音に生命を・5

休憩を取り終わり、再び大広間に戻ってきた。けれども今この絢爛豪華な広い空間にいるのは、蓮くんと私の二人だけ。少し、二人だけにして欲しい・・・・そう彼が頼んだから。

広間の中心にある大きなシャンデリアの下に立ち、静かに呼吸を整えて弓を弦に下ろすと、緩やかに流れるヴァイオリンの音色が華やかな空間に吸い込まれてゆく。気持が落ち着いてきたからなのか、さっき蓮くんと合わせた時よりも、音に乱れが無くなったように感じた。



穏やかな表情で気持良さそうにヴァイオリンを奏でる香穂子から少し離れた所で、月森はじっと佇んで音色に耳を傾けている。曲が終わり余韻がすっと宙に溶け込んで消えた頃、楽器を下ろすのを待って、柔らかく語りかけた。

「気持が、だいぶ落ち着いてきたみたいだな」
「うん・・・さっきはごめんね・・・」

視線を向けて小さく笑うと、いや・・・俺の方こそ・・・とはにかんで、一歩一歩ゆっくり私の元に歩み寄ってきた。静まり返る大広間に大理石の床が奏でる足音が、コツンコツーンと高く響いてゆくのを聞きながら、今度は不思議と、心は落ち着いたまま縮まる距離を受け止められた。やがて磨かれた床に落ちる足元の長い影が重なり、目の前が陰ると硬い足音がピタリと止まると、真っ直ぐ向けられる瞳がふと切なそうに歪められ、呟きが消えそうな吐息に混じった。


「すまなかったな。香穂子が何かに悩んでいると分かっていたのに、結局は無理をさせてしまった。俺は、出来る事なら力になりたかった。香穂子だってそう言っていたじゃないか。けれど・・・・・俺のせいなら何も言う権利が無いような気がして、ずっと黙ってた。余計に辛い思いをさせているのに、気が付かずに・・・」
「蓮くん?」
「思い当たるのは、数日前にヴァイオリンをお互いに聞かせ合ってからだ。それまでは別々に練習していたから、一緒に合わせようという事になったあの時。先に君が演奏した時までは、何とも無かったように思う。その後、俺が演奏してから君の様子が変わった・・・違うか?」
「・・・・・・違わ・・・ない・・・」


決して私に問い詰めるのではなく、自らを戒めるようにと、静かに語る蓮くんは己へ刃を向けながら。
彼が感じているだろう心の痛みに耐えられず、瞳を逸らして俯くと、強く唇をかみ締めた。
気付かれているとは思わなかった・・・でも、隠し通せるとも思っていなかったけど。
これ以上は黙っていられないよ・・・。呆れられるかも知れない、怒られるかもしれない・・・どんな事になるか分からないけれど、逃げないって決めたじゃない。


「でも、蓮くんのせいじゃないよ、私がいけないの、私の心が弱かったから!」
「香穂子?」

弾かれたように俯いていた顔を上げて、勢いのまま胸元に食いつくように飛び込んで見上げれば、彼の瞳が驚いたように丸く見開かれた。大きく開かれた琥珀の瞳に、必死な顔をした私が映っている。

「蓮くんの演奏聞いた時びっくりした。見違えたよ・・・何もかもが眩しくて。どれ程頑張ったんだろうって思った後、自分が恥ずかしくなった・・・。そうしたら自分も蓮くんのことも、何も見えなくなっちゃったの・・・・」
「・・・なぜ、自分が恥ずかしいと思うんだ?」

ふわりと目元が和み、そっと背を抱き寄せられた。柔らかい毛布のように私を丸ごとしっかり包み込む腕の温かさと、広い胸から伝わる鼓動に、居場所はここなんだっていう安堵感が満ちてくる。次第に柔らかさを取り戻す心と身体を彼に預けてもたれかかると、背に回された腕に少しだけ力がこもった。


「俺も驚いたよ・・・君の成長振りに。久しぶりに空港で会った時のように、凄く嬉しくて心がはちきれそうだった」
「・・・・本当に?」
「あぁ・・・。世界は君の音楽を待っている、その思いは今でも変わらないよ。囚われること無くもっと羽ばたいて欲しい。俺にはない素晴らしいものを、沢山持っているのだから」

僅かに身を捩り、押し付けるようにピッタリと胸に寄り添わせていた頭を離して見上げると、柔らかく和んだ琥珀の瞳が私へと降り注いでいた。

「技術もだけど、更に増した深い温かさと溢れる輝き。変わらない純粋な真っ直ぐさ。香穂子そのものの音色はどこまでも、大空へと自由に羽ばたいていていて・・・眩しかった。面影を残しつつ、すっかり綺麗になって見違えた君のようだった」
「・・・・・・・・」
「俺は、大切な事を香穂子に教えてもらったし、苦しかった時も、フイに心の中に現れて微笑む君に、何度も救われた。自分の思い込みが世界を狭めていた事を・・・。そして俺が香穂子と過ごした日々や、君を好きな事実は変わらないのだと・・・これからもずっと」


腕の中でじっと彼の言葉に耳を傾けるうちに、私の中に熱いものが込み上げてきた。縋り付きたくて背中へと腕をまわしたい衝動にかられるのに、彼とは違って楽器を持ったままの両手がこんな時ばかりはもどかしい。私のせいで蓮くんにも辛い思いをさせていたというのに、あなたはそっと許してくれる。自己嫌悪になりそうな心ごと包み込んで癒しながら・・・。私こそ、いつもあなたの優しさで救われているんだよ。


「蓮くん、どうしていつも・・・そんなに優しいの?」
「それは、君に恋をしているから」
「恋!?」


真面目な彼からの意外な言葉にちょっとだけ驚いていると、クスリと笑って額に優しいキスが降りてきた。柔らかくて温かい唇から伝わる想いと、恥ずかしげも無く伝えてくる言葉が染み込んで、顔に熱さが灯ってくるようだった。でも向けられる瞳はどこまでも真摯で真っ直ぐで、溶かされそうな甘さと愛しさに溢れていて。引き付けられ吸い込まれるように、見詰め返した。


「香穂子に出会って、俺は変わった。前より強い人間になれたし、自信を持って歩けるようになった。君がくれる優しさのお陰で、俺も人に優しくできるようになったし、他の誰かの幸せにも嬉しく感じられるようになった。そんな自分と、俺を変えてくれた香穂子を、誇りに思う」
「蓮くん・・・・・」
「恋の力で変われるのは、女性だけではないようだな」


はにかんだような微笑みが、かじかんだ私の手の平を包みながら白い息で暖めるように、温もりがゆっくり柔らかくしてくれる。蓮くんも同じ顔して、ずっと側に居てくれたんだよね。辛い事も哀しいことも、うんと小さくなるのは、いつも私の心に寄り添ってくれるのが分かるから。

別々じゃないんだね、私たち・・・そう思ったら、涙がこぼれそうになった。こんなに想われて信頼されて、私は本当に幸せ者だ・・・なのに私は自分の事ばかりで、蓮くんの事全然見えていなかったなんて・・・・・。


零れそうになる涙を必死に堪えて、想いに応えるように精一杯の笑顔を向けと、笑顔を返してくれた彼の手がそっと頬を包んだ。両の手の親指がゆっくり瞳をなぞり、目尻に溜まった涙を拭い去ってくれる。


「でも自分で作った壁は自分で越えなきゃいけないから、頑張るよ。乗り越えて行けそうな気がする。蓮くんが大好きだって想いに見合うように必ず追いつくから・・・負けないよ、音楽も気持も。だから蓮くんも、立ち止まらずに高く大空へ羽ばたいて」
「君と共に高みを目指せる事ほど、嬉しい事はないと思う。君を導けるのならその為の苦労は厭わないし、先に道を作って、迷わないように道標となろう。でも忘れないで欲しい・・・俺が空に描く道標も、香穂子なのだから」
「蓮くん・・・ごめん・・・今までごめんね。もう、大丈夫だよ・・・・ありがとう・・・・」
「辛い事が待ち受けていると誰かに教えられても、悲しい想いをすると予言されていたとしても、どんな出会い方をしても。絶対に見つけて、俺は何度でも君に恋をするよ」


堪えていたはずなのに、瞳からは透明な雫がポタリと次々に振り落ちてくる。香穂子がそれ以上の言葉を告げられずに喉を詰まらせていると、月森は優しく微笑ながら頭を包み、そっと胸へと引き寄せた。きっと泣き顔は誰にも見せたくないだろうし、俺の胸の中だけにして欲しい・・・そう想いながら。






どれほどの時間が経ったのだろうか。
彼の胸の中で泣いてしまった事が恥ずかしくてなかなか顔を上げられなかったけれども、腕の中で小さく身動ぎすると上目遣いでそっと見上げた。

「ねぇ蓮くん。一緒に合わせたいんだけど、いいかな?」
「香穂子が良いのなら、俺は構わないが・・・無理は、しなくていいから」
「無理してないよ。今なら出来そうなの」
「分かった、では楽器を持ってくる。少し待っていてくれ」


泣いて少し赤くなった香穂子の鼻先に、月森は労わるように触れるだけのキスをする。身体を離すと、大広間の隅に置かれたグランドピアノに駆け寄り、閉じた蓋の上に置いてあったヴァイオリンを手にした。柔らかい感触と温かさの残る鼻先に触れば、せっかく治まった鼓動の高鳴りと顔の赤みが戻るのを感じる。これでは別な意味で気持が落ち着かないよと、中央のシャンテリアの下まで戻り、再び軽く調弦を始める姿を隣で見守った。


互いにヴァイオリンを構えると、蓮くんが瞳で合図をしてくる。
小さく頷くと彼の弓が弦に下ろされて、甘く柔らかい音色が響き渡った。隣に居るのに、ホールの構造のせいで音色が良く聞こえないけれども、先程とは違って、心の中にはしっかりと届いて響いてくるのを感じる。
長い前奏の後にメロディーが始まり、再び互いに呼吸を合わせる緊張の一瞬。私も一緒に奏でる為、弓を下ろしたその時だった。


あっ、重なった!


始まりの、たった一音で分かった。溶け合った二つの音色が生み出すもう一つの音色、私と蓮くんの音色が一つに重なった感じが。久しぶりに味わう気持ちよさに嬉しさを隠し切れずに彼を見ると、同じように嬉しさを溢れす顔をしていた。

甘く優しい視線が音色のように絡み合う。

愛しさ、嬉しさ、温かさ、時には切なさも・・・。音を通して伝える事の出来るあらゆる想いと言葉を響きに代えて相手へと語りかけながら。それは音楽を媒介にした対話、音を通した愛の囁きあい。
次第に満ち溢れる甘く温かな音色は、輝き溢れる装飾の息吹を取り戻し、時の流れをも遡らせるような、そんな錯覚さえするようだった。


ワルツを踊る二人が、目の前に見えるようだ・・・。そう思ってふと隣を見ると、ぎこちないながらにも一生懸命に踊ってエスコートしようとする背の高いブロンドの髪の男性と、逆に男性をサポートするように軽やかに合わせる、小柄で可愛らしい女性の姿があった。蓮くんの演奏を聞いたときに脳裏に浮かんだような、まさにそのものの二人が私たちの目の前で、ワルツを踊っている。


あれ・・・!? 夢じゃないよね!?


演奏の世界に引き込まれてお互いにしか目に入っていなかったから、広間に誰かが入ってきたのさえも気が付かなかった。一体何時の間に入ってきたのだろう。驚いているのは、どうやら蓮くんも同じなようだった。
大広間の入り口側で、ヴィルヘルムさんが笑顔で私達に手を振っているのが見える。
そうか・・・この二人がお兄さんとお義姉さん、ワルツを踊るという結婚式の主役なんだと気が付いた。


手を取り合って、幸せそうに見詰め合いながら踊る二人。
楽しそう、幸せそうだと・・・想い合う気持ちが伝わってくる。
温かくて優しさに溢れた・・・そんな光景に私たちの音色も、さらに温かさと漂う甘さが深まってゆくようで。
私たちの音色とワルツと・・・両方が醸し出す甘さと温かさが一つに解け合って生み出すエネルギーに、私まで圧倒されてしまいそう。今この場所は世界で一番輝いている場所なのではと、そう思えるほどだった。


ステップを踏みながら踊る二人が、ワルツを奏でる私たちへと少しずつ近づいてくる。
どうしたんだろう・・・そう不思議に思って、見えない会話のように互いに目配せ合い、私も蓮くんも曲を奏で続けたまま視線を注いでいると、目の前でほんの一瞬立ち止まった。

お兄さんは蓮くんに、お義姉さんは私にと優しく微笑むと、揃って優雅にお辞儀をしてくれた。お兄さんの方はお嫁さんの手をとりながら、空いた片手を胸に添えるようにしてお辞儀を。お義姉さんは長いスカートの裾を片手で摘んで、羽のようにふわりと広げて膝を折りながら。


『ありがとう』


微かに聞こえた言葉と口の動きは、確かにそう言っていた。



努力しなくちゃ。その気持は大切だけど、周りが見えなくなる程の緊張を一度解きほぐすと、問題の答えは案外自然に出てくるのかも知れない。答えはすぐ側にあるのだから・・・・。