車窓〜before ride〜
テーゲル空港は、六角形をした建物が印象的な空港だ。ドイツの首都にあるにも関わらず、フランクフルトに比べると、どこかこじんまりした印象を受けるかもしれない。
ベルリンの中心地から比較的近く、SバーンやUバーンといった電車は通っていないが、バスやタクシーを利用すれば、約20分前後で中央のツオー駅まで到着する。
到着ロビーを出てすぐの所にある、バスやタクシーがずらりと並んだ空港の中央玄関。
見るもの全てが気になるらしく、俺の手を握り締めたまま、先程からきょろきょろと周囲を見渡している香穂子にたずねた。
「ここからツオー駅まで行って、Uバーンに乗る。安いのはバスだが、路線がいろいろあって分かりにくい。降りる場所を間違えないようにと心配だったり、到着が夜遅い場合は、タクシーを利用するのがいいと思う。どうする?」
「あんまり贅沢できないから、バスでいい。まずは基本のルートで覚えたいから」
「分かった。今日は俺もいるし、遅いけれどもバスにしよう。一人の時は無理せず、タクシーを使ってくれ」
「あ・・・ちょっと待って、蓮くん」
バス乗り場へ移動しようと足を踏み出した俺の腕を引っ張ると、ハンドバックを開けて中からペンとメモ帳を取り出した。メモを取る準備を整えた香穂子は「いつでもOKだよ」と言って、まるで取材記者のように構えている。驚いたように目を見開いて、意気込む香穂子の顔と手元の手帳を交互に見つめた。
「その、ペンとメモ帳は何に使うんだ?」
「忘れないようにメモっとくの。ちゃんと一人でも来れるように。だから蓮くん、いろいろ教えてね」
にこりと笑ってそういうと、さっそく手帳に何かを書き始めた。周囲を見て場所を確認しながら、俺の言葉を思い出すように復唱してペンを走らせていく。
本気なんだな・・・。
正直驚いた。彼女の気持ちが、これ程までに真剣なものだったとは。
香穂子にとっては初めて訪れる異国の地であるだけに、不自由が無いようにあれこれ世話を焼きたい所だが、気持ちをぐっと押さえ込む。出来ることは自分でしたいのだと、お客様扱いを望んでいないのが分かるから。単なる一時的な観光ではなく先を見据えたものなのだという、彼女の真摯で真っ直ぐな想いが伝わってくる。向けられた想いに触れて、胸の奥から熱さが込み上げて来た。
今まで一人きりで歩いてきた街を、君が一緒に歩もうとしている。
一人きりで見ていた景色を、共に見ることが出きる・・・。
同じものかどうか、行く先は違うものか、今はまだ分からないけれど。
寄り添いあって同じものであればいいと、心から願いつつ・・・。
香穂子・・・と呼びかけると、ペンを止めて顔を上げた君と視線が絡み合う。少し屈んで、目線の高さを合わすように瞳を覗き込んだ。
「では、まず路線の見方。それと切符の買い方と、バスや電車の乗り方からだな。日本とは少し違うから」
「覚えたら、突然来てびっくりさせてあげるからね」
「サプライズは嬉しいけれど、心配のあまり俺の心臓が止まってしまいそうだ。必ず連絡してから来ると約束してくれなければ、教えない」
「えっ、そんなぁ!? 困るよ!・・・分かった、約束する」
「中央駅行きは3番乗り場だ、行こうか」
長旅の疲れも見せずに、元気さ溢れる香穂子の瞳。
そうは言っても君の事だから、きっと突然来てしまうんだろうな。
苦笑を微笑みに変えて手を取ると、ゲートからの流れに乗るように、駅へと向かう人で混み合うバス乗り場へと向かった。
Sバーン(近郊列車)、Uバーン(地下鉄)、バス、トラム(路面電車)。
ベルリンにある様々な乗り物の料金体系は全て同じ。乗車券も共通なので、有効期間内なら1枚の切符で全ての乗り物が何度でも利用できる。基本的に乗り放題なので、いつまで使うかによって切符の種類が分かれてくるんだ。1回券の2時間利用〜7日間有効のものまで多数。ベルリン市内にはA・B2つの料金区域があり、ポツダムなどの市外はC区域となる。利用区域が分かれているから、香穂子のように初めて訪れる旅行者にも分かりやすいと思う。
説明を聞きながらドイツ語と格闘しつつ、パソコンのような券売機のパネル画面を操作する香穂子が、眉根を寄せた困り顔で助けを求めてきた。
「いっぱいあって、どの切符買えばいいのか分からないよ」
「俺の家は市内だからABゾーン。主な観光スポットもそれでカバーできる。長期の滞在だから7日間用がいいんじゃないか? 7-Tage-karte(ジーベルターゲスカルテ)とあるやつだ」
「じゃぁ、それにする」
「ちなみに1回券はEinzslfahet(アインツェルファーカルテ)、1日券はTageskarte(ターゲスカルテ)」
パネル画面をそれぞれ指差すと、彼女は一つ一つ聞き返して確認しながらメモを取っていく。一字一句聞き漏らさないように耳を傾ける香穂子が分かりやすいように、俺もゆっくり丁寧に説明をする。どんなに苦戦しても自分でやり遂げたいらしく、俺が手を貸そうとすると嫌がる始末。なので一通り操作して発券された切符を受け取るのに、慣れれば簡単な操作なのだが大分時間がかかってしまった。俺たちの後ろに人が並んでいなかった事が、せめてもの救いだったと思う。
どんな時でも君は前向きで一生懸命で。しかも俺と同じで君の意思も固くて頑固だから、やると言ったら必ずやるんだ。きっとこの先も行く先々同じ調子で、メモが増えていくことだろう。
しかし香穂子が、俺のいるドイツに真剣に興味を持ってくれるのが、正直とても嬉しい。
同じ情報や思い出を共有できることで、君との距離がもっと近くなる・・・そんな気がする。
まるで今までどこか一方通行だったものが、互いに交わったような。
ツオー駅行きの急行バス乗り場へ向かいながら、重要な事を忘れる所だったと思い出した。駅行きの3番を示す掲示板の前に着くと、メモの出番だぞと声をかける。香穂子は嬉しそうにいそいそとメモ帳のページを捲って、書き取る用意をし始めた。
「バスも電車も、乗るときは外からボタンを押さないと扉が開かないんだ。閉まるときは自動だが、気をつけてくれ。降りるときも一緒だ」
「うっかりしてたら乗り過ごしそう。日本の、寒い地方にある電車みたいだね。ベルリンも寒いからかな?」
「さぁどうだろう。それともう一つ大切なこと。バスは車内に刻印機があるけれど、電車には改札が無いんだ。券売機の横やホームに赤い小さな刻印機があるから、切符を買って必ず刻印してくれ」
「改札がないの? タダ乗りする人とかいない?」
地方の無人駅と違って都心の真っ只中なのにと驚く香穂子が、誰しも一度は思いつくであろう質問を投げかけてきた。君に限ってはありえないと思うが、それだけはしないでくれと苦笑しつつ注意を促す。うっかり忘れも同罪なのだと。
「不定期に私服を着た交通局の職員が検札に回るんだ。忘れると高額な罰金になる。外国人だって旅行者だって容赦はしない」
「そっ・・・そうなの!?」
「検札の様子を見ると、みんなきちんと切符や定期を携帯しているよ。法律を守る真面目な国民性が、ここにも現れていると思う。高い罰金を払うくらいなら、きちんと運賃を支払うべきだ」
乗り場の掲示板と右腕の時計を見比べていると、ペンと手帳を握り締めたままそっと隣に寄り添ってきた。背伸びをするように、一緒に掲示板を見上げながら語りかけてくる。
「・・・蓮くんは、うっかり忘れた事ってある?」
「パスケースはいつも肌身離さず持っているから、それは無いな。大切なものと一緒に入れてあるんだ」
「大切なものって何?」
「それは、内緒」
目を輝かせて話しに食い付いてきた香穂子は話をはぐらかされて、悪戯っぽくぷうっと膨れた。
もちろん本気ではないと分かっているけれど。
蓮くんのケチ、教えてよ〜と甘えるように腕を揺すってくる可愛い仕草に愛しさが募って、抱きしめたい衝動に駆られるが、宥める様にポンポンと頭を優しく軽く叩いた。
定期券の入っているパスケースには、大切な人たちの写真が入っている。
家族の写真と、君と。だからいつも携帯しているんだ、肌身離さず。
滞在中にもしも検札に出会ったなら、きっと君に分かってしまうかもしれないな。
照れくさいけれども、君が気づいたらその時には正直に伝えるよ。
それに・・・。
伸びをしたり遠くや周りを眺めたりと、待ち時間を少しだけ持て余し気味なのか、待ちきれないのか。ソワソワ落ち着かない横顔を、チラリと見て想う。
ようやく今の君の姿である、新しい写真に変えることが出来そうだ。
あ!と目が覚めたように声を上げた香穂子が、俺の腕を揺すりながら、ターミナルを大きく回りこんでくる黄色い車体のバスを指差した。
「バスが来た! ツオー駅行きの急行バス、あれでしょ。私にも分かったよ」
「メモの成果が、早速出たようだな」
「帰る頃には、いつでも暮らせるように、ドイツ通になってみせるからね」
「それは楽しみだな、俺はいつでも大歓迎だ」
お互いニコリと笑い合う。
そうするうちにも掲示板前に到着したバスの扉が開いて、人が次々に乗り込んでゆく。香穂子に手を差し出すと彼女もその手を重ねて、互いに絡め合うようにしっかり握り締める。手を引いて、人々の後に付くようにバスへと乗り込んだ。