エスコート

課題のレポートを仕上げ終わってリビングに下りると、温かさの漂う料理の香りがふわりと漂い、夕食の支度をする香穂子の楽しげな歌声が聞こえてきた。俺達がパーティーで奏でるワルツのメロディーを口ずさみながら、踊るように軽やかな足取りでテーブルをくるりとまわり、並べ終わると再びキッチンへと向かう。テーブルとの間を行ったり来たり。食器や料理を持ったまま跳ね回る姿は、まるで花から花へと移り止る蝶か妖精のようだ。

どうやら俺が入ってきた事には気付いていないらしい。扉近くの柱に寄りかかって腕を組みながら、機嫌良さそうな彼女の姿を、飽きることなくじっと見守っていた。


料理が上手く出来たのだろうか?
それとも、何か良い事があったのだろうか?


ここ最近は思い悩んで沈んでいる事が多かっただけに、それを隠して勤めて明るく振舞おうとする健気な姿が、見ていてとても辛かった。だから心からの笑顔が戻ってきて、安心した・・・というか嬉しい。
やはり香穂子には笑顔が一番似合う・・・・・・。
そう、想いながら。




ワルツのメロディーを歌いながらテーブルに皿を並べた香穂子が、ステップを踏みながらくるりと一回転した。
一瞬ふわりと広がるスカートと、宙に舞う髪。
スローモーションな動きとなって視界に焼きつく彼女の眩しさに、我を忘れて魅入ってしまう。目を見開いたまま吸い寄せられていると、キッチンへと戻ろうとした香穂子と、視線が正面から絡んだ。


その瞬間、意識を引き戻された香穂子が、驚いてビクリと身体を震わせた。恐らく楽しい気分も、最高潮だったことだろうに、冷たい水を浴びたような驚いた目をしている。


「・・・・・・っ! れ、蓮くん!」
「いや・・・驚かせてすまない」
「い、一体何時の間に!? ごめん、気が付かなかったよ」


組んでいた腕を解いて身体を壁から起こすと、固まったまま呆然と立ち竦む彼女へ歩み寄りながら、小さく笑いかけた。次第に我に返っていくのか、俺を見つめる顔が少しずつ赤みを帯びてゆくようだ。


「・・・もしかして、ずっと見てたの?」
「今着たばかり・・・と言いたいんだが、実は先程から見ていたよ。楽しそうな君の歌声とともに、しっかりと」
「早く声かけてくれれば良かったのに! 私一人で、凄く恥ずかしいじゃない〜」
「本当は、もっと君を見ていたかったんだが。あまりに楽しそうだったから、つい声をかけそびれてしまったんだ」


もう〜蓮くんてば〜! そう言いながら癇癪玉が弾けた香穂子が飛び込んできて、小さな軽い両手の拳がポカポカと胸の辺りをかすっていく。俺を責めているのか、はたまたバツが悪い照れくささの為なのか。いたたまれずに俯いているものの、時折ふと見上げる顔を火が吹きそうな程に真っ赤に染め、瞳を潤ませながら。
柔らかい羽根が掠っているようなものだから、表面に感じる衝撃や痛みは全く無いが、通り越して心の中に大きく届き、甘い痛みと痺れをもたらしてくれる。


胸をきゅっと締め付けられるような愛しさが溢れて、くすくすと笑みを漏らしながらも、じたばたと暴れる香穂子を包むように優しく抱きしめた。すまなかったな・・・と耳元で柔らかく囁き、背中をポンポンと数度軽く叩くと、動きが静かになって、やがて大人しく腕の中に収まってくれる。
少し身動ぎした彼女が俺の背中にも腕を回してしがみ付くと、上目遣いでそっと腕の中から見上げてきた。


「今日は一段とご機嫌のようだな。それとも、何か良い事があったのか?」
「あのね、ワルツを踊ってた二人が幸せそうで素敵だったな〜って、思い出してたの」
「先日会った、ヴィルのお兄さんとお義姉さんか。彼はカーニバルの道化師と言っていたけれど、なかなか様になっていたように思う」
「だよね? 何よりも素敵で羨ましかったのは、さり気ないエスコートとそれに寄り添う姿が自然で絵になっていて・・・。絵本や映画でしか見た事が無い、王子様やお姫様みたいだった」


遠くを見て、羨ましげにうっとりと目を輝かせる。なるほど、先程の楽しげな様子はその為だったのか。
思い描いていた世界に浸りながら、きっと彼女自身も軽やかに優雅に踊っていたのかも知れない。
一緒に手を取っていたのは俺であって欲しいと願いつつ・・・。


「きっとパーティーにも、二人みたいな紳士淑女が沢山来るんだろうね。エスコートをされながら優雅に・・・いいなぁ〜。一緒に行く蓮くんが私のせいで恥をかかないように、せめて形だけでもレディーの振る舞いがしたいな」
「香穂子は今のままでも、充分に素敵だよ」
「う〜ん。嬉しいけれども、ちょっと違うんだよね。だって慣れていないから、椅子を引いてもらっただけでも、ドキドキ緊張してどうしたらいいか分からなかったんだもの。これが蓮くんだったらって思ったら、素敵な紳士ぶりに心臓が張り裂けちゃうかも。心の準備もしておかなくちゃ」


真っ直ぐ賛辞を述べて微笑を向ける香穂子に照れくささを感じつつも、思わず苦笑してしまう。君が今以上の素敵な女性になってしまったら、俺の心臓の方が持たないかもしれないな。それに、君に寄り付く男性が増えたら・・・と思うと、気が気ではいられないのが本音だ。
だが香穂子も望んでいる事だし、俺の手を取る君の姿を、見てみたいと思う・・・・・。


「練習してみるか?」
「えっ、いいの!?」
「いきなり本番では大変だろう? ただし本格的なものでは無いけれど、父や母の姿をいつも見ていたら、見よう見まねで形だけはなんとか。それでも良いのならだが・・・。」
「うん! 嬉しい〜。蓮くん、さっそくお願いします!」
「食事の支度はいいのか?」
「大丈夫。もう終わったから、蓮くんを呼びに行こうかと思ってたの。丁度良かったよ」


香穂子の肩越しにちらりとテーブルを見れば、すっかり用意が整っているようだった。もう少し君の柔らかさと温かさをこの腕の中に感じていたいという、少々の名残惜しさを残しつつ腕を解く。すると後ろに腕を組みながら、何をするの〜と、さっそく目を輝かせて見上げて興味津々に食いついてきた。



「まずは立ち方だな。ヴァイオリンを弾く時もそうだが、香穂子は姿勢がいいから、今のままでも素敵だよ」
「蓮くん・・・。う、嬉しいけど・・・具体的な言葉が欲しいな」
「そうだな。肩を後ろに引いてデコルテ(胸)を張り、肩の力を抜く。頭を上から糸で釣られているイメージで背筋をスッと伸ばし、あごは床と平行に」
「こんな感じ? 何か気持も身長も伸びた感じがする」


いいんじゃないかと微笑みかけると、香穂子の右隣に回りこみ、半歩前に出るように立ち並んだ。腕を少し折って肘を差し出すと、大きな瞳をキョトンと丸くして俺の腕を見つめてくる。


「腕を、絡めて」
「えぇっ・・・あのっ・・・・・!?」
「練習、するんだろう?」
「あぁ、そっか・・・そうだよね。私一人じゃ歩けないんだったよね・・・・・・・」
「俺はワルツは踊れなから、普通の立ち振る舞いで申し訳ないが」
「そ、そんな事ないよ!」


瞬く間に顔を真っ赤に染めてブンブンと左右に振ると、小さくはにかんでそっと腕を絡めてきた。腕を絡めて歩く事は良くあるけれど、今までのとは違っていて、とて新鮮な気がする。それは彼女も同じようだった。


「腕を組んだとき、向ける側の手は指先まで揃えると良いらしい。並んで立つ時は、二人が内向きの八の字になるように。男性は女性の半歩前に出て立つ感じになる」
「隣同士じゃないの?」
「その方が綺麗に見えるんだ。女性のドレスの裾加減にもよるが、裾を踏まないようにという意味もある」
「へ〜そうなんだ。私、裾がふわふわのドレスを着るのが夢だったんだけど、並んで歩けないんじゃ考え直さなきゃな〜。もっとシンプルな方が、くっついていられるって事かな?」
「一体、何の話なんだ?」
「えっ、な・・・内緒!」


香穂子は組んだ腕にきゅっと力を込めて見上げると、不思議そうにしている月森に慌ててニコリと笑いかけた。
似ているシチュエーションから浮かんだとはいえ、まさかウエディングドレスの話だとは、言うに言い出せずに。


「では、歩いてみようか。壁際にある大きな鏡の前まで行ってみよう」
「どうしよう、凄く緊張するよ・・・まだ練習なのに」
「もしも裾が足にまとわり付くドレスなら、足を踏み出す時に、外から分からないように裾をやや蹴り上げ気味にすると良いらしい。一歩ずつ確認しながら進めば、躓く失敗も避けられるだろう。俺は裾を踏まないように・・・君をリードするようにと、ゆっくり半歩前を歩くように心がけるから」




落ち着いて・・・と微笑みかけて、互いに一歩を踏み出す。
始めはぎこちなかったものの、歩みは次第に呼吸が重なってスムーズになり、組む腕の力も抜けて自然に。
互いの顔を見合わせられるようにまでなってきた。壁際にある大きな姿見の前まで来たところで、先程の立ち方と姿勢に気を配りながら、二人息を合わせるように立ち止まる。鏡を見た香穂子が感嘆の声を上げた。


「うわ〜っ! 蓮くん、私たち何か、それっぽいよ!」
「二人でお辞儀をするのなら、ゆっくりとタイミングを合わせるのが大切だ」
「お辞儀、やってみたい!」


目を輝かせてねだるように見上げる瞳に微笑み返し、鏡に向かってゆっくりと優雅にお辞儀をした。
鏡を見ながらはしゃぐ香穂子は、嬉しさのあまり言葉が出てこないようだ。それっぽいとは、先日会った二人のようだという事なのだろう。自分で言うのもなんだが香穂子の言う通り、確かに様になっている。


腕を絡めて俺の左側に立つ笑顔の君。そして君を導き、同じように笑顔でいる俺・・・・。
鏡に映った俺達の姿を、魅入るよう眺めて、思う。
全身が映る程の大きな鏡は、それ自体がまるで一枚の写真のようだと。
パーティーのエスコートというよりも、遠い未来に願う、教会でのワンシーンのようだとさえ思えてしまい、眩しさのあまり目を細めた。まるで遠い未来に願うものを映し出す、未来絵図。
その時の君は、きっと真っ白なウエディングドレス姿なのだろうな・・・・・・。


あぁ・・・だからなのか。
先程慌てて誤魔化した彼女の台詞が脳裏を過ぎった。恐らく同じ事を君も想ってくれていたのだろう。
心の底から熱いものが込み上げてきて、全身に染み渡るのを感じる。特に、顔に熱が集まるようだ。
前を見れば鏡に赤く染まった自分の顔が映っていて、耐えられずにふと視線を逸らすと、腕を2〜3度軽く引っ張られて隣を振り向いた。


「蓮くん?」
「いや・・・すまない、何でもないんだ。香穂子はどうだ? この分だと、当日も大丈夫そうだな」
「ありがとう。まだちょと不安だけど、蓮くんが一緒だから心強いよ」
「香穂子が頑張るというなら、俺も頑張らなければいけないな。こういうのは、二人で一緒のものだから」
「あぁーっ! でもやっぱり駄目かも〜ドキドキして。だって蓮くん、格好良すぎなんだもん」
「俺も、まだまだだな。素敵な君が眩しくて、心臓が張り裂けてしまいそうだ。お互いに当日まで、心の準備をしなくてはいけないな」


思わず苦笑すると、そんな事無いよ〜と香穂子が照れながらも、目を丸くして驚いた。


「蓮くんは、今のままでも充分紳士だよ。レディーファーストっていうのかな? 普段から細かく心遣ってくれて、私とっても幸せだよ。私も何か蓮くんにして上げられればいいんだけど・・・・」
「君にそう言ってもらえて、俺も嬉しい。相手の女性を大切に想う気持ちが、エスコートやレディーファーストの自然な動作へと結び付いてくるんだ」
「蓮くんってば・・・・真っ直ぐで、時々凄く恥ずかしい・・・・」
「なぜ?」
「・・・君が好きだって言ってるのと同じだから、恥ずかしくて・・・照れくさくなっちゃった。でもとっても嬉しい」


頬をほんのり染めながら、私も蓮くんのことが大切だからねと囁いて、そっと見上げてきた。絡めた腕を引き寄せしがみ付くようにして、甘えるようにもたれかかって来る。月森は向ける瞳を甘く揺らめかせ、溢れる愛しさと慈しみを込めて、頬を柔らかく緩ませた。


「だから当日だけ上手くやろうと思っても、無理がある。普段から習慣付ける事で、当日素晴らしいエスコートシーンを披露することができるようだ。父や母の姿をを見ていて、俺もそうありたいと思った」
「素敵なご両親だね」


そう言って香穂子はふわりと微笑んだ。君は、気付いているだろうか・・・・。
相手を大切に想う気持ちが仕草となって現れる、エスコートやレディーファースト。もしもそのの逆があるとするならば、俺はいつも君に導かれているんだ。
温かさや優しさ、心遣い・・・日々真っ直ぐに伝わる想いなど、君からもらう方が遥かに大きいのだから。




「ではパーティーの前に。今日はまず、ディナーの席にレディーをご案内しよう」
「よろしく、素敵な紳士さん」


再び腕を絡めなおすと視線までもが甘く絡み、どちらとも無く微笑み合う。
腕に感じる指先の柔らかくて心地良い感触が心に感じるくすぐったさにも似ているのは、君が身体だけでなく心をも委ねてくれるから。
半歩程を後ろに歩く香穂子を少し振り返るように見詰め合うまま、寄り添う君を導くようにゆっくりと歩く。
優雅さの中にほんの少しのぎこちなさを残しながらも、俺たちらしく。互いの想いと温かさで補い合いながら。

ディーナーの並んだ席へ・・・そして遠い未来に願う、鏡に垣間見た未来絵図に向かって・・・・・。