天使の舞い降りる場所・2
地元の大聖堂で挙式を済ませた新郎新婦を乗せた、真っ白なクラッシクカーが、背の高い黒く堅牢な正門を潜り抜け、パーティー会場となるフランツ家のコートヤードに到着した。
多数の煙突が突き出る急勾配の三角屋根、そして木目を生かしたダークブラウンの化粧柱と、間を埋める風合いある煉瓦と土の壁。周囲の自然と溶け合った庭園が広がる美しい敷地内に佇む、英国チューダー様式のこの大きな邸宅は宮殿といっても差し支えなく、18世紀初期から歴史的にも重要な社交の場でもあった。
しかし優しい佇まいが醸し出す雰囲気は、どこかアットホームで安らぎさえ感じるようで。この大広間で行われるレセプションは地元名士、そして世界に名を馳せる若い二人の音楽家に相応しいものだと言えよう。
パーティーは夕方の5時から行われる予定だ。メインのパーティーが行われる大広間の続きにあるサロンでは、招待されたゲストがシャンパングラスを片手に寛ぎながら、主役が現れるまでの待ち時間を過ごしている。
ブライドのブーケと同様に、グリーンとホワイトでアレンジされた花が館内のいたる所に飾られ、荘厳な空間を優しく和らげている。豪華なゴールドの装飾品が並ぶ大理石の棚には、真っ白なバラの花びらがクロスのように敷き詰められ、透明なグラスに入った白いキャンドル達が、散りばめらた星のように無数の輝きを放っていた。
甘い香りを漂わせながら揺らめく炎が見るものに落ち着きをもたらすのは、人の鼓動と同じだからと言われているそうだ。重厚な空間に差し込む柔らかな光は美しさを際立たせ、歴史あるものだけが持つ気高さが息づいているように思えた。
人々の談笑する輪から少し離れて遠巻きに眺めつつ、背の高い窓辺に香穂子と二人佇んでいた。今は闇に包まれているが、日が昇っていれば、窓からは壮大な自然と庭園が一体となった景色が見渡せるだろう。
招待客は親族や旧友の他、世界に名の知れた音楽界の層々たる面子が揃っているようだ。当然ながら一介の学生に過ぎない俺達が、話に混じって興じれる訳も無く・・・。ボーイに渡されたシャンパングラスを片手に壁の花を決め込んで、他愛も無い話をしながら豪華な雰囲気だけはと味わっていた。
この場に香穂子がいてくれて良かったと、心の底から想う。
君がいてくれるお陰で、心細さを感じずにすむのだから・・・。
ハッと気付けば蓮くん・・・と、隣の香穂子が俺を見上げて呼びかけていた。
夕方からのパーティーなのでお互いに夜の正礼装をとり、俺はタキシード、香穂子はパールグリーンのイブニングドレス姿だ。柔らかく光沢のある生地で、スカートの裾は足首が隠れるくらいのロング丈。しなやかな身体のシルエットがはっきりと浮かび上がり、肩と背は大きく出したデザイン。髪は片側で立てロールに巻いて束ね、広いた胸元には、華やかに輝くアクセサリーを身に付けている。
新婦であるヴィルのお義姉さんが、パーティーが初めてという香穂子のために選んでくれたものだ。
大聖堂での式に参列した後、ご好意で新婦と一緒にドレスアップしてもらった香穂子が、静かに開いたドアの隙間からから顔だけをまず覗かせた。その後、どうかな・・・と頬を染めて恥ずかしそうに扉の影から現れた時には、心臓が止まってしまうかと思った。
美しく化粧を施して着飾り、すっかり見違えた彼女を目の前にして声も出ず、眩暈すら覚えた程に。
正直、今も隣にいるだけで顔に熱が集まり、鼓動が張り裂けてしまいそうで・・・。
視線を合わせるのも、何だか照れくさい・・・。
別室で香穂子とお義姉さんが着付とメイクをしている間、俺やヴィル、そして新郎である彼のお兄さんは同じ部屋で待っていた。しかし弟が宥め透かす中、彼の兄は落ち着かなさ気に部屋の中をそわそわと歩き回り・・・。
今なら、あの気持が手に取るように分かる。
花嫁を前にする新郎の気持とは、きっとこんな感じなのだろうか。
俺の目にはパーティーの主役の花嫁よりも、香穂子が一番輝いて見える。
俺にとって、今日の主役は香穂子なのだから・・・。
「蓮くん・・・。確かパーティーは、気軽なものだからって言ってなかったっけ?」
「こちらのパーティーは俺も初めてだから・・・。ヴィルに聞いたまでをそう伝えたんだが、気軽・・・というには少し雰囲気が違うようだな。家柄もあるんだろうが」
「私たちにはお城の晩餐会みたいでも、きっとヴィルさんには、これでも充分気軽なんだよ」
「テーブルスピーチも無ければケーキカットも無し。ゲストが座る場所も決まっていなから、ゆっくり話をする事が出来る。それに引き出物も無ければ、お祝いもお金でなく贈り物が普通だ。確かに日本に比べれば、気軽なのかの知れないな」
「私たちの贈り物は、ワルツの演奏って訳だね。いい贈り物が出来るように、頑張らなくちゃ」
ふわりと笑みを浮かべるルージュが艶めく唇に、吸い寄せられそうになるのを、理性を総動員してぐっと堪えた。思わず動いてしまった身の振り先を咄嗟に考え、きょとんと見つめる彼女の手からシャンパングラスを受け取ると、近くにいたボーイを手を上げて呼んだ。焦る心を抑えて平常心を保ちながら、俺の分のグラスと一緒に下げてもらうと、内心ほっと安堵の溜息を付く。
剥き出しの白く細い肩に、そっと手を乗せて抱き寄せた。
いつもなら自然にできる仕草すら、どこかぎこちないと自分で感じてしまうくらいに、俺は緊張しているのだろうか。高まる鼓動と息が止まる程の甘美な痺れは、この場の雰囲気にというより・・・君に・・・・・。
こんな気持は久しぶり・・・いや、初めてかもしれないな。
君に出会って、恋をしていると初めて気付いた・・・あの時以上のものだと思うから。
「香穂子・・・心細いか?」
「うぅん、緊張しているけど平気。だって蓮くんが側に居てくれるもん。安心する・・・すごく心強いよ」
「俺も、香穂子が居てくれて良かったと思う。ありがとう」
心地良さそうに目を細めて見上げ、俺の肩に身を任せてる香穂子。
今の俺の理性を留めているのは、肩に受けるその重み。君が俺に寄せる全幅の信頼といった所だろう。
心の中で自分に苦笑しつつ、目の前の香穂子に愛しさを込めて微笑を向けた。
「ずっとここに居ても仕方が無いな・・・。音出し用の控え室に行って、ヴァイオリンの用意でもしようか」
「うん、今は楽器をいじっていたほうが落ち着くかもしれない。それに、蓮くんと二人だけでいられるしね」
「お腹は空いていないか? 着付けや用意もあってお昼は食べていないんだろう? 軽めの物を取り分けて運んでもらおうか」
「う〜ん。並んでいるお料理が美味しそうなんだけど、ドレスが汚れそうだし、食べたいって気分でもないし・・・・」
「気分が悪いのか?」
月森が心配そうに眉根を寄せると、違うよ・・・とクスクス笑い出す。
「新郎新婦が踊るワルツって、パーティーのクライマックスなんでしょう? これで二人の人生決まっちゃうって訳じゃないけれど、幸せな新しい歩みの第一歩・・・。それくらい重要で大切なんだと、私は思うな」
「人生預かってるんだな」
「そうだね、私たち責任重大。いろいろと親切にしてもらったり、お話しているうちに、任されているんだ・・・信頼されてるんだなって感じて。だから自分のコンクールよりも緊張するの。ドキドキして食事どころじゃないかも」
そっと肩から手を外しながら正面に立つと、緊張の為か少し冷たくなっている両手を取った。手の平の温もりを想いごと伝えるように包み込み、胸の高さまで掲げる。
「大丈夫、俺がいる。俺も、香穂子を信じているから・・・いつもの香穂子のままでいてくれ」
「蓮くんの側には私がいるから、緊張しないで安心してね。それとね・・・・」
途中まで言いかけると、内緒話をするように背伸びをしたので、手を包んだまま上半身を屈めて耳を彼女の口元に寄せた。優しく甘い香りがふわりと鼻腔に漂い、吹きこまれたくすぐったい吐息が熱さとなって耳朶から全身に広がってゆく。
「ドキドキするのはこの豪華な雰囲気と演奏前っていうのもあるけど、今日の蓮くんがいつもよりも優しくて、数倍かっこいいからなんだよ」
痺れにも似た疼きが胸の中に湧き上がり、息も出来無い程、心を甘い糸が締め付ける。
俺も同じだと・・・今日はいつにもまして綺麗で輝く君に、ドキドキしているよと。
そう伝えたかったけれども、一度口に出してしまうと止まらなくなりそうで。
でも、このままでは想いが溢れすぎて壊れてしまうから・・・・。
包んでいた手を俺の口元まで引き上げると、そっと開いて彼女の手に唇を這わせた。
さすがに唇では、せっかくの化粧が落ちてしまうだろうか・・・・・。
包んでいた手をゆっくり離すと香穂子の隣に回り込んだ。半歩前に立ってエスコートの腕を差し出せば、はにかみながら腕がそっと絡められる。慣れないドレスの足裁きに苦労している香穂子を気遣いつつ、腕だけでなく視線をも絡めながら、一歩・・・また一歩と優雅に歩みを進めていく。
小さな紳士と淑女。
寄り添う二人の背中が談笑するゲストの間を抜けていった。