音に生命を・3
奏でられていたヴァイオリンの音色が静かな余韻となり、広い空間に音の波紋を描いていた。
大広間の中央にある一際大きなシャンデリアの下に立つ月森が、肩から楽器を下ろすと、少し離れた入り口近くに佇む香穂子に声をかけた。


「香穂子、どうだった?」
「え、えっと・・・・あの・・・・・・・・」
「・・・香穂子?」


響きを確認してもいいだろうか?
そう言ってヴァイオリンをケースから出し、彼はAの弦から順に調弦を始めたのは、つい先程だった。全ての弦を整え終わるとヴァイオリンを構え、静かに瞳を閉じるのは、自分の中で音楽の世界を作り出す為。そこまでは、覚えているのに・・・・。

何時の間に、演奏が終わっていたのだろうか。

呼びかけられてハッと我に返ったものの、あまりの驚きと興奮で、弓が弦に降ろされた瞬間からの記憶が殆ど残ってない事に気がついた。甘く苦しく・・・痺れるような音色を受け止め、ともすれば息が止まりそうな苦しさに喘ぐ自分を保つのに精一杯で。響き具合とか、そんなところまで全く頭が回っていなかった・・・余裕が無かった。


ど・・・どうしよう・・・。


答えられずに、ただ口篭るだけで。
やり場の無い焦りを押さえ込むため、一緒に用意した自分のヴァイオリンを胸に抱え込んだ。

一向に言葉を発する気配の無い香穂子に、月森の眉が微かに潜められた。
言葉無くじっと向けられる心配そうな表情に、心に渦巻く焦りと動揺は高まるばかり。一歩踏み出そうとする足の動きにさえ、ビクリと鼓動が飛び跳ねてしまうのだから。
どうしよう、答えなきゃ・・・と、そう思うのに。
心を奮い立たせるほどに、口も身体も自由に動いてくれない。


そんな香穂子の様子を見て何かを察知したのか、隣で腕を組みながら演奏を聴いていたヴィルヘルムが組んでいた腕を解いて、中央にいる月森へとゆっくり歩み寄っていく。
大理石の床にコツンコツーンと響く足音と脇を通り過ぎる背中を、香穂子は息を止めて見守った。


『ウチはコンサートホールと違って残響が少ないんだ。だからこの大広間、音が吸い取られる感じがするだろう?』
『あぁ・・・思ったより、自分の音が聞こえなかった・・・』
『今は丁度良いけれど、当日は人で埋め尽くされるから、音もかなり吸い取られてしまうし、かなりざわつく筈だ。音量も大きめに、響きも心持ち長めに意識した方が、良いと思う』
『そうか・・・』

中央に立つ二人が、広間を見渡しながら音楽の話をしている。私には入れない世界だ・・・どこと無く寂しい気持ちになりながらも、矛先が反れたことに少し安堵感が込み上げてきて。じんわりと、落ち着きも取り戻してくるようだっだ。

『ソロならともかく合奏となると・・・演奏家泣かせなんだよね。聞いている方には分からないけど、自分だけじゃなくて相手の音まで聞こえにくいんだ』
『君たちなら大丈夫と言ってた訳は、そういう意味だったのか』
『その通り。合わせるには相当の技術力か、あるいはお互いの気心が知れているか・・・・。最初レンが二重奏でって言ったときには、正直焦ったけど。でも君たち二人ならって、クリスマスマーケットで見かけて安心した』

む〜っとしかめていた表情をふわりと和らげると、癖のあるブロンドの前髪を掻き揚げて、月森と香穂子を交互に見て笑いかけた。


どうして・・・こんな時に・・・。


予想もしていなかった不意打ちの落とし穴を知らされて、苦しさと衝撃が襲い掛かってくる。冷たい水を浴びせかけられたような、心臓を握り潰されたような・・・。ぎゅっと握り締めた手の平に、薄っすらと汗まで滲んできているのが分かる。全幅の信頼をよせてくる笑顔が、こんなにも苦しいと思ったことは、今まであっただろうか。ついこの前までなら「私たちに任せて!」って自信を持って笑顔を返せていた筈のに、今の私は一体どんな表情をしているんだろう。

視界の隅に映る、私を見つめる蓮くんの表情が、心配そうに曇っていた。相手の表情は自分の鏡のようなものだから、きっと私も同じような顔をしているのかも知れない・・・・。


『あと。義姉さんはともかくとして、兄さんのワルツはカーニバルの道化師だから。ウイーンの舞踏会のような優雅さを前面に出されると、二人が浮いてしまって、少し気の毒かもしれないな』


暫し黙って何かを考え込んでいた月森が、再び楽器を構えた。静かに弓を弦に下ろすと、甘く軽やかなワルツの音色が大広間を満たすように流れ出す。


あ・・・音が変わった。


さっきと同じ曲な筈なのに、聞こえる音楽や雰囲気が全く違う。事前にホール残響を予測して、一音ごとに奏法を変えているのが分かる。それに、ワルツを踊っている姿が見えているのだろうか。巧みなテンポ設定と緻密さ、それにヴィヴラートの温かさに心まで動かされて、聞いているだけで自然と身体が動いてしまいそうになる。

目を閉じて音色に浸れば、私にもワルツを踊る二人が脳裏に浮かんでくるようだ。
ぎこちないながらにも一生懸命に踊ってエスコートしようとする男性と、逆に男性をサポートするように軽やかに合わせる、可愛らしい女性の姿が。優雅な舞踏会ではないけれど、温かくて優しさに溢れた・・・そんな光景。


高まった気持ちや心に決めた想いを、自然で無理のないボウイングの右腕が表現し、弦に伝える。
そして左手の指が、音に形を与えて表情を与える。まるで弓と楽器が、デリケートなバランスの上に、ひとりでに演奏を始めているようだ。今この大広間は、中央に佇む彼だけのステージ。華麗さに負けることなく際立つ音色をもって、時の流れや空間さえも音色に染め上げられていく・・・・。

思わず、眩しさに目を細めた。
眩しいのは差し込む光に反射した、豪華な部屋の輝きか。それとも、彼自身が放つ眩しさなのか。
目に浮かんだ幸せそうに踊る二人のように、心にある想いの音色を溶け合わせたい・・・私も一緒に輝きたい。なのに、今の私にはあなたが眩しすぎて・・・。



曲の終わりと共に、弓が大きく弧を描いて静かに下ろされた。音色の余韻が甘く漂う中、大きな拍手が鳴り響いた。


『ヴラヴォー! さすがレン、素晴らしいね! 今にも隣にいるカホコの手を取って、踊り出したい気持ちを必死に抑えていた、俺の苦しい気持ちが分かるかい?』
『・・・分かるわけないだろう』

月森はヴァイオリンを肩から下ろすと大きく溜息を吐き、拍手を送るヴィルヘルムに向かって不機嫌丸出しでむすっと答えた。しかし予想通りなのか、非難溢れる視線を気に止めた様子もない。

『でも二重奏って事は、これで完成じゃないんだよな。せっかくヴァイオリンを用意したんだし、カホコも一緒にどうだい? あ、それともレンみたく気持ち良さ気に、一人で弾いてみたいかな?』
『・・・もしよければ、香穂子も・・・一緒に弾いてみてくれないか?』
『えっ、わ・私!?』


突然急に話を振られて、二人に視線を投げかけられた。動揺を悟られないようにと、飛び出そうな心臓を喉元寸出のところで飲み込んだ。このまま話が反れるかと思っていたけれど、先が決まっている以上は避けられないらしい・・・自分の気持ちからも。
いつもと違って向けられる蓮くんの瞳が、切なそうに歪められていて。そっと柔らかい羽で包むように語りかけてくる。

気付かれていないと思っていたのに、やっぱりもう既に薄々気付かれていみたい。けれども、これ以上は心配をかけたくないの。だって心優しい彼は、絶対に自分のせいだと思って傷付いてしまうだろうから・・・。私の弱さのせいで、彼を傷つけて音楽を潰す事だけは、絶対にしたくないんだもの。


持っていたヴァイオリンを抱え直して大きく深呼吸すると、大理石の床に張り付いたままの足へとm総動員した気持ちを送り込んだ。じっと見詰める彼の元へと、一歩、また一歩・・・心を手繰り寄せるように歩み寄っていく。


「お願いします」


目の前に立ち、真っ直ぐ琥珀の瞳を見上げてそう言うと、ホッと安心したように切な気な表情が緩んだ。向けられる微笑に温かさと勇気が、じんわりと心に流れ込んでくる。
瞳を閉じて静かに呼吸を整えながら、楽器を構えた。
大丈夫だよ・・・と。微笑みと共に伝わってきた言葉を、もう一度心の中でかみ締めながら。


始めに蓮くんが奏でる長い前奏の後にメロディーが始まり、私が入って裏の旋律を奏でる。
前奏を聴きながら曲をイメージしつつ、流れを崩さないようにと気を配りながら、弓を弦に降ろした最初のアップ・ダウン。今まさに曲が始まろうとしている1回の上げ降ろし、その時だった。


ギギッツ・・・・。

弦が捩れるような擦れる音が響き、音の流れがピタリと止まった。

「香穂子?!」
「・・・ごっ、ごめんなさい!」

頭を下げて、いつになく必死に謝る香穂子に、お願いだから頭を上げてくれ・・・と、月森は困ったように小さく声をかけた。

一瞬何が起きたのか分からなくて、我に返った途端に頭の中が真っ白になってしまった。
いきなり出だしから。しかもこんな初歩的なミスを犯すなんて、本当にどうにかしている。


「蓮くん、もう一度いい?」
「じゃぁ、最初から」

再び流れ出した前奏の後、今度は上手く入れて流れに乗れた・・・そう思っていたのに。
会話のような掛け合いも、重なるハーモニーも何処かぎこちなくて。心のずれが、そのまま音色となって現れているに違いない。しかも相手の音が聞こえないと言っていたのは、本当だった。自分の音でさえ何とか聞き取れる状況で、側にいる彼の音など殆ど聞こえてこない。離れた場所にいた時には、あんなにはっきり鮮やかに聞こえてきたのに。

あなたが見えず、自分さえも見えず・・・。
見えない音の中でも迷子になっているのは、まるで今の私そのもの。


重なりきれない心が奏でる不協和音が、音楽を奏でら続けられる訳も無く。ぜんまいが切れた玩具の様に、自然と少しずつゆっくりと音楽の流れが止まっていった。

やがて空間を満たすのは言い知れない気まずさ含んだ、痛さを伴って突き刺さってくるような沈黙。
その中で月森が一歩、また一歩とゆっくりと香穂子に歩み寄ってきた。迫り来る圧迫感に耐え切れず、香穂子が思わず押されるように後ずさりすると、ぴたりと足を止めて、力無く悲しそうな瞳を向けた。


「香穂子・・・・・・・・」
「あっ・・・ご、ごめんさない! そんな・・・つもりじゃ・・・・・」

哀しい吐息交じりの囁きに、泣きたいほど胸が締め付けられてくる。
もう自分ではどうしようもできなくて、視界がじわりと涙で揺らめきかけたその時、黙ったまま側で聞いていたヴィルヘルムさんが助け船を出してくれた。


『二人とも、お昼ご飯は済んだのかい?』
『あぁ。来る前に済ませてきた』
『実は俺まだなんだよね、お腹ベコベコでさ。来たそうそうで済まないけど、先に休憩にしないか?』
『・・・・・・・そうだな。少し時間を置いたほうが、いいかもしれない・・・』
『ごめんなさい・・・・』

さっきから私、謝ってばかりだ。そう思ってヴァイオリンを抱えたまま俯くと、コツンコツーと足音が響き、目の前がふと影で暗くなった。ビクリと肩を竦ませ、硬くなった身体のまま恐る恐る顔を上げると、目の前にふわりと広がったのは金色。・・・蓮くんじゃない?!
柔らかいブルーグリーンの瞳が、視線を合わせるように屈みこんでいた。

『なんでカホコが謝るのさ。合奏なんだから、カホコだけの責任じゃないだろう? 合わせられないレンにだって責任はある。』
『違う・・・違うんです・・・』
『慣れない場所で緊張した? 前にマーケットでレンと過ごしていた時の笑顔をもう一度、見せて欲しいな。ここに来てから、まだ笑顔の君を見ていない。レンもきっと、そう思っているよ』
『・・・・・・・・・』
『美味しいクーヘンがあるんだ。疲れたときには甘いもの、とりあえず気分転換だ』

と、いう訳だからいいよな。
ヴィルヘルムは後ろを振り合ってニコリと笑いかけると、じっと見守っていた月森がホッと安堵の溜息をついて、はにかんだように小さく微笑んだ。


『あぁ・・・。すまないな・・・』