resolution (決意)

ピアノの椅子に腰掛けた月森は、そっと香穂子を引き寄せた。
自分の膝に横座らせると、片手で背中を抱え込むように抱きしめる。


「香穂子は星奏の音大受けるんだろう?」
「うん、私は普通科だから一般入試だけど」


内部試験があるとはいえ、エスカレーターで進めるのは音楽科の生徒のみなのだ。
コンクールで上位の成績を収めた香穂子といえど、それは例外ではない。


「俺は音大へ進む内部選考試験、受けなかったんだ」
「え・・・それって」


以前学校の代表として演奏会に出たことがあった。
丁度音楽科の内部選考試験と日程が重なっていて、香穂子がなかなか伴奏者が見つけられずに困っていたところを、月森が伴奏を引き受けてくれたのだ。


「もしかして試験の日程と、前に伴奏を頼んだ私の演奏会が重なったから?」
「違う、香穂子の演奏会とは関係ない。元から受けないつもりだった」
「じゃぁどうして!」
「星奏には進まない。卒業したら、俺はドイツの大学に留学する」


今、なんて言ったの?


「ベルリンにある国立の音楽大学だ。短くて4年は向こうにいることになる」

月森の言葉を頭の中で何度も反芻する。
しかし思考する事を拒絶した頭の中では、言葉だけが虚しく空回りしていく。


やはり・・・そうだったんだ。
思えばずっと前から、何となくそんな気がしていた。
いつかは、私の前から“世界”という大空へ羽ばたいて行ってしまうと・・・。


今かろうじて理性を保っていられるのは、空虚な心の中に、もう一人の冷静な自分がいるから。


人は強い衝撃を受けると感情が麻痺するというが、どうやらそれは本当らしい。
ショックなのか、悲しいのか、不快感の謎が解明されて安堵しているのか。
様々な感情が入り乱れて、言葉を紡ぐ事や、瞬きさえ忘れてしまった。


今の自分はいったいどんな顔をしているのだろう?



月森は、表情の無くなってしまった香穂子の頬を、両手でそっと包み込んだ。
氷に閉ざされた微笑みを溶かすようにと、持てる熱を全て込めて。


「すまない・・・ずっと言おうと思っていたけれど、言い出せなかった・・・」


最後の方は吐息にかき消されて、聞き取るのがやっとだった。
うなだれるように俯いた月森の表情を、さらさらの青い前髪がベールのように覆い隠した。
青いベールの向こう側できっと彼も、心の中で涙を流しているのかもしれない。

「ドイツに行くって決めてるのに、なぜ進路希望表を出さなかったの?」


ポツリと呟いた香穂子の言葉に、月森がゆっくり顔を上げた。


「いずれ分かることなら香穂子に話してから、と思ってた。でもなかなか言い出せなかった」


毎日共にいる時間は十分あったのに、決心が付かなかった。
きっと泣かせてしまうかもしれない。きみの泣き顔をみるのが辛かったから。

いや本当は違う。

それ以上に、この関係が終わってしまったら・・・という恐怖が頭を離れなかった。
香穂子がいるから今の俺がいる。
もしいなくなってしまったら・・・。俺はまた、昔の自分の音へ戻ってしまうかもしれない。


「事実を告げたら香穂子が遠くへ行ってしまいそうで、怖かった。結局は俺が臆病だったんだ」
「蓮くん・・・」

香穂子は月森の胸に身体を預けた。
互いに抱えていた不安は同じだった。離れたくないのだという、強い想いも。


留学の決意を直接聞かされて確かにショックだったが、月森も辛いのだと、その事が香穂子には辛かった。
今にも泣きそうな月森の顔を見たのは、始めてだったから。


「すごくショックだったけど・・・私ね、なんとなく分かってたよ。でもね、秘密にされる方がもっと辛いの。私たちにとって大切なことなら、もっと早くに言って欲しかったな」
「俺のせいで、きみに余計な不安を与えてしまった・・・本当にすまない」
「私の事、もっと信じて。女の子はね、男の子が思っているより意外と強いんだよ」


月森は一瞬驚きに目を見開いた後に、柔らかく瞳を和ませた。
再び戻った笑顔と、香穂子もつられて笑みを浮かべた。




今日は練習どころではないなと、月森の腕の中で微睡みながら香穂子が思った。


「大学っていうと4年かな?・・・長いね。私たちが一緒に過ごした時以上を、離れて過ごさなくちゃいけないんだね」
「そうだな、確かに長いかもしれない。しかし大切なのは、どれだけ一緒に過ごしたかというよりも、どのように過ごしたかということなんじゃないか?」
「あと1年ちょっと。うぅん、まだ1年以上もあるんだよね。離れていても寂しくないように、いっぱい思い出つくろうね!」


ただ何もせずあっという間に過ぎ去る日々よりも、1日ずつが充実している数日間の方が価値がある。
これから二人でどう過ごすかが大切なのだ。
離れている間も、それは同じ。



「ウチはお兄ちゃんも関西の大学に行って離れているし、蓮くんの家もご両親外国で離れて過ごす事多いでしょ?」
「あぁ」
「遠くにいても、心はいつも側にある。絆は無くならないって、私たち遠距離体験済みじゃない!」
「そうだな、いろいろ難しく考えていたのかもしれないな」


すれ違った糸が、再びしっかりと二人の中で繋ぎ合わさった。
これからはこの糸が離れることないように、お互いを信じるのみ。


お互いを信じるという試練を与えれられるのは、まだ少し先の話。
信じる事は相手の大きな力にもなる反面、難しくて大変さから相手を傷つけてしまう恐れもある諸刃の剣。


そして遠距離といえども、家族と恋愛の場合は違う。
違いというの身をいずれ身もって体験するのだが、若い二人はそんな事知るよしもない。


「今はメールも電話もあるし、格安航空券もあるし、世界は広いようで近くなったんだよ。海は越えても、遠距離なんかに負けないんだから! 蓮くん、頑張ろうね」


香穂子は月森の膝から降りると、手をとって立ち上がらせた。
正面から真っすぐ瞳を見詰めて、想いを伝える。


「蓮くん、いってらっしゃい。私も日本でヴァイオリンを続けるから、夢を掴んできてね」


進む道は違っても、目指すものは同じだから。
あなたを好きだから、あなたに想われているからこそ、重荷になりたくないの。



「香穂子・・・」


月森は香穂子の腕を強く引き寄せ、腕の中に抱き寄せた。


自分のせいで、泣きたいほどの衝撃を受けたに違いない。
なのに、いつも自分の事より、俺の事を一番に気に掛けてくれる。
だからいつも、その優しさに甘えてしまうんだ。


日本では音楽を始め芸術分野を極めることが、とくに難しい。
故に月森の家に生まれたからには当然と、きみに出会うまでは疑問すら抱いていなかった留学。
土壇場になって心が揺らいだ本当の理由は。
離れたくはない・・・ただそれだけ。


『私をもっと信じて・・・』
不安だったんだ。遠い距離と同じく、心まで離れていってしまうのではないかと。


『いってらっしゃい・・・』
俺に向ける笑顔の裏に、溢れる涙の滴を見た。
香穂子の決意、俺の決意。


これ以上泣かせない為にも、絶対プロのヴァイオリニストに、きみにふさわしい一人前の男になってみせる。





香穂子が、そっと瞳を閉じた。
それは二人だけの合図。


互いの胸に宿った決意、愛しさ・・・様々に燃える想いを、口移しで伝え会う。
いつもの優しいものではなく、熱く、激しく、何処までも深く。









※お題の「いつかあなたと」にリンクしています