黄昏空を映して・3

グランドピアノを置いても狭さと不自由さを感じさせない程に物が無く、殺風景な俺の部屋。
しかし香穂子が来てからは主に彼女の服や小物だったり、僅かな間だけども共に暮らす上で不自由をさせないようにと少しずつ物を揃えて賑やかに・・・生活を感じさせる部屋らしくなったと思う。
そして今は・・・・・・。


「どうしよう〜荷物がまとまらないよ〜!」


机に向かいレポートを書いていると、癇癪を起こしたような、それでいて泣きそうな声が聞こえてきてきた。椅子に座ったまま後ろを振り返ると、足の踏み場も無いほど床に散らばり広がった荷物の海。その中心にポツンと座り、どこから手を付けようかと途方にくれる香穂子が、帰国に備え荷物を整理しながら騒いでいる。


密かに振り返りながら様子を見守っていたが、楽しげな笑みを浮かべながら次々に手に取るものの、何故か鞄には一つも収まらなくて。一度は鞄に詰めたとしても、再び取り出してじっと眺めていたり。あるいは整理するつもりがいつの間にか想い出を振り返る時間に変わってしまうらしく、手に取ったものを広げ出して懐かしそうに目を細めていた。これではいつまでも、片付けが進まない訳だ。

この荷物の全てと会話をしていたら、片付け終るのは一体何時になる事やら・・・。
荷造りというよりは大切な宝箱をひっくり返して遊ぶ、無邪気な子供のようにも見える。


予想通り泣きそうな彼女の様子と微笑ましさに、込み上げる笑いを堪えられずにいると、ハッと我に返った香穂子が慌ててがさがさと周りの荷物をかき集め出した。


「ご・・・ごめんね蓮くん、うるさかったよね。レポート書いてる邪魔しちゃった・・・かな。あの・・・じゃぁ私、隣のゲストルームで片付けするね」
「俺は別に構わないから、気にせず続けてくれ。このいっぱいに広がった荷物を、隣へ運ぶだけでも朝になってしまう。運ぶ途中に、香穂子が荷物や土産ものとの会話が弾んでしまうかも知れないし。それに、君を見ていると飽きなくて面白いんだ」
「あ〜っ、蓮くん笑ってる! 私これでも必死なんだからね」


笑わないでっと、真っ赤に染めた頬をプウッと膨らませて俺を睨む香穂子に、すまない・・・と緩む口元を押さえながら微笑を向ける。


「随分と手間どっているな。俺も手伝おうか? ちょうどこちらは一区切りが付いたところだから」
「いいの? ありがとう、助かるよ。来た時には大きなスーツケースに余裕があるくらいだったのに。帰る頃には閉まらないくらいに荷物が増えているんだもん、どれから手をつけようか困っちゃう」
「増えた香穂子の荷物の半分以上は、土産物だろう・・・お菓子ばかりの」
「もう、本当なんだからそれ言っちゃ駄目っ。でもお土産だけじゃないの、持ってきた同じ物を同じ場所にしまっているのに入りきらない・・・って事もあるんだよ。不思議だって思わない?」


俺は椅子から立ち上がると、足元に注意しながら荷物の海を渡り、中心に座る香穂子の元へ辿り着いた。膝を折ってしゃがみ込み視線を合わせると、眉を寄せて難しい顔をしながら不思議でしょう?と首を捻る彼女に柔らかく微笑みかける。


「それは・・・きっと想い出なんだと思う。香穂子だけでなく、持ち物の一つ一つにも想い出が染みこんだから、目には見えないけれどその分荷物が大きくなったように感じるのだと、俺は思う。だから君も手放せずに、なかなか鞄に仕舞えずにいたんだろう?」
「や・・・やだ、蓮くん見てたんだ・・・。でも・・・そっか〜蓮くんの言う通りだって私も思う。私が持ってきた荷物にも、蓮くんと過ごした思いや記憶が染み込んでるのは、嬉しいな。このスーツケースと私の心に、ドイツの空気を・・・蓮くんのお部屋の空気もいっぱいい〜っぱい詰めて帰らなくちゃ」
「ではさっそく・・・香穂子、俺は何を手伝えばいいんだ?」
「じゃぁね、蓮くんが取ってくれた物を私に渡して欲しいな。私が手に取ると名残惜しくて仕舞えなくなっちゃうから、ちゃんと鞄に収まるかどうかまで見守っててね。もちろん、私も気をつけるから!」


そう言って頬を綻ばせながら笑みを見せる香穂子に笑みを返すと、まずは俺の足元にあったものから一つずつ手にとって彼女へ渡していく。すると彼女は手に受け取ったものを見て目を輝かせながら、自分と俺の心へ刻むように・・・大切に手に持ったそれに命を吹き込むように、優しく語り掛けていった。


これはクリスマスマーケットに行った時に、屋台で一緒に選んでもらった木彫りの天使の人形。
これは私が蓮くんのいるドイツに来た、最初の日に着てきたお洋服。
これは、演奏会に連れて行ってもらった時のパンフレットだね! 凄く感動したの。鳥肌立ちっぱなしだった!


そう言って俺が手渡したパンフレットをギュッと胸に抱き締めると、スーツケースの中へ収めていく。
そんな彼女に頬を緩めつつ、目を細めて見つめながら黙って聞き入るうちに、俺も何時しか君と一緒に記憶の海へと漂い出していった。次はどれを取ろうかと、俺もさっきまでの君と同じように、手を彷徨わせながら・・・。





俺が手伝い出してからは香穂子の手は止まらず、順調に片付けと荷造りが進んでいった。
お陰で俺と香穂子を囲む周りに物が無くなり、部屋一面に散らばっていた半分になっただろうか? 
背を向けて少し遠い場所に投げ置かれていた楽譜の束を拾い上げ、再び身体を元に戻すと、俺は苦笑しつつ小さな溜息を吐いた。目を離した一瞬の隙に、どうやらまた楽しげなものを見つけてしまったらしい。


「香穂子・・・この楽譜の束はどの鞄にしまうんだ?」
「あ〜っ、こんな所にあったんだ! やっと見つけた」
「香穂子?」
「ほら蓮くん見て! アルバム持ち上げたら、パーティーで貰ったウエディングブーケのリボンが出てきたの。ドレスと一緒に別々に保管してあったのに、やっぱり引寄せあうのかな。懐かしいね・・・お花は枯れちゃったけど、私の中にいつまでも綺麗に咲いているんだよ」


彼女の膝の上に広げられているのは、ヴィルから貰ったパーティーでのアルバム。そして大切そうに両手に収まっているのはピュアホワイトに輝くシルクのリボン。光沢があり太めでしっかりした生地のそれは、香穂子が新婦から託されたウエディングブーケに結ばれていたものだ。


宝物を発掘したと俺に披露しながら喜ぶ香穂子は、片付けなどはすっかり忘れた様子でリボンを眺めながら、
うっとりと記憶の海へ漂い出している。溢れる荷物・・・想い出たちに囲まれて。



香穂子だけではない、それは俺も一緒なんだ。

手に持っている白いリボンから、あるいは彼女が身に着けていた洋服や、共に買い求めた小物に至るまで。
俺の五感を通して香穂子との記憶が、その時に感じた鮮やかな想いをも、つい先程の事の様に蘇らせる。
幸せそうに微笑み、楽しそうに笑い、無邪気であどけなく、時には艶を増した君が俺を熱くして・・・向ける一つ一つの表情や愛らしい仕草や語られた言葉の全てを・・・。


それぞれの物を見れば、いつどこで君がどんな仕草や表情で何を言っていたのかを、つい先程のあったかのように鮮やかな色で思い出せるんだ。


出来る事なら君と一緒に想い出に浸りたいと・・・俺もそう思う。
だが物から引き出される記憶というのは、これ程までに力を持つものなのか。
これ以上は引きずり込まれる・・・俺はきっと戻って来れなくなると、恐れを抱かずいは入られない。


あえて心とは反対に、諌めるように香穂子を真っ直ぐ見据えると、耐えて振り切るように拳を強く握り締め、深く呼吸を整えた。どこまで堪えられるか・・・冷静でいられるか・・・。
彼女の為・・・いや、他でもない俺自身の為に。


「香穂子・・・部屋中に散らばせたこの荷物を、まとめる気があるのか?」
「もっ・・・もちろんだよ! あのね・・・手に取るとじっくり見ちゃうんだよね。懐かしくなって想い出が込み上げてきて・・・つい浸っちゃうの。だから私、片付けとか荷造りとかって苦手なんだよ。ほら、本の片付けする時に気が付いたら読みふけってたりするでしょう? あれと一緒!」
「まぁ・・・俺にも覚えはあるから、香穂子の気持も分かる。だが広げた荷物の量に圧倒されてしまうから、どれから片付けようかと悩んでしまうんだ。一度手にしたら迷わず手を離さずに、そのまま鞄へ仕舞う事。側にあるものから順に一つずつ手を付けていけば、きっとすぐに荷造りも終る」
「う・・・うん。頑張る・・・」
「荷造りが終らなければ、帰るどころか今夜は寝られないぞ」


俺はそれでも構わないが・・・という心の声は喉元で押し留めて。
諌めるように真摯に向けていた瞳を柔らかく緩めると、微笑を向けながら楽譜の束を香穂子に差し出した。


ありがとう・・・と少し力無い声でそう言うと、俺の手から受け取った楽譜を傍らにあったスーツケースの中に入れる。その後膝の上に乗せたままだったアルバムに気付いて、再び手をかけ楽しそうに開こうとするが、しかし俺の視線に気が付いたのか、彼女の瞳が悲しげに揺らめきシュンと俯いてしまう。

アルバムをスーツケースではなく手持ち用の手提げ鞄へと大切そうに収めた。名残惜しそうにじっと見つめながら・・・。


「蓮くんのお部屋を、私の荷物だらけにして申し訳ないって思うけど・・・そんなに早く片付けて欲しい? 蓮くんは・・・この荷物が私ごといなくなっても平気なの!?  帰って・・・欲しいの!?」
「どうしたんだ、香穂子・・・」
「どうもしないよっ!」
「・・・平気な訳が無いだろう? 俺だって本当は、このまま荷物がまとまらなければいいと思っている。俺が全て預かっておけば、君はまた直ぐ俺の元へやってくるだとろうと・・・そこまで考えたんだ」
「一緒にお話して想いで振り返りながら荷造りすれば、最後までこの子たちに、私たちの記憶と想いを染み込ませられるでしょう? 帰って鞄開けたら、例え寂しくてもきっと温かくて幸せになれるって思ったから・・・。なのに蓮くんが片付けろって言うからっ・・・早くって急かすからっ!」


思い詰めたようにキッと鋭く振り仰いだ香穂子は、唇を噛み締め大きな瞳に滲む涙を堪えながら、でも真っ直ぐ俺を見つめて。握り締めた両手の拳が、強さかそれとも涙を堪える為か僅かに震えていた。
彼女の想いが刃となって俺の心に刺さり、悲しみと痛みを伝えてくる。息を詰めて眉を潜めて耐えながら、俺の全てで彼女の思いを感じる為に、自分の中へと痛みごと取り込んでいった。


早く帰れと・・・そんなつもりで言ったのでは、決して無い。君が思うのと全く逆だどいうのに。
どうして香穂子はそう思ってしまったのだろう・・・いや、俺自身が知らないうちに彼女追い詰めてしまったのだ。


俺だって君の持ち物に俺と君の想いが染み込んだと言われれば嬉しいし、そうであって欲しいと思う。
だが俺の元には一つも残らず、君と共に去ってしまうんだ。せめてもの想いを託し、帰る為の荷造りをこの手で手伝いながら、帰したくない想いを君の目の前で抑えるのに、俺が今どれだけ必死か分かるだろか?




そう思って、俺はハッと気が付いた。
俺には君以上に大きなものがあるではないかと・・・。
何を寂しいと、心の中で一人拗ねていたのだろうかと。


君が俺の元へ来てくれてから一緒に過ごしたこの家に至る所に、香穂子の姿が染み込んでいるではないか。
賑やかな足音が響く廊下や温かい料理の香りが漂うキッチン、くつろぎのリビング、毎夜過ごしたこの部屋・・・数え上げればきりが無い。きっとこの先に再び一人の時間が訪れたとしても、君が残してくれた温かさは変わらないのだ。呼ぶ声に振り向けば笑顔の君が、ふわり現われるのではと思うくらいに。


「すまなかった・・・」


床に座る香穂子の膝の側に転がり落ちていた、ピュアホワイトのリボンを拾い上げると、指の間に挟み持つ。強く握り締められた左手を包み込み、微笑を向けながら柔らかさと温かさを伝えれば、向ける表情と共に次第に手のこわばりも溶けてゆく。


握られた彼女の左手の指を伸ばすように両手で挟み、立てた俺の片膝の上にそっと乗せる。
何をするのだろう・・・ときょとんと不思議そうに見つめる香穂子の左手・・・心臓に一番近い・・・互いの愛を誓うための薬指に。指に挟んだリボンを抜き取り両手で持つと、ウエディングブーケに使われた、ドレスと同じ色の白いリボンを結んだ。


「・・・蓮くん? これは?」
「指輪の・・・代りに。ヴァイオリニストとして成功した暁には、いつか君に本物を贈ろう」
「私はこれでも充分だよ・・・ありがとう。蓮くんの気持が、凄く嬉しい。ごめんね・・・私、自分の事ばっかりで蓮くんの事考えてなかった・・・本当は分かってるのに。困らせて、ごめんね」
「いや、俺こそ・・・すまなかった。理由はどうあれ、香穂子を追い詰めてしまったのだから」


互いに小さく微笑みあい、絡む瞳が少しずつ温かく緩んでいく。

指輪の代りにリボンを結ぶなど子供がするささやかな約束のようだと思い、香穂子の指に蝶結びにされたリボンを見て、照れくささと熱さが急に込み上げてくる。閃いたのも身体が動いたのも咄嗟に・・・殆ど無意識だったのだから。だが大切なここで顔をそらす事は出来ないのだ、俺の想いを君に伝えるために。


指に巻かれた大きな蝶結びにされたリボンを見つめて、香穂子は驚いたように目を見開いていたけれど。
やがて泣きそうに揺らめいた煌く瞳が、柔らかく緩んでゆく。頬をほんのり赤く染めてはにかみながら、潰さないようにと反対の手で覆い、胸の中へ閉じ込めるように押し当てた。


左の薬指に止まった大きく白い蝶は、香穂子の手のしなやかさと白さを引き立てていて。新婦の清楚さと清らかさを現すピュアホワイトのリボンは、彼女が持つ心のように眩しく輝いている。手の甲を目の前にかざして、じっと愛しむように眺めていた香穂子は、フルフルと揺らしてリボンの蝶がはためく様子を、俺にも見せながら楽しんでいた。


空を漂う白い蝶を追っているとふと視界から消え、そうかと思ったら俺の頬にピタリと止まった。
香穂子の両手に包まれる、優しく温かい感触に目を細めれば、艶を増した互いの視線が甘く絡み合う。


「・・・きっと香穂子の荷物がまとまらないのは、目に見えない俺の想いが大きく溢れ過ぎているからだろうな。君のスーツケースにいっぱい溢れる、香穂子の想いと俺の想い・・・。一人分でも入りきらないのに、二人分なら尚更だ。だがこのまま、持ち帰ってくれるだろうか?」
「私の荷物に染み込んだ蓮くんの想い、確かに受け取ったから・・・ちゃんと私が持って帰るね。返してって言っても、絶対に返さないからね」


互いが互いの瞳を捕らえるように視線が絡まれば、熱く囁く俺の声も彼女の声も掠れているのが分かる。
潤み輝く大きな瞳に心ごと吸い込まれていると、俺の頬を包んでいた手がするりと首に廻され、絡みつくしなやかな腕にそっと頭ごと引寄せられた。


「蓮くん・・・好き・・・」
「香穂子・・・」


重なる唇・・・香穂子からのキス。
僅かに唇が離れると、熱い吐息が降りかかる。


「お願い・・・もっと私を呼んで・・・もっと囁いて欲しいの。暫く会えなくても・・・寂しさで潰されないように。ずっと耳の中に残るくらいに強く、蓮くんを刻み付けて欲しい。ここにある持ち物の一つ一つに蓮くんとの想い出が染み込んでいるように・・・私にも」
「・・・香穂子・・・君が好きだよ・・・愛してる。このまま離したくない。君の全てを俺でいっぱいにしたい・・・そして俺も、君に満たされたい。この空間全てに君を刻み付けたい・・・」
「蓮くん、もっと・・・呼んで・・・私を蓮くんでいっぱいにして・・・・・」
「香穂子も・・・俺を呼んでくれないか・・・」
「・・・蓮くん、愛してる・・・」


重なり合う吐息と唇の合間に囁かれる熱い想い・・・やがて少しずつ言葉が減ってゆき、甘い吐息だけが絶え間なく交わされてゆく。俺が強く腕の中に香穂子を閉じ込めれば、背をしならせながらも縋り付く彼女の力も強くなり、俺の事も引寄せようとする。深く絡まる舌と同じように互いを求め合いながら・・・身体をゆっくりと沈ませいった。

俺の部屋と・・・まだ荷造りが途中の君の荷物に、消えない思い出と記憶を染みこませる為に。
そして俺と君の心と身体に、同じものを刻み込む為に。


俺が君に惹かれて・・・俺の中は君でいっぱいなように、君の心も身体も事も、俺の全てで満たしたいから。
俺のことしか目に入らないように・・・俺の事しか考えられないように・・・。
この想いが、迷わず直ぐに戻って来れる道標となればいい。


二人で見た運河に沈む黄昏色は、心と目の裏に映る炎となり熱く互いの中を駆け巡った。