音に生命を・1

ライトオークルで統一された家具とクリームベージュの壁紙が、ゲストルームに清潔感だけでなく、温かさと明るさをも醸し出している。大きなベットの上に置かれたヴァイオリンケースと、散らばった楽譜たち。窓辺近くに立てられた譜面台に置かれた楽譜が、淡く差し込む束の間の冬の日差しを集めて、白く輝きを放っているように見えた。


瞳を閉じて音の世界に身を浸しながら弓を滑らしていた香穂子が、ふと突然手を止めた。
目を開けて暫く楽譜を眺めた後で、小さく溜息を吐く。

「駄目だ・・・何だか集中できないや・・・」

先ほどから繰り返される、こんな調子。少し休憩しようかな。そう思って時計を見れば時刻はもうすぐ昼の正午になろうとしてた。音出しが出来なくなる時間だから、あと少ししたら蓮くんが呼びに来るかも知れない。荷物が散らばっていない方の空いているベッドにそっとヴァイオリンを置くと、楽器を揺らさないように気を配りながら、自分も静かにベッドに腰を下ろした。そのままゆっくり背を倒して仰向けに寝転がり、高い天井をぼんやりと眺めた。


静かな空間とゆとりのある時間、整った環境・・・・。
まさに練習には申し分なく、恵まれている事に感謝しなければいけないのに。
心の底では素直に楽しめないでいるのは、なぜだろう・・・。


蓮くんには彼がやらなければならない音楽があるし、同じように私にしか出来ない音楽もあるから、ヴァイオリンはお互い別の部屋で練習している。蓮くんは自分の部屋で、私は宛がわれたゲストルームでと。このゲストルームもどの部屋も防音だから、すぐ隣が彼の部屋だとはいえ音色は聞こえてこない。邪魔は出来ないし、仕方が無いのだと思う。けれども・・・・。


聞きたくて・・・心が求めて止まない、ヴァイオリンの音色。
瞳を閉じれば耳の中に、数日前に聞いた蓮くんの演奏が蘇ってくる。
鮮やかに響くヴァイオリンの音色が、心を激しく揺さぶりながら。





数日前、蓮くんの演奏が聞きたいとお願いをしてみた。私の演奏も聞かせてくれるなら・・・と快く引き受けてくれて。彼の部屋で開かれた、二人だけの小さな音楽会。彼のヴァイオリンを聞くのはドイツに来てから初めて・・・いやもっと先を辿れば、数年ぶりかもしれなかった。

どちらが先かを譲り合った挙句、最初は私から。瞳を閉じて聞き入る穏やかな表情や、時折視線が絡むと向けられる小さな微笑。受け止めたものと自分のもの、想いの全てを音色にに委ねれば、心だけでなく音色にも温かさを醸し出して、甘く弦を振るわせた。ボーイングが二人の呼吸と一体となれば、気持ちと共に音も宙に舞い上がるようになる。以前は毎日のように感じていたこの幸せに、時が戻ったような・・・新たに時が動き始めたような気さえした程だった。

大きく弓が弧を描いて降ろされると、満面な笑顔と共に大きな拍手。どんなに多くの大歓声よりも、大切なたった一人のあなたの声援は、いつも私の胸を熱く温かくしてくれる。きっと私の顔も、向けられる笑顔のように笑っていたに違いなかったと思う。そして幸せな余韻が心を満たす中、今度は蓮くんの番だった。


驚いた・・・心臓が止まるかと思った。

最初のアップ・ダウン、そのたった1回の弓の上げ下げだけで、自分との差は歴然としていた。
幾分か柔らかくオブラートに包んでいるとはいえ、全身から発散される凄まじいオーラとエネルギー。それをしっかりと支えているのは、冒頭の弓のコントロールや音程の取り方、フラジオレットの音、メロディーの歌い方やフレージングなど・・・・紛れも無く鍛えられた緻密な演奏技術なのだと分かった。

それだけではなく、空間から飛び散り放たれる熱い吐息。音楽という手段を通して伝える事ができるあらゆる感情と言葉を、一つの音や和音に変えて、心に強く訴えかけてくる。なのに、響く音色は気負わず、どこまでも透き通って美しい。楽器を構えて弓を振り上げた瞬間から既に彼の世界に引き込まれ、目も耳も・・・心ごと奪われてしまった。


本当に夢のような数分間で、演奏後あまりの驚きと興奮のため殆ど口がきけなかった。楽器を下ろした蓮くんが、心配そうに覗き込んでいたけれども、言葉を返す余裕も無くて・・・。始めに呆然として、次に強く心を打たれて、やがて冷静になってくると、悪戦苦闘している自分自身を思うようになった。


高校卒業後、離れてから3年近くたっているのだから、進歩していて当然なのに。蓮くんだって、やっと自分の音楽が見つけられたと言っていたじゃない。でも、これ程凄いとは思わなくて・・・・。
蕾が大輪の花を咲かせたような成長振りは、まさに血の滲むような努力と強い想いの結晶。


目指すものもヴァイオリンのキャリアも違うけれども、いつでも対等な存在でいたい。その思いは今でも変わず、私の心にある。目標でありライバルでもあり、いつか追いつくぞ〜という気持ちは、大切にしたいから。なのに、せっかく追いついたと思っても、大きな翼をもつ彼はあっという間に遠くへ飛び去ってしまう・・・。彼には追いつけない・・・レベルが違いすぎだ。
この身は、やっと側に辿り着いたばかりなのに。


たとえ同じヴァイオリンという楽器を弾いていても、進む道は別々なんだと、改めて思い知らされた。蓮くんへと真っ直ぐ続く道を歩いていきたいのに、それがあなたの進んでいる道と一緒になるのか、分からなくなってしまったの。一緒にあなたの夢を追いかけたい。
だって道を選ぶのは私だけど、道を作るのは私だけじゃないし。二人一緒だから・・・。
蓮くんの作る道は、ちゃんと私に繋がっているのかな・・・・?





広い部屋に一人ぽっちでいると、広さと静けさに押しつぶされそうな感覚に襲われそうになる事が、時折ある。今が、まさにそんな感じ。ひょっとして彼も、こんな思いをしていたのだろうか?

香穂子は寝返りを打って横向きになると、心が押しつぶされないようにと自分自身を抱きしめつつ、膝を抱えてうずくまる。すると、コンコンと、扉を叩く音が聞こえてた。慌てて起き上がって返事をすると、静かに開かれた扉から、隣の部屋で練習していた筈の月森が姿を現した。


「練習中にすまないな。今、平気だろうか」
「うん。ちょっと休憩してたとこなの。もうすぐ12時だから知らせに来てくれたの?」
「あぁ・・・それもあるが・・・・・」

そう言って月森はベッドのそばに歩み寄って、香穂子の隣に静かに腰を下ろした。

「具合が・・・悪いのか?」
「えっ、どうして?」
「横になっていたんだろう。無理、しなくてもいいから」
「な、何で分かったの!?」
「髪の毛が乱れている」

思わず動揺して顔に熱さを感じていると、クスリと小さく笑って、大きな手が髪に触れてきた。髪を優しく撫でて整えてくれる感触が、心地良くてずっと浸っていたくなる。

「大丈夫だよ、ありがとう。私も頑張らなきゃな〜って、思ってた所だったの。それより蓮くん、私に用事があったの?」
「あぁ、香穂子にはまだ渡していなかったな。君宛のパーティーの招待状だ」

手渡されたのは、白い上質な厚めの封筒だった。表面にはKahoko Hinoと私の名前が書かれていて、裏には二人分の名前が書かれていた。どうやらこれが新郎新婦さんの名前みたい。封筒の口には、二頭の熊が前足を掲げて向かい合う紋章が刻印されていた。

「実は今日の午後、打ち合わせと演奏の為に音のチェックを兼ねて、ヴィルヘルムの家に行く事になっているんだ。彼にはこの間、クリスマスマーケットで会ったろう?」
「あの、サンタクロースさん! 蓮くんこれからすぐお出かけなんて、急な話だね。私ならちゃんとお留守番してるから、心配しないでね」
「・・・・・香穂子も、一緒に来るか?」
「えっ、私も!?」
「君も一緒に演奏するんだから、できれば事前に見ておいた方がいい」


封筒を握り締めたまま、きょとんと見上げる香穂子を、月森は真摯な表情で受け止めていた。しかし僅かの沈黙の後、小さな溜息を付いて、耐えられなくなったとばかりに表情を和らげた。
困ったような、切なげに瞳をゆがませながら。

「本当は、数日前から分かっていたんだが、言い出せなかった・・・・」
「蓮くん?」
「ここ数日、君の様子がいつもと違っている気がして・・・。それに、俺と一緒に練習するのを避けていたようだったから・・・。何かあったのか? いや・・・俺が知らないうちに、君を傷つけてしまったのだろうか?」
「ご、ごめんね。避けてるとか・・・そんなんじゃないの。違うから・・・蓮くんのせいじゃない・・・」


知らないうちに傷つけていたのは、私の方だ。今にも泣きそうに揺らぐ彼の瞳が私をじっと見詰め、心を強く締め付ける。何時までも、逃げたままではいられない。
避けているのは蓮くんじゃなくて、私の中にある弱さからなの。
そう言いたかったけど、まだ口に出して伝える事が出来なくて、だから心の中で必死に叫んだ。


「私も、一緒に行くよ」
「・・・無理・・・しなくてもいい」
「無理なんかしてない。・・・蓮くんの演奏、久しぶりに聞きたいし、二重奏でお祝いするんでしょう? 私その為にも来たんだからね」
「・・・・分かった。少し遠出になるから、早めに昼食を済ませて支度をしよう」