一つのヴァイオリンのように・1

ここは蓮くんの通う音楽大学。


石壁にはめ込まれた白い木枠の窓を開け放った学長先生が、所在無げに佇む私に深い皺の奥にある瞳を細めて、外を覗いてご覧と笑いかけてくる。差し込む日差しに白髪が照らされて、光ごと溶け込んでいるようだ。
品の良さそうな老紳士、というよりはどこか少年っぽさを残した無邪気さが漂い、何と言うか私が言うのも失礼な話だけど・・・可愛らしい人だと思った。例えるなら、近所に住まうお爺さんといった感じ。

光のように親しみがあって温かく、それでいてどこまでも深い・・・。
きっと学長先生の音楽もこの大学も、キラキラして素敵なんだろうな。


蓮くん、いい場所で音楽が学べて良かったねと、心の中で彼にそっと呼びかけた。


連られて小さく笑い返すと窓辺に歩み寄り、木枠に手を置いてそっと身を乗り出すように外を見る。
暗さに慣れた目が、眩しい外の光を吸収するまでに少し時間がっかったけれども、思わず瞑ってしまった瞳をゆっくり開ければ、大学の構内とは思えない程の、美しい大きな自然の景色が広がっていた。


手入れの行き届いた芝生と、あたり一面に茂る茂る菩提樹の木。更に奥には大きな深い森が見えて。確かあの森中に、小さいけれども綺麗な湖があるのだと聞いたことがあった。春の緑や秋の紅葉が美しくて、心が休まるのだと、水辺が好きな蓮くんのお気に入りの場所らしい。


どうやらここは机での講義や個人レッスンをする建物のようで、耳を澄ませばいろんな楽器の音色が響いてくる。ピアノ、オーボエ、チェロ、フルートヴァイオリン・・・・・・。

特に一番耳に心地良く響いてくるヴァイオリンの音色。
間違いない、この音は・・・・・。


『蓮くんの、ヴァイオリンの音がする!』
『おぉっ、さすがカホコ。音だけで分かるんじゃな』
『はい。どんなに離れていても、沢山の中からでも、彼の音色は直ぐに分かるんです』
『レンが今レッスンをしている部屋は、この真下なんじゃよ』
『本当ですか! すごく近くから音がするって思っていたけど、まさかこんな近くだったなんて。でも嬉しい』


自信たっぷりに月森を音を当てる香穂子に、学長はウインクをしながら真下の部屋だと指を指し示す。すると、ぱっと笑顔を輝かせて窓から身を乗り出し、下の階を見下ろして様子を伺おうとする。落ちたら危ないからと優しく引き戻された香穂子は、すみません・・・と顔を赤く染めて肩を竦ませつつ、へへッと小さく舌を出した。
元気のいいお嬢さんだと笑う学長の頬も緩んで、うんうんと頷きながら、一層皺が深いものとなってゆく。




クリスマスが終わり、ジルヴェスターを経て新年が明ければ、翌日から変わらぬ日常が戻ってくる。日本では年の初めを大切にしてゆっくり休むけれども、クリスマス休暇だったり盛大なジルヴェスターだったり。こちらは年の終わりを大切にするような気がした。

私は大学の冬休みギリギリまで蓮くんの所にいるけれども、彼の方が先に抜けられないレッスンや講義が始まってしまい、彼が大学に行っている間は家で一人お留守番。私は誰もいない広い家の中で、一人彼の帰りを待ちながらヴァイオリンを弾いたり、掃除や片付け物をしてみたり。
何かをしている時は気が紛れるけれども、ふとした空白の時間にどうしようもない寂しさを感じてしまう。


もうすぐ帰らなきゃいけないのに、家で一人ぼっちで彼を待つのは寂しい。
だからパーティーで会った蓮くんの大学の学長先生が「いつでも訪ねて来い」という言葉に、さっそく甘えさせてもらう事にした。同じ大学内に少しでも蓮くんと一緒にいられるかもしれないし、どんな場所で音楽を学んでいるのか、この目で見てみたいってずっと思っていたから。

もう一度会ってお話がしたいと蓮くんに言ったら、嬉しそうにすぐさま連絡を取ってくれて。
彼がレッスンや講義をしている間は、私の身を学長先生が預かってくれる事になったのだ。




それに・・・・・・。
胸の中に湧き上がった、上手く言葉に出来ないもどかしい想いの数々も、整理されてすっきり出来るかな。
絡まった糸のようにこんがらがってしまった心の糸を解しながら、本当の気持を必死に探り出そうとしている。
心に過ぎるのは、パーティーの時に、蓮くんが私に言った言葉。


「大学を卒業したら、俺の所に来ないか・・・・」


でもあの場ですぐに、返事が出来なかった。本当は凄く嬉しくて、今すぐにって言いたかったのに・・・。
考えすぎかもしれないけれど、だって・・・何だかプロポーズの台詞みたいだったから。


誰もいない広い家の中で、ふと思ったの。
もし蓮くんの所にこのままいたら、ずっとこんな感じなのかな。
彼の帰りを待ちながら、私は気ままにヴァイオリンを弾いて。


以前は一人で背を向けて旅立ってしまった彼が、今度は私も一緒に・・・共に歩いていこうとと、手を差し出してくれたのだ。それだけ身も心もヴァイオリンも、大きなって余裕が出てきた証なのかも知れない。私なんて今だけで精一杯なのに、蓮くんは自分の事だけでなく私の事まで、いろんな事をずっと先まで見ているんだなって思った。だからだろうか、時折蓮くんが大人に見えてくる。



学長先生が、現役を退いたとはいえ今も影響力のある、20世紀を代表する名ヴァイオリニストだと言う事は蓮くんから話を聞いていた。きっと蓮くんは、私が更に上を目指す気になったのだと思ったかも知れない。


ヴァイオリンは大好きだから、ずっと続けていきたい。
けれども、彼のようにプロになりたいわけじゃない。というか、なれないだろうし。
私の目標は蓮くんだった。それ以外にヴァイオリニストとして目指すべき明確な目標があるわけでもないから、この先ヴァイオリンとどう付き合ったらいいのか分からなくて。

本当にこれで良いのかな?
彼に寄り添い、同じ夢を掴むためには、私は何をしたらいいんだろう・・・。
一体私は、何がしたいの?


何で今更こんな事を考えるんだろう。
いや、今だから考えるのかもしれない。
彼が投げかけた言葉が、私の中に眠る心を呼び覚ましたのだ。



呼びかけられたような気がして、考え事の深い海から一気に意識が浮上した。


『・・・・っ!!』
『カホコ、大丈夫かい? ワシがいろいろと広い構内を連れまわしてしまったから、疲れてしまったかな?』
『えっ!? あ・・・はい、大丈夫です。すみません私ったら、つい、ぼーっとしちゃて。・・・綺麗だなって思ってて・・・自然がいっぱいで、どの建物も昔のお城や宮殿みたいだし、ここが大学の中とはとても思えません』
『ここは昔、プロイセン帝国の狩猟場を兼ねた離宮だったんじゃよ。当時のままの建物がいくつも残っておる。ここはワシの研究室なんだがお気に入りでの。気に入ってくれて嬉しい』
『懐かしいな〜。蓮くんと通っていた高校にも、緑が広がる森の広場があったんです。そこで、ヴァイオリンを演奏したり、合奏したりしました。蓮くんが羨ましい・・・こんな素敵な環境で音楽が出来るなんて』


ハッと気付くと、学長先生が心配そうに私の顔を覗き込んでいて。お茶を出そうかとか、椅子に座るかいとか気を使ってくれる。何かあったらレンや、君を気にって入るイリーナ嬢に顔向けができんと、真剣な顔で眉根を寄せながら。高鳴る動悸を抑えつつ、精一杯の笑顔で大丈夫ですとそう言えば、良かったと頬と瞳を綻ばせて。
休もうかと部屋の奥にあるソファーに誘ってくれたけれども、静かに首を振った。

この窓辺がいいのだと。
もう少しこの景色を眺めながら、彼の音を聞いていたいから。



『この建物は講義棟と言って、大講堂と並んで最も古い建物の一つじゃ。築150年は経ってるかのう? 一階が主に器楽科の学生が理論や楽典を学ぶ教室。二階と三階が、講師や教授達の研修室兼レッスン室になっておる。完全防音設備のレッスン室もあるんじゃが、皆こちらの部屋がいいらしい』
『そのお気持分かります。古いけど、昔ながらの伝統が息づく重厚な空間が、素晴らしい音響を生み出してる気がするんです・・・蓮くんの音を聞いていると、ヴァイオリンが生き生きしているというか。それに、壁に囲まれた部屋よりも、自然に囲まれた方が素敵な音楽ができそう』


心の中に音楽がキラキラ溢れてくるの。音色にしたくて堪らない感じ。
大学の中だけじゃない、森の中や街の至る所にも音楽が溢れいていて・・・・・・・。
蓮くんが、日本に帰りたがらないの・・・分かるな〜。
ずっとここにいて音楽したいって、私も思うもの。


私たちのいる部屋のちょうど真下の芝生には、学生達が集っているのが見える。木陰で本を読んでいたり、数人で何かの議論に白熱していたり。輪になって集い、ヴァイオリンを弾いていたり。
学び、競い合いながら広く深く音楽に触れ、真剣だけれども、誰もが音楽と一体となって楽しんでいる。

蓮くんも輪の中に混じって議論したりヴァイオリン弾いたりするのかな。
でも彼の事だから人ごみから一歩離れて、木陰で本読んでそうな気がする。
それを無理やりヴィルさんが引きずり込むから、顔をしかめて嫌がりつつも頼まれたら嫌と言えないとか。
・・・・・・ありえそう。


思いを馳せてふふっと小さく笑う私に気付いた学長先生が、視線の先を追って窓の下を覗き込んだ。


『講義棟の裏手は、ヴァイオリン科の溜まり場なんじゃ。あの輪の中心に立って、大きな身振り手振りで話しているのは、ヴィルヘルムくんではないかね?』
『あっ、本当だ。私たちには、気が付かないみたいですね。みんなプロになる為に真剣なのに、でもすごく生き生きして楽しそう。ふふっ・・・蓮くんも音楽や大学の事を話す時、とても楽しそうなんですよ』
『芸術の分野ほど、人間の成長過程がはっきりと映し出されるものはない。若者と呼ばれる17歳から大人になった後の35歳くらいまでの間は、特に成長の著しい時期じゃ』


集う学生達に気が付くと眼差しを愛しみに溢れた深いものに変えて注いでいる。
見守るように、励ますように、まるで大切な我が子を見つめるように。


『本当の自分と言うものを各自が熱心に捜し求める時期であり、演奏家や作曲家、画家や詩人など芸術を通して自分の想いを打ち明けようと、誰しもがやっきになる』
『本当の・・・自分?』
『生徒からプロの演奏家へと移り変わる過程で、ヴァイオリニストたちは自分に何を見出すのか。ここに集う者たちも、必死に自分自身を探そうと日々模索しておるのじゃ。まさに生みの苦しみ・・・一番苦しい事かもしれん』
『きっと蓮くんも苦しんだんでしょうね。でも彼は答えを見つけた・・・だから今、私がここにいるんだと思います』
『彼は幸せ物じゃな。カコホのように、こんなにも真っ直ぐ信じて見守ってくれる者がいるのだから』


静かに語る私を見下ろす学長先生の瞳を真っ直ぐ見つめる。


『人は自分よりも相手の為に力を発揮する。その者の為に頑張ろうと思うのじゃ。確かにレンも悩んでいたよ、それについて一言二言口を挟んだ事もあったがのう。だが彼は自分で答えを見つけた・・・君という答えをね』
『・・・・・・・・』
『・・・カホコ、どうしたのかね?』


嬉しさのあまり込み上げてくる想いが胸がいっぱい溢れてきて、言葉にならない程だった。
それなのに、焦りと苦しさに潰されそうになるのはどうしてなんだろう。
彼は見つけたけれども、私がまだ答えを見つけていないから?
自分が何をすべきなのか、分からないから?


彼が何を求めて、どんな意味を込めてあの言葉を私に言ったのか、熱さで焦がされる程に伝わってきた。
出来る事なら、彼の想いに今すぐに応えたいのに・・・・。


どうして今更・・・何で
私は一体、どうしたらいいんだろう。


『・・・・・・カホコ?』
『・・・分からないんです・・・私も・・・自分自身が』


苦しさで掻き毟るように両手で胸を押さえながら、吐き出すように呟いく。
言葉を続けられずに黙って俯く私の両肩に、温い手の平がそっと重ねられた。