天使の舞い降りる場所・5

ワルツが終わった大広間では祝福と温かさの余韻が残る中、大役を果たした新郎新婦が腕を組んで寄り添いながら、ゲストの間を縫って談笑している。
幸せそうな二人を囲むように人々が集い、溢れる笑顔。
新郎新婦も招待客も、結婚を機会に旧友や親族と再会し、一夜の宴を楽しもうという感じが強い。





そして、どうやらヴィルの言う通りになったようだ。

演奏前は誰も俺達の事なんて気付かなかったのに一歩ホールへ足を踏み入れた途端、顔も名前も知らない人々から挨拶をされたり話しかけられたり。人々に囲まれるたびに彼の言葉を思い出して、香穂子を一人にしておけないと内心警戒する俺と、雰囲気で察知したのか絡める腕にきゅっと力を込めて、私はここだよ・・・と伝えながら心配そうに時折俺を見上げる君。

しかしあまりの差に驚き戸惑う俺達に向けられたのは、予想とは全く違うもので。
誰しもが贈るのは心からの賛辞と、そして君達にも祝福がありますようにと・・・。
温かい言葉と、純粋な祈りに満ちたものだった。


見ず知らずの人々から俺達に向けられる、祝福と祈りの言葉が照れくさくて、くすぐったくて。
困ったように瞳を向けて絡み合う君との視線も、どこか甘くはにかんでしまう。

きっと二人で奏でた音色が・・・重なり合った心のハーモニーがゲストの皆にも届いたのだ。
今向けられているものは、まさしく俺達が投げかけた想いそのものなのだから・・・。
彼らの胸に宿った想いが更に大きくなって俺達に投げかけられるそれは、まさに演奏者と聴衆との間に生まれる心の会話。


けれども俺だけ喜んでいては駄目なんだ。君はどう思っているだろうか・・・・。

言葉無い声で呼びかけられた気がしてふと視線を向ければ、見上げてくる幸せいっぱいの笑顔。
笑顔が、輝く瞳が・・・そして内面から滲み出る全ての想いが物語っているのは、香穂子の気持。
心の底でいつか・・・と願っていた理想に少し近づいたような気がして、堪らなく嬉しさが込み上げてきた。





先程ワルツが披露された広間の中央は、歓談用のスペースとしてそのまま広く設けられている。
窓辺に設けられた休憩用のテーブルに香穂子と向かい合わせで座りながら、ホールのざわめきをBGMに、賑やかに集う人々を、目の前で繰り広げられる生の舞台のように遠くに眺めていた。大役を無事果たし終えた安堵と開放感は新郎新婦だけでなく俺達も同じで、今はやっと訪れた寛ぎのひと時と言ったところだろうか。


テーブルの上に並べられているのは、ホッとしたら急にお腹が空いたと言った香穂子の為に、先程俺がブッフェ台から取り置いた料理の皿が数枚ほど。とっても美味しいと言いながら、サンドイッチを食べる彼女は実に嬉しそうに頬を綻ばせていて。俺は食べる訳でもなく、ミネラルウォーターの入った透明なグラスを片手に玩び、いつまでも見ていたい・・・そう思いながら穏やかな気持で見守っていた。


蓮くんは食べないの? そう言われたけど、君の笑顔だけで俺は心もお腹もいっぱいだから。


「香穂子、口元に付いてるぞ」
「えっ、本当!?」


慌てて口元を押さえようとする香穂子より先に、身を乗り出して指をのばし、ついでに唇を指先で軽く触れなぞりながら摘み取る。取れたよと柔らかく言えば、ありがとう・・・そう恥ずかしそうに小さく笑った。
口元についた欠片を取るのと唇に触れるのと、一体どちらがついでなのか。可愛らしさのあまりに、君を食べてしまいたい・・・そんな言葉が喉元まで込み上げてくる。

きっと言葉を失うほど真っ赤になって照れると分かっているから、あえて言わないけれども。
代わりに指先を自分の口元に運んで、摘んだ欠片を飲み込んだ。

すると大きな目を見開いて驚くように見つめる君が、俺の仕草に照れたのかほんのりと頬を染める。
僅かに視線を宙に彷徨わせて躊躇った後に、サンドイッチの乗った皿に手を伸ばして一つ指でつまむと、腰を浮かせてテーブルに身を乗り出しつつ、俺の口元に手を添えながら運んできて・・・。


「じゃぁ、蓮くんも・・・。私に付いてた欠片だけじゃなくて。はい、あ〜んして・・・・」


少し大きめのテーブルがもたらす互いの距離が、こんな時だけは恨めしい。
誘われるままに椅子から腰を浮かせて身を乗り出し、しなやかな指先が差し出す一口サイズのサンドイッチへと口を寄せた。


美味しい?
フフッと楽しそうに問いかける君へ、口に出せない返事の代わりに瞳と頬を緩ませれば、向けられる笑みは深くなる。彼女が手ずから食べさせてくれると不思議な調味料が加わるのか、一人で食べるよりも一層美味しく感じられるようだ。君の手からもう一口・・・、そう思って口の中の物を飲み込んだ瞬間のことだった。





『まぁ〜美味しそう。本当に甘くて蕩けそうね、ご馳走様』
「えっ・!?・・・っごほっ・・・・!!」
「きゃ〜っ、蓮くん大丈夫!? はいお水!」


突然かけられた声に驚き、今のやり取りをずっと側で見られていたのかという恥ずかしさと焦りが一気に込み上げて、思わずむせ込んでしまった。香穂子が慌てて差し出すミネラルウォーターのグラスを受け取ると、席を立った彼女が駆け寄って、俺の背後から落ち着かせるように激しく咳き込む背中を撫でさすってくれている。


『こらこらイリーナ、彼らがビックリしているじゃないか。ちゃんとレンが飲み込んでから、声をかけなきゃ』
『ふふっ・・・ごめんなさいね、ゲオルク。驚かせるつもりは無かったのよ。だって本当に二人が甘くて美味しそうだったから、つい私も食べたくなってしまって』


涙で滲む視界の中、そう言って俺達の前に現れたのは新郎新婦。黒のフロックコートを着た新郎は白い手袋を、腕を組む新婦はワルツの時と同じ白いドレスに真っ白いブーケを携えて。
困ったように眉根を寄せる新郎に、肩を小さく竦めて悪戯っぽく見上げている。


ヴィルヘルムの兄であるゲオルク・フランツ、そして妻になるイリーナ・エヴァジェーニャ・フランツ。
どちらも同じ年で、若手ながら深い表現力と卓越した技術で世界で注目されている、ヴァイオリニストの二人だった。二人の指輪が左でなく運指の妨げにならないように右手にはめられているのは、その証なのだろう。


俺よりも頭半分ほど背が高く、端正な顔には、兄弟だから当然だがヴィルヘルムの面影がある親しみやすい笑顔。がっしりしたスポーツ系の体躯をした弟とは違い、こちらはスマートな紳士といった感じだ。ドイツ人にしては控えめな話し方が印象的で、いかにも女性に人気がありそうだが・・・・。

しかし頬を染める香穂子の輝く視線は新婦に釘付けになっており、俺としては正直嬉しい・・・というか安堵している。名前がドイツ系じゃないな・・・と思ったのもその筈でロシアの血を引いているらしく、ブロンド髪の色白で顔が小さく愛らしくて華奢な容姿。しかも明るく優しい人柄とくれば、香穂子から見れは憧れの存在だそうだ。
俺には香穂子が一番だから、興奮気味に話す彼女の気持が、良くは分からないけれども。


『イリーナさん、それにゲオルクさんも! お二人のワルツ、とても素敵でした!』
『ありがとう。この人が上手くステップ踏めたのも、あなた達の演奏のお陰よ。私たちも、ヴァイオリンにすれば良かったわ。それよりカホコちゃん、突然驚かせてごめんなさいね。彼は大丈夫かしら?』
『えぇ、大丈夫です。たぶん・・・・』


蓮くん大丈夫? 
両肩に手を置き、肩越しから心配そうに覗き込む香穂子にそう言われて。咳で滲んだ涙を指先で拭いつつ、かすれる声で大丈夫だと返事をする。呼吸を整えながらゆっくり椅子から立ち上がると彼女の手を取り、テーブルの傍らに佇む彼らに向き直った。


『・・・取り乱して、すみませんでした』
『いや、こちらこそ。彼女は悪戯好きだから、いつも僕はひやひやするんだ』
『分かります・・・そのお気持ち』


お互いに苦笑しあうと、途端に上がるのは女性陣からの非難の声。
俺の傍らでは、蓮くんひどーい、と可愛らしく頬を膨らまして香穂子が拗ねており。向こう側では笑顔を称えたままのイリーナさんに絡める腕を思いっきりつねられたのか、痛い!と言って顔をしかめていた。


『挨拶が遅れてすまなかったね、今日は素敵な演奏をどうもありがとう。ダンスは大の苦手なんだが、自然に身体が動いてね。さっき彼女が言った通り、二人の演奏のお陰で最高のワルツが踊れたよ。』
『最近は1コーラス踊ったらすぐにディスコミュージックに変わるところが多くなったから、ゲストの皆さんも、昔ながらの良いものが見れたと、とても喜んでいらしたわ』
『喜んで頂けて、俺達も嬉しいです』


俺の腕にしがみ付く手の強さが香穂子の喜びも伝えてきて、緩む頬と目元のまま見下ろすと、良かったねと、彼女の嬉しそうな瞳はそう語っていた。
君が喜ぶ顔・・・そして幸せそうに頬を綻ばせて喜ぶ新郎新婦の姿に、俺達の想いが込められた最高の贈り物が二人に届いたようだと、心の中に生まれた嬉しさが温かさを伴ってじんわりと広がってゆく。




『レン・・・君にはもう一つ、お礼を言わなければと思っていたんだ。弟がお世話になっているね、ありがとう。いつもあの子から話を聞いているよ。君のパートナーである、そちらの可愛いお嬢さんの事も』
『いや、お世話になっているのは俺の方です』


不慣れな異国の地で、彼に助けられた事は数多い。
言葉だけでなく文化や風習の事、音楽家として競い合えるライバルとして。
香穂子と同じく彼も真っ直ぐに俺の心にぶつかってきて、感情表現が得意でない俺の代わりに、自分の事のように共感して喜怒哀楽を示してくれる。


これを友達・・・と呼ぶのかどうかは、不慣れな俺には照れくさくて戸惑うけれども。
確かな仲間であることに違いは無いから、心にある感謝と真摯な気持を乗せて、兄である人の瞳を真っ直ぐに見据えた。すると表情が弟を想う兄としての、ふわりと優しく慈しみ溢れるものに変わった。


『ヴィルヘルムの兄として、君には本当に感謝しているんだ・・・。あの子が過去から立ち直って今の姿があるのは、君のお陰でもあるのだから・・・・・』
『俺は何もしていません・・・出来ませんでした・・・』
『レンがそう思っているだけさ。本当の優しさとはそういうものだと、僕は思うよ。あえて優しくしようとして出来るものじゃない。正直、事故で亡くした彼女の後を追ってしまうのではと心配して、常に見張りを付けてた程だったのだから』




決定的な事があった日から、瞳は見開いたままでフリーズ。
開いていても何も見ていない。
大粒の涙が零れ落ちないように。
彼女との楽しい時間を思い出さないで、楽しい時間を振り返ったりしないで。




『・・・ヴィルが言っていたよ。彼女の事は喪失じゃなくて、きっと新しい関係の始まりなのだと。俺が彼女と過ごした日々や、好きだった事実は変わらない・・・と』


聞き覚えのある言葉に、思わず耳を疑った。
驚きに目を見開いて凝視する俺を、ゲオルクさんは柔らかい瞳で見つめてくる。


『覚えがないかい? 吹っ切れた・・・というより、光が差したんだろうな。きっかけを作ってくれたのは、レン・・・君だよ。例え離れていても、レンがカホコさんを信じて強く想う気持ちが、あの子の心をも動かしたんだ』
『俺・・・が!?』




そういえば、見舞いも兼ねて授業のノートを渡しに、この家へ訪れた時だったと思う。
事務的なやり取りの他、自暴自棄になっていた彼と、ほんの二言三言だけ言葉を交わした気がする。


大切な人を残していくって・・・一人ぼっちにさせるって、どんな気分だい?
教えてくれよ・・・と。


俺に対して、精一杯の皮肉を込めたのだろう。
薄暗い部屋の中で、生気の無い疲れ果てた瞳を向けて口元は歪み・・・鋭く吐き捨てるように。


彼が言ったという言葉。あれは、その時俺がヴィルの問いかけに対して答えた言葉だったのだ。
香穂子を日本に一人残している俺には何も言えなくて・・・そんな資格は、無かったけれども。
胸に抱える想いのままを言葉に託した。


・・・俺を変えてくれた彼女に感謝しているし、信じている・・・と。





あの時、俺の言葉の後には会話が交わされず、ただ重い沈黙だけが暗い部屋を支配していた。
生傷をえぐったかも知れないと、心の中ではそう思って・・・だからずっと触れずにいたのに。

支えになっていたのだと・・・。
本人からさえも聞いたことが無い事実を初めて聞かされて、驚きと戸惑いを隠せなかった。
俺は身勝手と言われるのを承知で、胸に抱える香穂子への確かな想いを、遠く離れた日本にいる君へと届けたまでなのだから。俺の言葉を聞いた彼は何を考え、どんな答えを心に導き出したのだろうか。




『義弟のこと、そして今日の事。私からも感謝の気持を込めて、幸せになって欲しいと心から思うわ。お互いに深く想って支う合う、あなたたちならきっと大丈夫。私たちも、レンとカホコちゃんみたいになりたいわ』
『あの子にとって・・・レンは生きる気力と意味を届けてくれた命の恩人だ。いや、俺達にとってもね。だから、お礼がしたいねとイリーナと話していたんだよ。ささやかだけれども、二人にぜひ受け取ってもらいたいものがあるんだ。いいかな?』


贈り物?
一体何なのだろう・・・そう思って香穂子と互いに、きょとんと目を合わせた。



本当はワルツのすぐ後に渡したかったんだけども、予想外のアンコールとかで渡しそびれてしまってねと。
そう言いながらゲオルクさんは俺の手を取り、イリーナさんは香穂子の手を取り、微笑を向けながら人々の集う大広間の中央へとエスコートしながら誘ってゆく。




既に視線を集め出しているそれはまるで、何かのセレモニーの始まりのように・・・・・。