大広間から程近い、ダークブラウンの木目が施されたシックな客間。
同じ色調の重厚なアンティーク家具と壁に飾られた絵画が醸し出す雰囲気に、まるで中世の時代にタイムスリップしたような感じを覚えてしまう。庭が見渡せる窓辺には、同じ木目調のアンティークなテーブルセット。大きなガラス窓の向こうには澄んだ水が輝く湖が見え、白い雪に覆われた周囲の自然と融合した、とても美しい庭園の景色が広がっている。空はどんよりとした灰色に覆われているけれど、積もる雪の輝きが、窓辺にほの明るい光をもたらしていた。
テーブルに案内されると、ビロード張りの椅子を引いて「どうぞ」とエスコートしてくれた。さすがレディーファーストの国だ・・・蓮くんもそうだけど、さり気ない扱いが紳士なんだなと思った。でも私はそういうのに慣れていないし照れくさくて、椅子に座るのもやっとだったけれども・・・。
3人とも椅子に座りやっと落ち着いたというのに、まるでさっきの演奏をそのまま引きずったような空気が漂って、どことなくぎこち無い。気分転換に窓の外を見ようとしたら、私の正面には綺麗な庭を背に座った蓮くんが、心配そうな瞳で私をじっと見詰めていて。真っ直ぐに向けられる視線に居た堪れなさを感じてしまい、逸らすように俯くと、テーブルの下でぎゅっと手を強く握り合わせた。
『レン・・・落ち着いた早々で悪いけど、カホコを借りるよ』
『何をする気だ』
そんな会話が聞こえて、ふと顔を上げた。
『お茶の用意だよ、一人じゃ持ちきれないし。そんなに怖い顔で噛み付くなって。あ・・・レンは一緒に来なくていいから、ここで待っていてくれ』
『なぜだ』
『なぜって・・・狭いキッチンに大きな男が二人もいたら、狭くて身動きできないだろう? それにレンがいると片付かないじゃないか』
『悪かったな・・・』
『一瞬でも離れたくない気持ちは良〜く分かったから、すぐ戻るさ』
『・・・・・・・』
言葉を詰まらせて頬を染める蓮くんを、やれやれ・・・と肩を竦めながらも楽しそうに眺めていたヴィルヘルムさん。蓮くんがいつも困るのが分かる気がする・・・。聞いている私の方が恥ずかしくなって、顔から火を噴出しそうな熱さを感じていると、ニコリと微笑まれて話を振られた。
『と言う訳でカホコ。寂しがり屋のレンの事が心配かもしれないけど、一緒に来てもらえるかな?』
『は、はい・・・・!?』
じゃぁ行こうか。そう言って席を立ちドアへと向かって歩き出してゆく背中を呆然と見送りながら、ハッと我に返った。連られるように思わず返事をしてしまったけれど、私も行かなきゃいけなんだよね・・・。
そう思って慌てて席を立つと、向かいに座っている蓮くんは腕を組んだままフイと顔を逸らし、不本意そうに眉根を寄せている。
絶対、拗ねているんだ・・・。
どんよりした気持ちが一瞬だけどこかへ吹き飛んでしまい、そんな彼が可愛い、なんて思ってしまう。
「ごめんね、蓮くん。ちょっと行って来るね」
覗き込むように微笑んでそう言うと、既にドアの外へ消えた背中を追いかけた。
赤い絨毯が敷かれた廊下に出てきょろきょろ周りを見渡すと、部屋の少し先の所で小さく手を振って待っていた。駆け寄ってペコリと頭を下げると、織ったジャケットのポケットに両手を入れ、数歩離れて隣を歩きだした。絵画やアンティークな調度品が置かれた、まるで博物館のような廊下を黙ったままゆっくり歩いていく。
羽俯き加減の香穂子を労わるように語りかけたのは、ドイツ語ではなく、耳に馴染みのある懐かしい言葉だった。
「こっちこそ急に頼んで悪かったね。二人とも少し、落ち着く時間が必要だと思ったから」
「えっ、日本語・・・・・!?」
驚いて目を見開いたまま顔を上げると、ふわりと人懐こい笑顔を向けてくる。
そういえばこの人、日本語も話せたんだっけ・・・・。
「蓮には、君を甘やかさないで欲しいって言われていたんだ。ドイツにいるならドイツ語をってね。香穂子もそのつもりで頑張っている。彼女は一度決めたら、何があっても最後までやり抜く強さとを持っているから、出来る限り協力してくれと言ってたよ」
「蓮くん、そんな事言ってたんですか・・・・」
「先の事まで見ているんだなって思ったよ・・・アイツらしいね。厳しいようだけれども、俺もその意見に賛成だった。この場合は俺が日本語話した方が楽なんだろうけど、それじゃぁ二人にとって意味がないってね。だけれど今は、使い慣れた言葉の方が、君の気持ちを話しやすいだろう?」
「ありがとう・・・ございます」
「蓮には内緒だよ。あと俺の名前は長いから、短くヴィルって呼んでくれ」
本人は少しだけと言っていたけれども、まだたどたどしいドイツ語の私とは大違いで、発音も言葉使いも流暢な日本語だった。本当に最初から日本語なら、話が早く進んでいたかもしれない。言葉を選びながら、分からない言葉は何度も噛み砕いて話してくれて。時には理解しやすいように、会話のペースを合わせてくれていたのだから。
友人の頼みとはいえ、手間をかけているのに嫌な顔は一つもせず、親身になってくれる。
どうしてこの人は、蓮くんにも私にも、こんなにも温かくて優しいのだろう。
それ以上に、蓮くんの優しさが伝わってくる・・・彼が持つ、真っ直ぐで本当の優しさが。だから素直に聞くことができるんだと思う。だって、こんなに本気で私に関わってくれる人、他にはいないもの。
「蓮と喧嘩でもしたのかい?」
「えっ!? べ、別に・・・喧嘩は・・・してません・・・けど」
「そう・・・。前に会った時よりもギクシャクしてたから、何かあったと思った。君にね・・・・」
蓮くんが言っていたように、本当に鋭い人だ。
音は正直だし、私たちの様子からだとしても、一体何をどこまで気付いているんだろう。
緊張を悟られないようにと息を詰めて、耐えるように手をぐっと握り締める。しかし次に告げられたのは、予想もしていなかった核心を見事に突いたものだった。
「蓮の演奏を聞いて、びっくりした?」
「・・・どうして、分かるんですか!」
恐らく蓮くんにだって気付かれていないと思っていたのに。
思わず立ち止まり、目を見開いて見上げると、困ったように小さく微笑んでいた。
「君の顔に書いてある」
「えっ!? 本当ですか!」
慌てて頬を両手で押さえると、くすっと可笑しそうに小さく笑った。その書いてあるじゃないよと言われて、押さえた頬がだんだん熱く感じていくのが分かる。
「それにね・・・・俺にも経験あるんだ、似たような感じが。蓮から聞いてる? 俺も君と同じく、待っている身だったってこと」
「ちょっとだけ、聞きました。お相手の女性の方、モスクワの音楽院に留学されてたんですよね?
でも・・・あの・・・・・・・」
頬から手を外し、その先に続く言葉を言い澱んで口ごもっていると、逆光で陰った表情が哀しそうに微笑んだように見えた。
どうしよう・・・いけないこと、言っちゃったのかな。
投げかけられたからと思って返したものの、急に罪悪感が込み上げてきた。寂しくない訳がない、きっと今でも深い傷を残しているのに違いないのだから・・・。そう思って、しどろもどろに立ちすくんでいると、元通りの笑顔が向けられた。
「だからかな。表情で・・・態度で・・・伝わる気持ちで・・・分かるんだ、もちろん音色でもね。蓮もいろんな表情をするようになったけど、香穂子もそれに負けず劣らず正直だね」
「・・・・なんだか凄く恥ずかしいです・・・・・」
「素敵な事だと思うよ、君の音楽の源はそこにあるんだから。残念ながらさっきは、少し曇っていたけれどね。君に会ってヴァイオリンを聞いて、なるほどなって思った」
「どういう事ですか?」
真っ直ぐブルーグリーンの瞳を見詰めると、ジャケットのポケットから両手を出し、笑うことも茶化す事もなく、真摯に受け止めて返してくれた。
「蓮には蓮の音楽があって、香穂子には香穂子の音楽がある。一見別なように見えるけど、あいつの中には君が、君の中にはあいつの音色が確かにあった。だから寄り添うことが出来るんだろうな。互いに刺激しあい、無い物を補い合っていけるからこそ生まれる音だよ」
「私も蓮くんも、音が似ているんですか?」
「似ているのとは違うかな。例えば違う楽器同士の音程や波長がぴったり重なると、全く違う第3つめの音が生まれるだろう? 相手の音色の重なり具合で、音の魅力は無限に広がる。君たちが持つ音も気持ちも、そんな感じ」
凄く、嬉しかった。
他の人が聞いても、お互いの音色に大切な人が宿っているんだと認めてもらえたことが。
一緒にいてもいいんだよって、言ってもらえたような気がして・・・。
彼の足元には及ばないとしても、頑張った自分は無駄じゃなかったって・・・そう思えた。
でも・・・・・・・・。
「自信が・・・無くなっちゃたんです」
吐息と共に呟いて力なく項垂れる香穂子を、辛そうに眉根を寄せてじっと黙って見詰めていた。小さくて今にも消えそうな、ようやく吐き出し始めた彼女が抱える想いの断片を、聞き逃さないように。
「久しぶりに会った蓮くん、知らない人みたいに凄く上手くなっていて・・・私なんか足元にも及ばないって・・・衝撃でした。一緒にいて、逆に足をひっぱたらどうしようって・・・・。追いついても、あっという間に遠く離れてしまうようで・・・そうしたら自分だけでなく、彼の気持ちまで分からなくなったんです・・・」
「目の前にいるのに、繋いだ手の温もりがあるのに、心が遠くにい感じじゃないのかい? まるで置いていかれたような」
「そんな・・・感じです・・・」
少しの沈黙が流れて、距離を保ったまま時間まで止まったような錯覚に陥りかけた頃、俯く足元に長い影が落ちてゆっくりと動いていった。視線を追うように顔を上げると、廊下の窓側を歩いていたヴィルさんが私の背後に移動し、廊下の壁に掲げられた大きな絵画の前で立ち止まった。
「香穂子は絵を描くかい?」
「ハイスクールでは絵の授業を受けてました」
「絵を描くときに、手や耳から書き初めたりしないだろう?」
「そうですね。最初に全体を眺めて、まず大きく全体を描いてから、細かい部分を描いていきます」
「音楽だって同じだ。ある一つの音について考えるときには、まずその音を含む大きなフレーズと、その前後関係にも目を向けて、心の中に曲全体のイメージを焼き付ける。細かい音の断片に注意を向けるのは、全体像ができた後の話だ。完成した時の全体像にどれだけ近づけられるかで、成功に繋がる。」
美術館で見るような巨大なキャンバスに向かって、静かに語られる絵と音楽の解釈。
誘われるように歩み寄り、描かれた絵画を見上げた。
絵や音楽と、今の私が・・・一体どういう関係があるのだろうか?
「確かに蓮のヤツは上手くなったよ。元から凄かったけど、ここ最近は特に殻を破ったっていうか・・・。東洋人ってハンデ背負っていながら、実力で勝負しようって必死になって・・・。負けず嫌いだろう?」
「彼は誰よりも・・・人一倍負けず嫌いで、努力家なんです」
「だけど自分の為だけなら、あそこまでは伸びないだろうさ。誰かの為だから頑張れる。それが誰だかは分かるかい?」
「・・・・・・・・」
「君の話をする時や、君を想いながら奏でている時の蓮は、本当に幸せそうだったよ。羨ましいくらいにね。残念だったな〜こっそり見せてやりたかった」
視線に気付いて、隣で一緒に絵を見るヴィルさんを見上げれば、ふわりと上から包むように微笑みかけてくる。見守るように慈しみに溢れる微笑から、ヴァイオリンを奏でる彼の演奏や表情までもが、脳裏に伝わってくる。きっと蓮くんの事も、ずっと見守っていてくれていたんだと思った。
「香穂子だって、今まで頑張ったんだろう? それに君の演奏を聞いて、蓮は何か厳しい事を言ったのかい?」
「何も・・・言ってません。見違えた・・・素晴らしかったよって、微笑んでくれてました。でも甘えちゃいけないって思うから」
「前向きな向上心は大切だけれど、プレッシャーで自分やお互いをも潰しちゃ本末転倒さ。アイツの哀しそうな・・・切なそうな顔は初めて見た。香穂子だけじゃなく、蓮もきっと同じ気持ちだよ」
香穂子は信じられない気持ちと驚きで、目を見開いたまま、打たれたように固まっていた。
語りかけられる言葉が、乾いた心に少しずつ染み込むのを感じながら。
「絵でも音楽でも、物事をほんの一部だけ捉えて全体を見失ったり謝って認識すれば、大変な誤解を招いてしまう。壁を作るのは、いつだって回りでなく、自分自身なんだ」
「自分・・・自身?」
「目先の事に囚われ過ぎて、大切なものを見失わないでくれ。蓮のこと、そして自分のこと・・・もっと信じて欲しい。蓮のこと、大好きなんだろう?」
「大好きです」
「だったら大丈夫! 技術云々よりまず、気持ちの問題だから。全てはそこからやってくる。ヤツが抱えていたものも、乗り越えたのも根本は同じだっと俺は思ったよ。蓮の為に、自分の為に・・・君も信じて勇気を出さなきゃ」
雲間に一筋の光が差し込んだような・・・そんな気がした。
ここまで頑張った自分を信じよう、そして彼を信じよう・・・勇気を振りしぼらなきゃ。
私の音楽は私自身だけでなく、蓮くんの為にもあるんだから。
「キッチン、すぐそこの角を曲がった先なんだ。あまり立ち話していると蓮が待ちくたびれるから、どりあえず中に入らないか?」
「きっと今頃、すごく難しい顔しているかもしれませんね」
「俺も蓮が大好きさ。だから君たちには、幸せになってほしいんだ。後で悔いるようなことは、俺だけで沢山だから・・・」
互いにくすっと笑って、再び赤い絨毯が敷き詰められた長い廊下を歩き出した。表情と口調は笑っていたけれども、言葉の裏に潜む切なそうな気持ちが、私の胸に重くのしかかった。蓮くんが以前、言葉が重いと言ってたのはこういう訳だったんだ。さり気なく負担にならず・・・でも、経験したものだけが語れる重さみたいなものが、ずっしり響くようだった。
角を曲がってすぐの所にあった扉と開けると、そこはキッチンというより厨房という言葉がぴったりな場所だった。大の男が2人どころか10人いても十分なくらい大きな広さで、設備もレストラン並みに整っている。驚いて立ち尽くしていると、家族は少ないけどパーティーの規模が大きいからねと言っていた。しかも家の中を任されているハウスキーパーさんたちや厨房の人が、あれこれと用意を手伝ってくれる。美味しいお茶があるだの、焼きあがったばかりのケーキはどれだの・・・。さすがに運ぶのだけは自分たちでと、拒んでいたけれども。
私をお手伝いにと呼んだのは、話をするのと、本当に私と蓮くんを落ち着かせる為だったんだと、改めて実感した。
もしや、私はお手伝いとして必要ないのでは?
手際良く食器棚からお茶の道具を出して、銀のトレイの上に乗せていく様を、やることも無く背後で見守っていると、突然声をかけられた。
「おっと・・・右から2番目尾引き出しからティースプーンを3つ出してくれるかな?」
「はっ、はい!」
おろおろとしながらも、食器棚の引き出しを開けてスプーンを取り出して手渡すと、これでちゃんと、蓮には手伝ったって言えるだろう?と、悪戯っぽくニヤリと笑いかけられた。
「ありがとう・・・ございます」