いつもより重く感じる瞼をゆっくり開くと、ぼやけた視界が焦点を結んでゆく。
最初に瞳に映ったのは、見慣れた自分の部屋の天井だった。


どうやら寝ている間に夢を見ていたらしい。
まだ月森が日本にいた頃、一緒に過ごすのが当たり前だと思っていた頃の夢。
留学の意志を聞かされたときの事、合格が決まった時の事。他にも、共に分かち合った幸せで甘い記憶達・・・。
なぜ今頃こんな夢を見たのだろう。
過去の記憶と現実に無意識下の願望が入り混ざり、心と頭を掻き乱して激しく混乱させる。
ここがどこなのか、一体今がいつなのか・・・・。


月森がドイツに渡ってから2年が過ぎようとしていた。
あれから2年・・・一度も彼に会えずに時だけが過ぎ去っていく。
目を瞑ると浮かんでくる彼の面影は、2年前と同じ姿で微笑み掛けてくれる。
私の心の中の季節と同じく、時を止めたままで。


このまま思い出の中だけになってしまうのでは・・・記憶の中だけになって、いずれ消えてしまうのではないかと、時折恐怖を感じてしまう。
消えてしまう前に、本物のあなたに会いたい・・・。


ドイツの人が最も大切にする2大行事は、クリスマスとバカンスだ。特にバカンスは多くが1年も前から計画を練るほどの気合いの入れようで、今は丁度その長いバカンスのシーズンに当たる。


しかし月森は、この前のクリスマス休暇の時もそうであったが、今の所こちらに戻る気配はないようだ。
それは当然の事かも知れない。休暇を楽しむことよりも、今は音楽とヴァイオリンに集中することが大事な時期なのだから。海を隔てた距離の遠さもさることながら、抱いた決意は並のものではない。おいそれと簡単に帰って来れらるものではないだろう。


もしかしたら、きっとこの先もずっと・・・・。
先の事なんて誰にも分からないが、言いしれない不安が静かに心を蝕んでいく。


枕元の時計を見ると、既に朝の10時を回っていた。
いくら何も予定のない休日とはいえ、いつまでも寝てはいられない。そろそろ起きなければ母親に怒られてしまう。
だるい身体を何とか起きあがらせると、両の頬を暖かい滴が静かに流れ落ちた。
頬に触れると、確かに感じる涙の滴と彼らが作った道跡。信じられない思いで、指先の光滴を見つめた。


「泣いて・・・いたの?」


夢を見ながら自分が流した涙は、何の涙だったのか。


「弱気になっちゃ・・・駄目だよ・・・・・・」


最低4年は会えないと覚悟はしていたではないかと、弱気になる心を叱咤する。
あと2年もある・・・。いや2年経ったという事は、あと残り半分ではないか。
それにきっと、辛いのは自分だけではないのだから。
まだ目尻にかすかに残る涙を、気持ちを振り切るように、グッと両の手で拭い去った。




「おはよう、蓮くん。今日は少し寝過ごしちゃったよ」


机の上にちょこんと座っているテディーベアのぬいぐるみを抱き上げて、キスをする。
首に青いリボンを巻き、左足の裏には“Len”と名前の刺繍が施してある、飴色の毛並みのテディーベア。


この前のクリスマスに、帰国できない月森から送られたプレゼント。
熊は月森が現在暮らしているベルリンのシンボルなのだそうだ。昔に熊が多くいたとか、ベアーとベルリンに響きが似ているからとか諸説は様々言われている。有名な映画祭のトロフィーでもお馴染みだが、街の至る所に熊のモチーフがあるらしい。
賑わうクリスマス市を散策しているときに、偶然目に付いたこの子だけがどうしても気になって、頭からは離れなかったのだと、同封のクリスマスカードに書いてあった。何度も店に立ち寄っては悩んだであろう、そんな月森の様子が目に浮かんで、思わず笑みがこぼれてしまう。


「蓮くんってば可愛い」


凛とした中にもちょっぴり甘えん坊な風情があって、どことなく月森を彷彿とさせるこのテディーベアは、今ではすっかり香穂子お気に入りで、留守を守る月森の分身だ。
本人は気付いていなかったかもしれないが、きっと自分に似ていたから、そんなにも気になったのかも知れない。


『自分の代わりに、せめて側に・・・』


込められた想いごと、“小熊のレン”をギュッと抱きしめた。
飴色のふさふさとした毛の肌触りと、程良い柔らかさの感触がとても心地よく、抱いていて安心する。


“小熊のレン”を膝に抱いたまま、机にあるパソコンを起動した。
月森がドイツへ渡って以来、朝と晩のメールチェックは毎日の日課になっている。
会うことが出来なくてもメールで連絡を取っているし、時折だが電話で話したりもする。
始めは日課のように毎日やりとりしていたものの、互いの忙しさから1日空き2日あき・・・数ヶ月経った頃には週に1度くらいになってしまった。今では月に2〜3度程度のやりとりだ。
それでも度切れることなく交わされるのだから、幸せな事なのだと思う。


今日は来るかな・・・。
期待を抱きながらも、結局届いていないメールに溜息をつく事を繰り返す日もある。


1日で一番緊張する一瞬。
メールの送受信ボタンをクリックした。









Tears