「今日は1日楽しかったな。あ〜あ、でもこの街もこの景色も、あと少しで暫く見納めか・・・」


冬の太陽は忙しなく沈んでしまう。まだ午後も早くお茶の時間頃だというのに、買い物を終えて店を出れば、見上げる空にはオレンジ色の黄昏空が広がっていた。


俺も香穂子も両手いっぱいの荷物を抱えながら、のんびり運河沿いの小道を並んで歩く帰宅の道すがら、どこか寂しそうな溜息混じりに呟く声が聞こえてきて。独り言なのかそれとも俺への言葉なのかと、隣に寄り添う彼女にゆっくり視線を向ければ、両手に抱えた大きな袋をしっかり抱き締め顔を埋めるように、赤く染まる水面を目を細めるように遠くを眺めていた。


宝石のような運河の煌きを背に纏う香穂子の横顔も、辺りを照らす夕日を受けて茜色に溶け込んいる。
だからだろうか・・・このまま一瞬でも目をそらしたら、君は黄昏空の後にやってくる宵闇に一緒に溶け込んでしまうのではと思えてならない。
俺は目を離す事が出来ずにじっと見つめていた・・・どうか消えないでくれと願いながら。





もうすぐ大学の講義が始まるから、さすがにもう日本に帰らなくちゃ・・・・・・。

香穂子が心の中で下した決心をはっきりと、けれどもポツリと寂しそうにそう俺に告げたのは数日前だった。
クリスマスが終るまでだったのが、年が明けるまで・・・そして冬休みが終るまでと離れ難さが少しずつ、彼女のドイツでの滞在を延ばしていた。時差ぼけの調整や片付け講義の準備などと、帰国しても元の生活に戻るまできっと慌しいのに、彼女は俺との時間の方が大切だからとそう言って、大学の講義が始まる前日に帰国する事になったのだ。


12月に入ってすぐに俺の元へ来たから、もうかれこれ1ヶ月以上は経つだろうか? 
長かったような短かったような・・・あっという間の時間。

一人でいたときよりも時間の経過が早く感じるのは、それだけ君が過ごす日々が楽しく幸せで充実していた証なのだろう。いつの間にか君と過ごす日常が当たり前のように感じていたから、帰ると分かっていても遠い先の事だとどこかぼんやり考えていて・・・いや、あえて考えないようにしていたのかも知れない。


帰る支度をする君を、本当は見たくない・・・返したくない。

君と過ごす時間が続けばいいのにと・・・このまま閉じ込めておけたらと心から願うが、けじめはつけなければ・・・本当の日々を得る為に、自分自身の為にも彼女の為にも一度返さなくては。


花のような君の笑顔を悲しみの涙で曇らせたくないから、俺も笑顔で送り出したいと思う・・・君が笑っていられるように。香穂子の想いを強く感じるだけに、俺も受け止めたものをそれ以上なもので返したいから。
けれども君は勘がいいから、俺がどんなに心の中でひた隠しにしていても、簡単に見抜いてしまうんだろう。


旅立つ者を送り出す身・・・俺が遠く海の向こうへ渡る時に君が抱いた思いも、こんな感じだったのだろうか。
送り出す側になって初めて、君がどんな想いで見送ってくれたのかを、心の底から俺は理解した。


また会えると分かっていても、お互いに身を裂かれるほど辛い決心。
荒れ狂い走り出したくなる心を理性の限りで押さえれば、耐えるように眉間が深く潜められ、拳を強く握り締めた。激しく渦巻く葛藤が胸を押し潰し、重苦しく圧し掛かってくるようだ。





「・・・くん、蓮くん、どうしたの? 具合悪いの? 大丈夫?」
「・・・香穂子?」
「良かった・・・やっと気が付いた。苦しそう・・・汗かいてるよ。ずっと呼んでたんだけど、蓮くんってばどっか遠くを見てて私の声も聞こえなくて・・・凄く辛そうだった」
「心配かけてすまない、俺は平気だから。具合が悪いわけではないんだ」
「ごめんね。私があちこち引っ張り回しちゃってる上に、いっぱい荷物まで持ってもらっちゃってるからだね」
「違うんだ・・・香穂子のせいじゃない。思い出した事があって、少し考え事をしていたんだ。君との大切な時間に余所見をしてしまって、申し訳ない」


何時の間に歩みが止まっていたのだろうか。気が付けば隣にいたはずの香穂子が、目の前で心配そうに俺を見上げていた。すまないな・・・とそう言うと、ぎゅっと唇を噛み締めてぶんぶんと首を横に振る彼女の方が辛そうで、瞳は今にも泣き出しそうなくらい潤んでいる。

俺も君にこんなにも悲しい顔を見せていたのだろうか・・・と、伝わる想いが黄昏色を纏う切なさとなって込み上げ、キチリと音を立てて俺の胸を締め付けた。互いに向ける瞳の色も鏡を映したように同じなのは、本当は彼女も分かっているのだろう・・・抱えるものはきっと同じ思いなのだと。

俺は大丈夫だから、どうか俺の大好きな君の笑顔を見せて欲しい・・・。
戸惑い揺れる瞳に自分を映して、瞳で君を抱き締めるように微笑みかけた。


「香穂子のお土産はお菓子ばかりなんだな。こんなにたくさん食べ切れるのだろうかと思っていたんだ。甘いものに囲まれて、俺なら数日で根を上げてしまいそうだと・・・」
「・・・もう、蓮くんってば。私心配してるのに、話をはぐらかしたでしょう!」


真っ赤に染めた頬をプウッと膨らまして俺を睨む彼女は、はぐらかされたと知るや逆に怒って拗ねてしまい、頬を膨らましたままプイと顔をそらしてしまう。あながち嘘でも無いのだが・・・そう思いつつも、真っ直ぐ向ける想いを軽く受け止めた事で彼女を傷つけてしまったのは確かだから。


すまなかった・・・こちらを向いてくれないかと、心からの謝罪を述べて優しく語り掛ければ、心に落ち着きを取り戻るかのように、じっと黙って夕日に染まる運河を眺めていたが、やがて溜息を吐くように一度大きく深呼吸をした。


「お菓子だけじゃなくて、ソーセージも焼きたてのパンもカフェで食べたクーヘンも持って帰りたいんだよ」
「見事に食べ物ばかりなんだな」
「それだけじゃないよ。本当はここで見た景色や触れた音楽、とても温かい大切な人たちの想い、蓮くんと過ごした時間・・・この国を丸ごと・・・蓮くんごと一緒に持って帰りたいの。でもさすがに全部は無理だからね・・・我慢しなくちゃ」


黄昏の中、静かに語る香穂子がゆっくり俺を向き二人の視線が熱く絡み合う。
瞳の奥に映るのは運河に沈む夕日の赤さなのか、それとも互いの心の中から溢れたものなのか。
刻々と姿を変える太陽のように一瞬たりとも同じ表情を見せない君は、振り返った今も先程とは違っていて。沈みかける太陽のようにどこか陰りを見せて力なく微笑み、煌く運河と黄昏の中に佇む姿は妖しく息を飲むほど美しく感じ、惹き付けられずにはいられない。


みんなみんな、大好きだから・・・。
それが蓮くんや皆からもらった最高のお土産、一番大切なものは私の胸の中にちゃんとあるの。
蓮くん、ありがとう・・・・・・。


ふわりと柔らかく微笑み、胸に抱えた大きな袋をキュッと強く抱き締めると、心の奥底に潜む辛さを振り切るように・・・耐えて表情を隠すように俯いてしまう。


僅かな滞在だったにも関わらずまた来たいと・・・帰りたくないと願うほど君をこの地へ留めておけるものが・・・心に宿し大切に根付いているものがたくさん生まれた事が、とても嬉しく思う。君を強く繋ぎとめるのは俺自身だけでなく、俺が暮らすこの国ごと好きになってくれたらとずっと思っていたから。


うずくまり小さく震える華奢な肩に頬と瞳を緩めて優しく呼びかけると、おずおずと顔があげられ、ほんのり赤く染まった目元には、運河の水面と同じく光りの雫が煌いていた。瞳を大きく見開いて滲み出た涙をこれ以上零さないように耐えながら、すんと鼻をすすり上げている。


「俺も香穂子から、たくさんのものをもらったよ。形あるものから無いものまで、この胸にしっかりと消えずに熱く宿っている。過ごす日々の中で感じた君が大切だと・・・愛しいという想いは今まで以上に大きなものだ。君を想う気持と俺自身の進む道を改めて教えてくれたんだ・・・何よりも大切なものを。俺からも、ありがとう」
「蓮くん・・・」


せっかく我慢をしていたのに、みるみるうちに瞳と頬がくしゃりと歪んでしまい、堰き止められていた雫が一つの光る線となって頬を描いてゆく。けれども荷物で俺の両手が塞がっているから、君を抱き締める事も触れる事も出来なくて。代りに僅かに身を屈ませながら顔を寄せると、キスをするようにそっと優しく彼女の柔らかい頬に俺の頬を触れ合わせると、伝う雫を拭うように愛撫をした。






このまますぐには家に帰り難く、運河を架ける白い石造りの橋の上に寄り添い佇みながら、荷物は下に置き身軽な状態で、沈む夕日と赤く染まる絵のような街並みを眺めていた。橋の歩道にある胸の高さほどの欄干に頬杖をつき、綺麗だねと遠くを見るようにうっとりと呟く君と、欄干に背を預け寄り掛かりながら身体背後に捻るようにして君と運河を眺める俺。


「今度は温かくなったら来たいな。こっちは日本と違って夏でも湿度が低いんでしょう? 楽器を弾くには最適だよね。蓮くんの暮らすこの国を、この街のいろんな季節をもっと見てみたい」
「国内のあちらこちらでサマーコンサートがあるんだ。普段はホールの中でしか聞けない著名なオーケストラの演奏も、野外で気軽に聞けたりする。それに夏は日が長いからなかなか沈まずに夜になってもずっと明るいんだ、沈まない太陽・・・冬の今と正反対だな」
「へ〜そうなんだ! じゃぁ、いっぱいお出かけができそうだね」
「何よりバカンスになれは、香穂子と長い間ずっと一緒にいられる。俺も、君と一緒に行きたい場所や見たいもの、やりたい事がまだたくさんあるんだ。恐らく何ヶ月、何年あっても足りないかもしれない・・・」


見つめる香穂子の笑みが深まり、込み上げる愛しさに瞳を細めずにはいられなくて。
互いに額を寄せて小さく笑い合うと、彼女は肘を付いていた橋の欄干から腕を伸ばして身体を起こし、くるりと向きを変えて俺と同じように背を預けるように寄り掛かった。


「嬉しい・・・もっと知りたい、いろんなところに連れて行って欲しい。本当はね、このまま帰りたくないもの。また直ぐに会えるって分かっているけど、やっぱり寂しい・・・かな、来た時にはあんなにワクワクして嬉しかったのにね。今まで待ってた数年間よりはずっと短いはずなのに・・・」
「香穂子だけじゃない、俺も同じだ。俺だって、出来る事ならこのまま君を帰したくないんだ」
「でも駄目なんだよね、ちゃんと一度帰らなくちゃ。次に会えるまでやらなくちゃいけない事もたくさんあるし、けじめはつけなくちゃだもんね。その間、ちょっと寂しいけど頑張るね。音楽もドイツ語も自分自身も・・・私は蓮くんのパートナーですって胸張って自信がもてるように」


バイトしてお金もいっぱい貯めなくちゃと、肩を小さく竦めてふふっと笑う。
今回は蓮くんのご招待だったけど、次からはちゃんと自分で来たいからねと。

向ける笑みを受け止めると、俺は寄り掛かる背を少し浮かせて振り仰ぐ彼女へと身体を寄せ、ピタリと並ぶように腕を触れ合わせた。宵闇と共にやってくる寒さを和らげるように伝わる温もりに包まれて、どこか心が安らぎそれでいてくすぐったく感じれば、傍らに寄り添う君も頬を染めて恥ずかしそうに照れていたけれど。


「ねぇ蓮くん・・・・・一つだけ我侭言ってもいいかな?」
「どうした?」
「あの、あのね・・・・・・」


ふと何かを思いついたのか、突然眉を潜めて俺を見上げてきた。しかし想いを言葉にする苦しさからなのかそれとも迷っているのか。絡む瞳はこんなにも必死に強く訴えてくるのに、どうしたのだろうかと紡がれる次の言葉を急かすことなく待ち、静かに見守っていると、やがて聞こえてきたのは切なさの混じった溜息。
彼女の心が直接俺の心へ届き、小さな痛みをもたらすような・・・。


「蓮くん、日本には帰らないの?」
「・・・もちろん帰るよ。だがいつかというのは、まだはっきり答える事ができないが」
「あのね、たまにはちょこっとでもいいから日本にも帰ってきて欲しいなって・・・私にも会いに来て欲しいなって思ったの。でも無理にとは言わないよ、忙しいだろうし、考えもあるだろうし、蓮くんの邪魔したくないから」
「・・・直ぐにというのは難しいが、必ず君に会いに行くよ。俺が日本に戻る時は、手に入れた夢と共に君を迎えに行く時だ」
「蓮くん・・・・・・・」
「一日も早く君の元へ帰る為に、俺も頑張るよ。二人で共に力を出し合えば、その日はきっと近いと俺は思う」


熱く真っ直ぐ言葉と同じように正面から視線を注げば、不安と苦しさに揺れていた瞳が和らぎ、鮮やかな色を取り戻した頬も硬さがとけてゆく。嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべながら、照れくささを誤魔化す為なのか、前にきゅっと握り合わせた手をポンポンと揺らすようにリズムを取っている。


「ふふっ・・・何だかプロポーズの台詞みたいでドキドキしちゃうよ。蓮くんの気持と言葉は、私の心に真っ直ぐ届くんだもの・・・何時でも本気だって伝わるから」
「みたいでなく、本気だと言ったら?」
「・・・今はリハーサル(予行練習)、パーティーで貰ったブーケやアルバムみたいに。その続きは本番のステージまで大切にとっておこうよ。私も蓮くんも、一緒に夢を掴んだその日まで」
「そうだな、時期はまだ熟していない・・・焦っては駄目だな。君と離れ難くてずっと共にいたくて、俺も気ばかりが焦っているのかも知れない・・・」
「私の返事はね、もう決まっているけど蓮くんには内緒!」


待ってるから・・・。


熱く吐き出すと息と共にそう言って、香穂子はもたれかかっていた橋の欄干から身体を起こすと、潤む熱い瞳で真っ直ぐ俺を振り仰ぎ見つめてくる。預けた背をゆっくり起こしつつ、水面を受け止め彼女の正面に向き合った。瞳も心も回る時さえも君に射抜かれて止まり、見つめ返す俺もまた、同じように君の瞳を射抜き時を止めているのだろうか。

君が俺を信じてくれて必要としてくれる事が、とても嬉しい。それは生きる意味がもうひとつ増えたから。
俺の周りにはいろいろな人たちがいるけれど、強さも弱さもまるごと受け止め真っ直ぐに信頼を向けてくれるのは・・・君だけ。だから側にいると安心するし、いつも俺の為に力を貸してくれる君の為に、力になりたいと思う。


黒いシルエットを描く並木道や石造りの建物の間で、黄昏色を映した運河が空と溶け合い一つに繋がり、暗闇の中を天へと続く道を作り出している。家に帰ろう・・・そう語りかける空が誘うのは俺たちが共に帰る今の家なのか、互いにあるべき海を隔てた場所なのか。家路へと優しく誘う色は泣きたくなる様な温かさと、切なさを漂わせて俺たちを包みながら心にもその色を鮮やかに写してゆく・・・俺の心にも、君の心にも。




束の間の切なさだけを吹き飛ばすように微笑で返すと、ゆっくりと身を屈めて振り仰ぐ香穂子の唇に頬を照らす夕日の持つ温かさを乗せてそっとキスを贈った。
水面の彼方に日が沈むように少しずつ覆い被さっていく俺の影が、光りを受けて輝く君を包み込みながら。


優しく温かく、確かな感触に乗せて・・・誓いや決意、溢れる想いを唇に託して。



沈む夕日の後に訪れるのは宵闇に輝く満天の星空・・・。
そして長い夜の後には、希望の朝が必ずやって来るのだから。










黄昏空を映して・2