夏の始まり・1
音楽大学の広い構内に数件あるカフェは、街中のいたる所にあるものと、作りもメニューも雰囲気も何ら変わることが無く、癒しと寛ぎの空間を作り出している。店内には深い木目のテーブルと、腰の落ち着く革張りの椅子。そして外のテラスには強い太陽の光を浴びた真っ白いテーブルと、籐製の椅子。
クラシックな雰囲気に溢れる落ち着いた店内は、地元の若者が集うようなファーストフードやアメリカンタイプのカフェとは違い、ベルリンにある昔ながらのもの。作家や音楽科などの文化人が愛し多く集った、古き良き時代を感じさせてくれる。
街角のカフェで人々が集い歴史が刻まれたように、一人で読書をしたり譜読みをしたり、あるいは仲間同士で語らい議論を交わしたりと・・・それぞれの音楽や人生をを紡ぐ為に多くの学生がカフェに集うのだ。
どれだけ長くいても咎められる事は無いこの場所には、人とテーブルの数だけ物語があるのだと思う。
月森は強く眩しい太陽の陽射しを避けて、一人店内のテーブル席に座っていた。一番奥にある大きな窓際の二人がけ用のテーブル・・・彼がいつも好んで座る決まった場所に。五線譜の上に走らせていたペンを止めて傍らに置き、長い間下を向いていた背を起こすと、深呼吸しつつ軽く反らして伸びをする。
良く平気でいられるな・・・。ずっと炎天下の中で、暑くは無いのだろうか?
窓越しに見えるテラス席ではヴィルヘルムをはじめヴァイオリン科の面々が、木陰もパラソルも無い強い日差しの下で、いつもと変わらず賑やかに集っている。俺ならばとうてい無理だと、溜息を吐いて眉を顰めずにはいられない。外は空席が無い程賑わっているのに、店内を見渡せば中にいるのがどうやら俺一人だけ。店内席を担当するギャルソンも、暇を持て余したようにグラスを拭いている。
大学構内にあるカフェの中で唯一空調が効いている店だというのに、あえて暑い思いをしなくてもいいではないか? ドイツ人に限らず皆、日光が好きなのだなとつくずく思う。
まぁ静かだから、俺にとってはこの環境はありがたいが・・・。
夏が短いベルリンでも、真夏には30℃を超える日が続く。そんな暑い日でも、レストランやカフェの店内に入るものは殆どいない。外・・・つまりはテラスや中には、あるいは路上いっぱいに置かれたテーブルに誰もが好んで座るのだ。きっと冬場に現われない太陽を、今のうちに浴びておこうとしているのだろう。
だが30℃を超える日でも暑いことには変わりは無いが、日本と違い湿度が少ないから過ごしやすい。パラソルの下や木陰ならば風通しが良く、室内よりも余程心地が良く感じる時もある。そんな訳で、何しろエアコンを完備した店は大学の構内だけでなく、街中でも少ないのだから。
『こっちは毎日すっご〜く蒸し暑いの! お風呂上りの脱衣所みたいにムシムシして、息苦しいんだから。そっちは過ごしやすそうで羨ましい・・・早く蓮くんの所に行きたいよ〜!』
先日電話で香穂子と話した時に、お互いの近況や国の様子を伝え合った時の事を思い出した。
俺がドイツの様子を伝えると、香穂子は癇癪を起こしつつ泣きそうになりながら、受話器越しに大騒ぎをしていたものだ。パタパタと小さく音が一緒に聞こえてきたのは、きっと話しながら団扇か何かで扇いでいたのだろうか。暑さで顔を赤く染めながら眉を寄せて顰める様子が目に浮かんで、つい笑みが零れてしまい・・・。益々拗ねる彼女の熱さを煽ってしまったけれども。
テーブルに置かれたアイスコーヒーのグラスも、汗をかいたように結露で水滴に覆われており、中の氷も解けかかっていた。香穂子も今頃、ヴァイオリンと一緒に蒸し暑さに耐えているのだろうな・・・。
心に込み上げた温かい思いに口元を緩めながら、刺さっていたストローでグラスの中身をかき混ぜた。
早く、こちらへおいで・・・俺の元へ。
リンデンバウムの樹も、君が見たがっていた緑の葉を茂らせている。花の季節は終ってしまったが、木陰は本当に涼しくて気持がいいんだ。
カランと軽やかな音が鳴って、氷たちが歌う涼しげな歌が聞こえてくる。耳に心地良い響きをもっと聞きたくて、くるりとかき混ぜながら、舞い踊る氷たちを眺めていた。
溶けた氷によって離れていた水とコーヒーが、ゆっくりと混ざり合ってゆく。まるで離れかけても決して離れる事は無く、何度でも溶け合う俺と君の想いのように・・・。譜面に水滴を落とさないように気を配りながらグラスを持ち上げ、色が変わってゆくストローを眺めながらゆっくりと吸い込んだ。口と身体の中に広がる冷たさが安らぎを与えてくれて、ほろ苦いコクが人生を諭し語りかけるように、俺へと語りかけてくる。
俺の為、香穂子の為・・・。
香穂子の可能性を俺が潰してはいけない、このまま君に甘えてはいけない・・・自由に羽ばたいて欲しいと。
お互いを高める為にと理由をつけてずっとそう言い聞かせてきたけれど、自由というのは思った以上に辛くほろ苦いものだった。口に含む、このコーヒーのように・・・。
突き放す事は・・・彼女と離れる事は、やはり俺には出来なかった。
俺の音楽には-------俺には、香穂子が必要だ。
なぜもっと早く気がつかなかったのか・・・。
弱いだけの人がいないように、強いだけの人もこの世にいない。
そして君が長い間、優しく沈む夕日と煌く星空に、心に溢れる悲しさを打ち明けて慰みを得ていたのだと。
4月から始まった大学の夏セメスターも終わりが近づき、夏の訪れと共にやってくるのが長い夏季休業。
この時期になると何処へ行こうか何をしようかなど、学生達は皆バカンスの話題で持ちきりだ。
賑やかに浮き立つ周囲の学生たちを見て、心が一度も痛まなかったと言えば嘘になる。
香穂子と最初に離れた夏が毎年巡ってくる度に、取り残されたような悲しみや孤独感を、心が引き裂かれる程に味わった。しかし今年の夏は違うのは、冬に約束したとおり、香穂子が来てくれるからなのだろう。
お互いの学業が始まり、再び離れる生活が始まったが、寂しいと・・・香穂子が恋しいと感じる事はあっても、辛く悲しいと思う気持は俺の中から消え去っていたのだと気が付いた。
そして、君を驚かせたいからまだ言えないけれど、俺にも夢の形がはっきりと見えてきたんだ。
いくつかのコンクールでタイトルを取り、音楽に関して耳の肥えた人々の集う街中で演奏をしたりと。いろいろな方向からアプローチを続けてきた俺の目の前に現われた、描き続けていた大きな夢の扉。
扉の先へ進む為の鍵を手に入れるまで、あと少し・・・今はその為の曲を手がけているところなんだ。
待ち遠しくて浮き足立つ気持も、今なら俺にも分かる。
バカンスが終わり冬セメスターが始まれば、卒業まであと1年。大学卒業までに夢を掴むという、自分が決めた期限まであと僅かだ。残された時間の短さを悔いるあまりに振り返ってばかりでは、心縮んでしまうだけ。
だから気づかなかった事への後悔を、気づけた喜びに変えよう。そして暗闇の先にある光りへ向かって、何度でも手を伸ばそう。みっともないくらいにじたばた足掻きながら、俺たちは生きているのだから。
俺たちの探していたものは、遠くではなく“ここ”にある。本気で生きる、俺と君の中に・・・・・。
愛するというのはお互いに見つめ合うだけではなく、同じ方向を一緒に眺める事。
早く、君に会いたい。
俺のこの身と心と音楽と、全ては君の為にあるのだから・・・・・・。
静かにグラスをテーブルへ戻してふと外を見れば、窓を隔ててすぐ近くに座っているヴィルヘルムと目線が合った。声は聞こえてこないが口の動きから、こちらへ来いと手招いているのが分かる。数個のテーブルに陣取る皆もポツンと空いている一つの席を手で示して、俺の席がここにあると教えてくれるけれども。
ここから見ているだけでも疲れてしまうんだ、それだけは勘弁してくれと思う。
苦笑を漏らしながら首を横に振ると、あからさまに肩を落として拗ねる可笑しい彼らの姿が映って見えた。
窓枠に映る一枚の絵画のように、強い日差しに照らされて眩しく輝きながら。
夏が、始まる----------。
再びテーブル向かうと転がっていたペンを手に取り、真っ白い書きかけの五線譜に浮かんだ音符を走らせて行く。元にある譜面やフルスコアを見ながらアレンジをして、俺の中にある彼女の笑顔を音色に変えて。