っ伏しそうになる度に俺は、はらはらしながら見守っていた。
彼女も慣れない雰囲気の中で、疲れたのだろう。
このまま椅子から転げ落ちないうちに、早く部屋に戻って休ませないといけないな。
さすがにパーティーの終わる明け方まで残るわけにもいかないし、もう夜中だ。
退出しても失礼には当たらないだろうし。
それに、さすがに俺も・・・少し疲れた気がする・・・・。
俺のジャケットの胸元には、香穂子の持つブーケと同じ花で作られた、一輪のバラで作られたブートニア。
パーティーが終わるまでは絶対に外してはいけないと、皆に釘をさされたので取るわけにもいかず、結局このままだ。それに新郎新婦から二人でこれを受け取った後に学長先生が現れて・・・・。
『おや、今度はレンの結婚式かね』
と嘘か本当か笑えないジョークで俺達の前に現れ、良い機会だからと香穂子共々片時も離してもらえずに、学長先生と一緒にいろいろなゲスト達に挨拶をする羽目になってしまったのだ。
先生に香穂子の演奏を聞いてもらった上に、彼女を紹介できた事は喜ばしい。
だが、さんざんふりまわされた事を思い出せば、再び大きな溜息が漏れてくる。いずれこれをネタに、授業やレッスンでもからかわれるに違いない・・・・。
椅子から立ち上がると香穂子へ歩み寄り、そっと肩に手を乗せる。屈みこんで耳元に語りかけながら彼女の肩を優しく揺さぶった。
「香穂子・・・起きてくれ。そろそろ部屋に戻ろうか」
「・・・・・・ん〜っ・・・蓮くん。・・・ごめんね、私ずっと寝ちゃってた・・・」
「気にしないでくれ、疲れただろう。後は部屋に帰って、ゆっくり休もう」
欠伸をかみ殺して滲んだ涙を指先で拭うと、まだ半分眠りの中にいる、とろんとした瞳を向けてくる。起きたてで力が入りきらないのか椅子から立ち上がりざまに、ふらついて僅かによろけてしまう。
危ない・・・!
よろけた身体をとっさに捕らえて、抱きとめる。
腕の中にすっぽり収まる華奢な彼女の、柔らかく温かい感触がドレスの薄い布地越しに伝わり、身じろげは鼻先と息が触れる程目の前に迫った彼女の表情に、思わず息が詰まる。
眠さのせいか、ぼんやりと向ける蕩けた瞳が大人っぽい色香さえ漂うようで。
「だ・・・大丈夫か?」
「う・・・うん、平気。蓮くんありがとう」
大きく間近に迫った月森の瞳に驚いたのか、香穂子の頬が赤く染まってゆく。
歩けるか? と心配そうにそう聞けば、今のでぱっちり目が覚めたと照れくさそうに、笑顔で返してきた。
新郎新婦とヴィル、それに学長先生に退出の挨拶をして、まだ賑やかさの冷めやらない大広間を後にした。
ホールを出れば、背伸びをして気取る必要も無い。肩肘張らずに俺たちらしく、いつもどおりに。
来た時と逆、白い大理石のアーチを潜って大きな扉を抜けたところで、香穂子がエスコートの為に俺の腕に絡めていた手をするりと解いた。ほっとしたような笑みを浮かべて、片手にブーケを持ったまま思いっきり伸びをする彼女に、俺まで気持が安らぎ肩から力が抜けていくように思う。
手の平を差し出せばそっと温かい手の平が重ねられ、互いの心を握るようにしっかりと指先から絡めてゆく。
人気の無い、静かな赤い絨毯の敷かれた長い廊下には、暗闇の中に点々とオレンジ色の照明が星のように灯り、幻想的なまでに描き出している。壁に飾られた絵画や彫刻、18世紀に作られたというアンティークな家具類は煌々とした明りの中よりも、その時代と同じようなほのかな灯りの中でこそ、真の姿を表すようだ。
それは彼らが持つ不気味に生々しい程の息吹と、リアルな存在感。
いつの間にか口数の少なくなった香穂子が、握る手にぎゅっと力を込めてきた。
どうした事かと彼女を見れば、静かに前を見据えたまま、顔が僅かに強張っているように見える。
もしかして・・・そう思ったら、彼女には失礼だが、何だか微笑ましさが込み上げてしまい、笑いを堪えながらも安心させるように優しく手を握り返した。 何で分かったのかと驚きに目を見張るが、始めは必死に誤魔化していたものの、やはり勝てなかったようで。ふいと視線を逸らしつつ、ごにょごにょと小さく口篭る。
やがて、遠く先の角で突然現れた屋敷の使用人の姿にビクリと身を竦ませると、恐る恐る俺を見上げてきた。
「香穂子、この暗闇が怖いのか?」
「えっ!? そ、そんな事ある訳・・・あるわけ・・・・えっと・・・うん、ちょっとね。ぼーっと光って綺麗なんだけど、真っ暗で誰もいないし。昼間は平気だったんだけど・・・何かね、絵に見られている気がするっていうか・・・。ほら! 古い洋館とかお城って、いかにも出そうな気がしない?」
テーマパークのお化け名屋敷みたいで、ドキドキするの、と。
窓からの月明かりと廊下のほのかな照明に照らされながら、眉根を寄せて真剣な顔で見つめる香穂子。
すまない・・・限界だ。
そう心の中で詫びつつ、笑いが溢れる程込み上げてしまい、堪えきれずに噴出してしまった。
「ぷっ・・・・!」
「あっ、蓮くん酷〜い、笑った! 私一人だったら、絶対にお部屋に戻れなかったかもって。蓮くんいてくれて良かったって、本気で怖かったのに!」
「い・・・いや・・・すまない。君にも怖いものがあったんだなと、そう思ったらつい・・・・・・香穂子が可愛いと思ったんだ。」
「なっ、ちょっとそれどういう意味!」
「大丈夫、俺が側にいる。周りを見るのが怖いなら、ずっと俺を見ていてくれて構わないから」
悪戯っぽくそう言えば、夜目にも分かるほど顔を紅潮させ、握る手にも熱が次第に篭っていく。
蓮くんなんて知らない!と、頬を可愛らしく膨らませて顔を背けるものの、言葉とは裏腹に握った手には更に力がぎゅっと込められるのは、やはり暗闇が怖いからなのか。それとも恥ずかしさゆえか・・・。
「もう〜。怖いのどっか飛んでっちゃたよ」
「それは良かった。いや・・・強く手を握り締めてくる君に、ずっと見つめていて欲しかったから、俺は少し残念かな」
クスクスという笑い声が、静かな空間に吸い込まれていく。
暗く冷たい暗闇が、温かく安らぎをもたらすものへと、少しずつその姿を変えていく・・・そんな気がした。
余韻が消えて再び静寂が訪れたところで、香穂子がぽつりと呟いた。視線を向ければ、胸の前に掲げた真っ白いブーケに、愛しむやららかい眼差しを向けている。
「すごく・・・嬉しい・・・」
「香穂子?」
「今日1日でたくさんの幸せをもらっちゃったよ。イリーナさんにゲオルクさん。ゲストの皆さんも、裏で頑張ってくれたヴィルさんも」
「彼が忙しくて俺達に構えないと言っていたのは、根回しの為だったんだな」
「ふふっ・・・怒っちゃ駄目だよ、蓮くん。私たちの為にって、せっかく走り回ってくれたんだからね」
眉根を寄せて顔をしかめる俺を隣からぴょこんと覗き込み、鼻先をくすぐるように手に持ったブーケを向けてくる。そうだな・・・感謝しなければ。そう言って微笑み返せば、香穂子の笑顔も甘さを湛えて一層深さを増していった。
「日本に帰る前に、いい想い出ができたよ。花嫁さんからもらったこのブーケ、日本に持って帰りたいけど枯れちゃうよね。どうしよう・・・・せめて葉っぱと花びらを数枚だけとか、リボンだけでも持って帰ろうかな」
「俺も・・・まさか男の俺までもらえるとは思っていなかったから驚いたけど、君と一緒でとても嬉しいよ。思い描いた夢に、一歩近づいた気がした。この胸の花も、大切に保存しておく事にするよ」
「夢の中にいるみたい・・・すごくいい夢。でも夢じゃないんだよね。これを希望にかえて、いつか本当に叶えたいなって思っちゃった。また暫く離れちゃうけど、絶対に頑張ろうって力が沸いてきたよ」
「夢の中・・・か。今がまだ夢の続きなら、俺達が歩いているこの廊下の赤い絨毯が、俺達にとってのヴァージンロードだといいな」
「れ、蓮くん・・・・・・」
恥ずかしさのあまりに、火が噴出しそうな程に顔を真っ赤に染めて俯いた香穂子が、きゅっと握った手に力を込めながら、うん・・・と小さ頷いた。くすぐったい温かさが心に湧き、愛しさとなって身体中を駆け巡る。
今だけは、夢の中に。
このまま冷めなければいいと・・・。その思いは俺とて同じ。
夢に浸り、漂う甘い花の香りに酔わされながら。
そう、だからきっと酔っていたのかも知れない。
心の奥に潜ませていた微かな本音が、勢いで大きく顔を出したのだと。
「香穂子・・・・」
「なぁに、蓮くん」
「君が大学を卒業したら、俺の所にこないか?」
「えっ・・・それって、どういう意味?」
「あ・・・・いや、その、深い意味は・・・。ただ闇雲にお互い離れているよりも、確実なゴールがある方がいいのではと、今回君を呼び寄せた事でそう思ったんだ」
蓮くん、日本に戻ってこないの?と、香穂子がきょとんとした瞳を向けてくる。
しまった、つい勢いで。
そう思ったが一度開いた心の門はそう簡単に閉じる事が出来ず、想いとなって溢れ出て行くばかり。
「日本には戻るよ・・・いずれは。だがきみが卒業しても、俺が大学で全てのセメスターをと専門課程を終えるまでにはさらに数年かかる。正直何年先になるか分からない・・・その間ずっと君を一人待たせたままだ」
「私は、蓮の事を待ってるよ」
「俺も香穂子を信じてるさ。それにプロになるならない以前に、ヴァイオリンはこちらでも学ぶ事が出来る。君の演奏を聞いた学長先生がいつでも訪ねて来いと、そう言っていたじゃないか。もっと伸びる事が出来る筈だ」
とは言うものの俺が君を手放したく無いだけの、我侭に過ぎない事は分かっている。
君に甘えている事も・・・。
月森が切なげに瞳を細めて熱く瞳を射抜けば、打たれたように真っ直ぐ見つめ返す香穂子が、困ったように微笑んで、視線を逸らした。
「・・・まだ、良く分からない・・・」
「香穂子・・・・・」
「あっ、あのね。嫌だって言っているんじゃないの。嬉しい、凄く! 本当はね、このまま帰りたくないもの。ただ気軽に返事しちゃいけない気がしたの」
ショックを与えてしまったらどうしようと焦った香穂子が、必死になって言い繕い、心を伝えようとしてくれる。
自分よりもまず俺を思いやってくれる、彼女の心使いが痛いほど伝わってきた。
「ドイツに来たの初めてだし、まだそんなに日が経ってないけど、みんなとてもいい人たちばかり。自然と溶け合った街の雰囲気も、音楽に溢れている事も大好きだよ。また着たいって思うもの。でもね、ちゃんとこも国で私の居場所を見つけないと、何も出来ずに蓮くんのお荷物になっちゃう。そうしたら一緒にいても、きっとお互い独りぼっちだよ」
「俺の方こそ、突然すまないな」
「あ・・・私の居場所はいつだって蓮くんだからね・・・って、私何言ってるんだろう。言っている事が滅茶苦茶だね。少し動揺しているのかな」
「混乱させたのは、俺の方だから。君と離れたくなくて・・・ずっとこのままでいたくて、つい甘えた事を言ってしまった。この国で、香穂子が自分でやるべきことを見つけたい、そいうことだろう?」
「うん。でも、でもね。前向きに検討中だよ! 蓮くんに向かって真っ直ぐ一直線にね。まだ美味く整理できなくて・・・うまく言葉に出来ないけど、ちゃんと私の気持を伝えるから」
待ってて、そう言って澄んだ輝きを湛える大きな瞳が真っ直ぐに見上げてくる。
彼女に答えを求めさせるような事をして、卑怯だ・・・俺は。
ヴァイオリンの成長を望むのも本当の気持だ。出来るなら俺が師事したいと願う学長先生自らが、香穂子の音色を見初めてくれたのだ。だたし、これはきっかけにしか過ぎないのだ。
彼女を側にと強く望んでいるのは自分なのに。
俺からきちんと彼女に、揺るがない意思と想いを伝えなくてはいけないのに。
空いている方の拳を強く握り締め、心の中で激しく悔いた。
確かに、香穂子の言う通りだと思う。
例え望むように君を呼び寄せたとしても、まだ俺自身には、君を守りきるだけの地位も身分も、何も無い。
この手に掴まなくてはいけないものが、あるのだから。
今・・・はっきりと分かった。
自分が何をすべきなのか。
夢を夢で終わらせない為に。
全ては、そこから始まるのだと・・・・・。