大広間に程近い控え室に当てられた部屋にも、サロンや大広間と同じように白い花やキャンドルが飾られており、静かな空間にパーティーの賑やかさが微かに届いてくる。
ヴァイオリンの調弦をした後は音出しをしたり合わせたりと、俺だけでなく香穂子もヴァイオリンの事になれば最後の調整に余念が無い。どんな舞台であろうとも、精一杯の想いを曲に込めて全力を尽くす・・・そんな気持が伝わってくるようだった。
ただし張り詰めたものだけではなく、部屋に灯されたキャンドルのように温かさと優しさが、じんわりと広がって。漂う甘い香りは炎揺らめくキャンドルのものだけでないことは、絡み合う互いの瞳の揺らめきを見れば一目で分かる。
コンコンと部屋の扉がノックされた。
演奏を中断して返事をすると、現れたのは正装に身を包んだヴィルヘルムだった。いつものラフな服装ではなくタキシード姿で、癖のあるブロンドの髪は後ろへ流して固めている。がっしりとした体躯の為か着慣れた風格さえも漂って言うようで・・・。首には手の平に収まるほどの、スタイリッシュなシルバーボディーのデジカメを下げているのだが、アクセサリーの一つにしか見えないのは機械のデザインなのか、それとも身に着ける人物のなせる業なのか。
香穂子に声をかけて楽器をテーブルに置くと、裾が絡まないように少し持ち上げて小走りにやってくる彼女を隣に誘い共に、勢い良く大またに部屋へ入ってくる彼を出迎えた。
『やぁ二人とも、ここにいたのか。そろそろ準備はいいかい?』
『もうそんな時間なのか。わざわざ呼びに越させて、すまないな』
『君たちの事だから、広間の隅かこの部屋のどちらかだと思ってたけどね。もしかして、ずっとこの部屋にいたのかい?』
『あぁ・・・。特に知り合いがいる訳でもないし、大広間にいても持て余してしまって。こちらの事は気にしないでくれ。不都合があったら声をかけるさ。香穂子と二人で、静かに寛いでいるから』
香穂子と顔を見合わせてどちらともなく微笑み合うと、俺達を見るヴィルヘルムの人懐こい瞳が、申し訳なさそうに歪められた。
『もっと構ってやれたらいいんだけど、俺もなかなか忙しくて・・・。ゲストの中には俺達の先生や、学長先生もいらっしゃってるんだ。レンはもう挨拶したかい?』
『いや・・・まだだ。早めにここへ来てしまったから。後で挨拶しておこう、あの人ごみで見つかればの話だが』
『な〜に、心配ないさ。神出鬼没な人たちだから、俺達が探すより早く、向こうからやってくるだろうって』
『それもそうだな』
『でもまぁ、壁の花でいられるのも今のうちだよ。静かな時間を楽しんでおくことだね』
『どういう事だ?』
意味を図りかねて月森が眉をしかめると、『おや、レンは分からないのかい?』とヴィルは悪戯を企む子供のようにニヤリと笑みを浮かべた。そして隣に佇む香穂子へ視線を移すとパッと表情を明るく変え、手を広げて歩み寄ろうとしたが、月森の刺すような眼差しに気付いてコホンと咳払いする。
君のパートナーが怖い顔して俺を睨むんだ・・・と、小さく溜息を吐きながら肩を竦めた。
『カホコ、今日は一段と素敵だね。すっかり見違えたよ。こんな素敵なレディーのエスコートが出来るレンは幸せ者だな。居並ぶセレブどもに負けないくらいに、エスコートぶりがサマになってたぜ』
『ありがとうございます、蓮くんはいつも紳士だから。それに家でも、一緒に練習してもらったんですよ』
『へぇ〜そうなのか! どちらかと言えば、その練習風景を見てみたかったな。手取足取り、立ち居振る舞いはレンから教えてもらったのかい?』
『はい! 蓮くん、教え方がとても上手いから』
「・・・香穂子っ!」
いけない・・・このままの流れでは、誘導尋問が得意なヴィルの策略にはまってしまう。今でも充分に照れくさいのだというのに、無邪気な香穂子は気付いていないのだろうか。
後で顔を赤くするはめになるのは、君と俺なのだという事を。
盛り上がる二人の会話を遮れば、予想通り大きな瞳を瞬かせ、きょとんと不思議そうな顔で見上げてくる。
「えっ!? 言っちゃいけなかったの?」
「そ・・・そういう訳ではないんだが・・・・・」
何と言って良いやら口ごもっていると、変な蓮くん・・・そう呟いて可愛らしく小首を傾げた。
この際、君に変と言われようが構わない。話が逸れればいいと願うだけだ。
そして俺の願いが通じたのか、自宅練習の話からは逸れたようで、心の中でホッと安堵の溜息を吐く。
『何よりも、親切にして下さったイリーナさんのお陰です。ドレスを選んでくれた他にも、花嫁専属の美容師さんにヘアメイクまでしてもらって・・・。ヴァイオリンのお話などもいろいろ伺えて、凄く助かりました』
『俺からも伝えておくよ。義姉さんは一人っ子だからカホコの事、可愛い妹が出来たみたいって、喜んでた』
『そうなんですか・・・嬉しい』
『ところでカホコ、今日のレンはいつもより口数か少ないんじゃないのかい?特に夕方以降になってからは』
『凄〜い、どうして分かるんですか!? 私もドキドキしてるから、きっと蓮くんでも緊張するのかなって思ったんです。でもちょっといつもの演奏前と違うのは、時々ソワソワして、落ちつきないんですよね』
俺の隣で香穂子は、まるで当たった占い師を見るように目を丸くして驚いている。
そんな香穂子と俺を交互に見つめている、ヴィルの意味深な笑みを湛えた視線が居た堪れない。
やはり予想通り・・・という台詞が聞こえてきそうな笑顔を俺に向けている所をみると、俺の心中など手に取るようにお見通しなのだろう。
恐らく香穂子の緊張と俺の緊張では、含まれる意味合いが少しだけ違うと思うから。
心臓を射抜かれた衝撃で息もつけず、顔に集まりだす熱を必死に押さえ込もうとしているのに。
どうか香穂子には気付かれないようにと、いのるばかりだ。
『君達はここにいて正解だったかもな。エキゾチックで可憐な東洋の女性はこちらでは注目の的だ。カホコを一人にさせておかない事だね。今日の彼女は飛び切り綺麗だから、あっという間に言い寄る男どもが集いそうだ』
『忠告はありがたく聞いておく。だが手を離すつもりは、毛頭ない』
『しっかり彼女を守るナイトでいてくれよ。特に演奏後は否が応でも注目を集めるだろうから、注意する事だね。それと、ずっと眉間に皺寄せてると取れなくなるぞ〜』
『なっ・・・・・!』
『カホコも、心配性のレンがこれ以上眉間に皺寄せないように、しっかり手を繋いでいてくれよ。俺一人相手にこんなに顔しかめちゃって・・・大広間に行ったらどうなる事やら』
『あのっ・・・・・・』
ヴィルが眉間を指差してニヤリと笑うと、月森は咄嗟に額の辺りを押さえて言葉を詰まらせ、顔を瞬く間に赤く染めると顔をふと逸らせてしまう。月森の反応が可笑しかったのか、やがて声を上げて笑い出すと、一緒頬を染めてに照れくさそうにしている香穂子の目線に屈みこんだ。すると今度は香穂子が言葉を告げられずに、更に顔を赤く染めて俯いてしまう。この分なら二人とも心配ないかと、小さく微笑みを向けた。
屈んだ身体を起こして、さて・・・と呟いて右にはめた腕時計をみれば、時刻は午後の8時30になろうとしていた。大広間では食事が落ち着いて午後9時頃になると、ホール中央で新郎新婦がワルツを踊り始めるのだ。
『さてお二人さん。お互い照れるのは後でゆっりしてもらうとして、そろそろ時間だ。大広間に案内するから、用意をしてくれ』
『あぁ・・・そうだな。せっかく呼びに来てもらったのに、随分と話し込んでしまったな」
『本当だ、ごめんなさい』
さんざん振り回されたのは自分たちだという意識は、すっかり消え去っていたらしい。
はっと我に返ってテーブルの上に置いた楽器を慌てて取りに戻ると、本番前の最終的な調弦をした。
『主役の座を奪わない程度に・・・なんて小言はこの期に及んで何も言わないから。二人だけの世界に思いっきり浸って、君達の熱々ぶりを居並ぶ皆に見せ付けてくれ』
『任せてくれ。期待に応えてみせる』
「蓮くんってば・・・・・・・」
決して茶化すのではなく真っ直ぐな瞳が語るのは、試合前の選手に「行って来い」と檄を飛ばす監督のように。
しかし売り言葉には買い言葉で返さないと気がすまない性分が湧き上がり、自信たっぷりに挑むように見据えた。それに、向こうも俺が挑むのを期待して投げかけてくるのが分かるから。
ヴァイオリンを抱えた香穂子が消え入るように小さく呟き、恥ずかしそうに俯いて真っ赤になっている。
確かに・・・普段ならこんな照れくさい事は言えないかも知れない。
でもこれは煽られたからでた言葉ではなく、甘い香りに酔わされたからでもなく・・・・。
俺が心の底から想った事なんだ。
君と俺の二人の音色が認められたら・・・。
二人の想いが多くの人に祝福されたら・・・どんなにか幸せだろうかと。
そう、思うから。
ヴィルヘルムに先導されて、赤い絨毯が敷かれる白壁の長い廊下を歩く。
やがて大広間の扉が目の前に近づくにつれ、遠くに聞こえていた賑やかさが耳のすぐ側でざわめき、間接照明とキャンドルに照らされたほの暗い廊下に、扉から漏れ出す明るさが少しずつ沸くように溢れ出していった。
蓮くん・・・。とすぐ隣で呼びかけられ振り向くと、俺の後ろを歩いていた筈の香穂子が、いつの間にか隣を歩きながら、絡める代わりに腕にピッタリ寄り添わせてきた。見上げる大きな瞳には、薄暗い闇の中でもはっきり分かる眩しい光が輝き、照らし導かれるような煌きに吸い寄せられる。ほのかな明りが醸し出す顔の陰影が、大人びた艶めきを感じさせて、一瞬鼓動がどきりと高鳴った。
「いよいよだね〜。緊張するけど、楽しもうね」
「あぁ・・・・楽しもう。祝福の音色を贈るのなら、奏でる俺達が幸せな気持でいないといけないな。周りは見ずに、俺だけを見ていてくれ」
「うん!」
そうだな・・・音楽を、楽しもう。
君と奏でる音楽を。
心と心のハーモニー。
紡ぎ出して重ねるのは音色だけでなく、心と溢れる想いごと。
どうか俺達の祝福の音色が、一杯に照らし、満ち溢れますように・・・・。