思い出を共有して

木枠の窓を覆う白いカーテンから、温かい日差しがベッドの上に差し込んでいる。差し込む日差しと腕の中の二つの温もりに包まれて目覚める、心地よい朝のひと時。腕の中にいる香穂子は、夜に見せた表情とは別人のような、あどけない寝顔で心地よさそうに眠っていた。

見飽きる事の無い寝顔。触れ合う肌から直接伝わる、ずっと感じていたい温もりと柔らかさ・・・。
小さく身動ぎした拍子に掛かった額の前髪を、そっと払いのける。
できれば、ずっとこのままでいたいが・・・・。


起こさないように時計を見て、眉を顰めた。
もう、こんな時間か・・・可哀相だが起こすしかなさそうだ。


可哀相なのは眠りを妨げれられる香穂子であり、腕の中の彼女を手放さなければならない自分であり・・・。小さく溜息を吐くと、肩を静かに揺すって優しく声をかける。


「・・・香穂子、起きてくれ」
「・・・う〜ん・・・蓮くん、もう朝? 何かさっき寝たばかりのような気がするんだけど・・・・・」
「・・・・・・・・・」


確かにその通りなんだが・・・・。

思わず言葉に詰まるものの、しかし俺と違って寝起きの良い香穂子は、すぐ目を覚ましてくれる。欠伸で滲んだ涙を指で拭いながら、眠い〜と呟いて、そのまま擦り寄るように抱きついてきた。

まだ起き切っていないのだろう。せっかく開いた瞳が再び重く閉じてしまいそうだ。
というより、起きようにも起きられなくなってしまう。毎晩遅くまで無理をさせているだけに、本当はゆっくり寝かせてやりたいのだが、このままでは先に俺の理性が持たなくなってしまいそうだ。それだけは避けなければ。

「一緒に買いものに行くから起こしてくれと言ったのは、香穂子だろう? すまない。ゆっくり休ませてやりたいんだが、土曜日は午前中で店が閉まるんだ。明日休みだし、今日のうちに食料を調達しないといけなんだ。起きてくれ」
「蓮くん、あとちょっとだけ寝たい〜・・・・・」

強く揺すれども、びくともしない。それどころか再び眠りに入りかけている。
駄目だ、仕方ない。となると多少荒療法だか、あれしかないか・・・。

月森は柔らかな瞳をすっと細めた。
擦り寄ってしがみ付く香穂子の肩掴んで、シーツに縫いつけるように強く押さえつける。突然のことに驚いて身動ぎをし出す身体に覆い被さると、上から唇を塞ぎ、吐息を奪うキスを激しく繰り返す。
唇と吐息の隙間で交わされる会話。

「んっ・・・・れ・・・んくん・・・・!」
「起きないと、このまま夜の続きをするぞ。俺はそれでも構わないが」
「起きる・・・・今すぐに、起きる! もう、すっかり目ぇ覚めたよ!」
「おはよう。香穂子は寝起きが良くて助かる」

すると肩で荒く息を吐きながら、真っ赤になった顔で頬を膨らませ、フイと拗ねるように視線を逸らしてしまう。

「蓮くんのイジワル・・・もっと優しいキスで起こして欲しいな」
「すまない、非常事態だったんだ。優しく起こしても起きなかったから」

優しく髪を撫でいると、機嫌を取り戻したのか落ち着いたのか再び見上げてくる。赤みの残る頬に手を添えて微笑みかけると、そっと触れるだけのキスを優しく唇に降らせて身体を離した。








全ての店が閉まる休日を控えた今日は、食料の調達を兼ねて香穂子と二人で街を散策。
休日に出会うことの出来ない、もうひとつの街の顔がそこにある。


重厚な看板と濃い茶色の窓枠。通り沿いのショーウィンドーには、実に表情豊かな二人のパン職人の人形が、パンを焼き上げている工房風景が飾られている。入り口の扉を開ければ、中から漂う焼きたての甘い香り。奥の棚には大きな塊のパンたちが陳列し、手前のショーケースには小さなパンや、四角いケーキやクッキーが並ぶ。奥の深い味わいのする美味しいパンたち。明るい雰囲気の簡素な店内には、地元の客がひっきりなしに訪れて焼きたてのパンを次々に買い求めていた。


「どれも美味しいそうだから迷っちゃう〜」

どれが食べたい?と聞いたら、パンが好きな香穂子が選ぶ目は真剣そのものだ。迷った末に最後は二人で決めて、朝用には表面がフランスパンのように固くて中が白くて柔らかい、拳大くらいの小さなパンを。夕食用にはハムやチーズを乗せて食べるからと、ライ麦パンを一塊。


指差しながら精一杯の言葉を使って買う香穂子。時にはしどろもどろなのに、店員は皆笑顔だ。
どうしても駄目な時だけ助けてね、と言われていたから隣でそっと見守るが、昔から馴染みの店だけに俺は店主も店員とも顔見知り。小さいパンは2個ずつでと、店員に告げる言葉を聞いて少しの照れくささを覚えていると、俺に向けられる笑顔は香穂子に向けられるものと違って、何やら意味ありげにニヤリと視線が語っていた。


後で絶対、店の主人や夫人に何か言われるに違いない。
照れくささに居た堪れなくなり、顔に集まりだす熱を隠すように、ふと視線を逸らした。






店を出ればポプラ並木のある小さな通りが続いている。絵に描いたような石造りのクラシカルな街の風景を楽しみつつ、石畳の上を踏みしめてのんびりと二人で散策する。
慌しい朝と共に何とか午前中に買い物を済ます事が出来て、肩の荷が下り感じだろうか。後は家に帰って昼食と、午後になったらヴァイオリンの練習などの時間だ。


焼きたての温もりが伝わるパンの入った紙袋を胸に抱えて、香穂子はすっかりご満悦だ。いい香り〜と幸せそうに微笑みながら、紙袋の口に鼻先を擦り寄せる仕草が可愛らしくて、ついずっと見ていたくなる。でもたまには俺のほうも見て欲しいと思うのは、もしかして焼もちというものなのだろうか? 焼きたてのパンに嫉妬したなんて、笑われそうだから君には言わないけれど。


「ねぇ、蓮くん・・・」
「どうした?」
「こっちに来て思ったんだけど、照れ屋なのは日本人に似ているかもしれないね。最初は怖かったけど、お話すればみんな温かくていい人たちばかり。それもはにかんだ笑顔を見せる人が多いの」

そう思うと市場やお店の買い物がもっと楽しく気軽に出来る、と嬉しそうな笑顔に俺も安心したような嬉しいような、そんな気持ちになった。

「議論が好きだから言い合いはしても、喧嘩は決してしない。規則正しく秩序を重んじて、ストイックな生活を好む真面目な人たちだ。人間同士の深い付き合いができる」
「蓮くんがこの街を気に入った訳が、だんだん分かってきた気がする。都会なのに緑も沢山あって過ごしやすいし、何かね・・・みんな蓮くんみたいだなって思った。雰囲気が・・・心の中にある温かさが似てるんだよね。だから私もすごく居心地良くて安心する」
「気に入ってくれたか?」
「うん! 私も好きになれそうだよ。蓮くんも、いい街に暮らせて良かったね」


暮らしも、人も、街も・・・・。俺を取り巻く様々なものを見て知って、感じてくれる。同じものを共有すればするほど、君との思い出が増えていく。嬉しかった事、楽しかった事をいつの日か、一緒に懐かしい気持ちになって語り合える日が来るかも知れない。
それはいつまでも大切にしたい宝物。心の中に大切に輝く宝石のようなものなんだと思う。


香穂子が気に入ってくれたら、この先きっと俺のところに来てくれるのでは・・・ずっと一緒にいてくれるのではと、そんな祈りと願いを込めずには居られなかった。




俺が両腕で抱えた大きな紙袋の中身を、隣に寄り添う香穂子がひょいと背伸びをして覗き込んだ。
割と重めな紙袋の中には、パン屋の前に立ち寄った市場で買った食材が沢山入っている。


「私ね、ドイツの人は皆、じゃがいもとソーセージしか食べないのかと思ってた」
「それは随分と偏った見方だな・・・」

まるで日本人は毎日スシを食べているのか?という質問みたいだなと、思わず苦笑が込み上げる。

「で、実際に来て見たら、やっぱりその通りだった・・・」
「もしかして、もう飽きたのか?」
「そんな事無いよ、その逆。不思議と毎日食べても飽きないから、何でだろうって思ってたの。種類が多くて、どれも味わいが違うからなんだね。さっき市場を見てビックリした」

例えばじゃがいもはホクホクしたもの、ねっちりしたもの、甘くこぶりでりんごのようにシャキシャキしたものなど。大きさや形、何より素材自体の味が全く違う。ソーセージは調合されたスパイスのレシピによって、味ががらりと変わる。ケースに並ぶ色合いがきれいで、見とれてしまうほどだ。


「でももっと驚いたのは、蓮くんが市場で買い物をするっていうことかな」

俺を見上げてニコリと笑う。そんなに買い物をするのが意外だろうか。

3〜4階以上もある高い天井を備えた体育館のような広い場所の中に、小さな店が軒を連ねていた市場は地下階1〜地上2階建て。ガラスのような半透明のパネルで覆われていて、柔らかく差し込む光が物をより瑞々しく見せる様は、市場というよりは大きなショッピングモールに近いかもしれない。日本の市場とはだいぶ雰囲気が違うものだ。


「俺だって買い物くらいするさ。コンビニも気軽に立ち寄れるスーパーもないから、自分でやるしかない。こちらに来てからは、簡単な料理くらいは作れるようになったよ」
「蓮くん、前よりもずっと頼もしくなったよね。惚れ直しちゃった」
「ありがとう、そう言ってもらえて嬉しい」


目元を緩ませて微笑むと、香穂子は照れたように薄っすらと頬を染めた。

「今日は私が夕飯作るから、楽しみにしててね」
「香穂子の手料理は久しぶりだな」
「蓮くんに食べてもらおうと思って、お料理も勉強したんだよ。国の風習とはいえ昼にしっかり温かい食事をするから夜は冷たくて軽いものって、なんだか寂しくない?」
「なぜだ?」
「温かい料理って、心まで温かくしてくれる気がするから・・・特に夜なんかは。ほら、寒い日に熱いスープ飲むと心がホッとするでしょう? それとおんなじかな」


口元に人差し指を当てて遠くの空を見ながら、う〜んと唸って考えを纏める横顔をじっと見つめた。
そんなことを言われたのは初めてだし、考えても見なかったな。子供の頃から家族揃うことがあまりなく、一人で食事をする事が多かったから、何となく当たり前だと思っていた。


確かにこちらの夕食は、パンにハムやチーズといった冷たいものが、どの家庭でも殆どだ。それに比べて日本は、毎日温かい違う食事が出てくる。その中には、家族や大切な人を思って作る気持ちも込められているのかも知れない。そう思うと何て幸せなんだろうと思う。

だから愛しくて大切な人の温かい手料理が、心の中まで温かく満たしてくれるのだろう。
香穂子の手料理が待ち遠しくなってくる。料理だけではなく、共にある・・・想いや気持ちが。




「蓮くん荷物重くない? 平気?」
「あぁ、大丈夫だ。・・・俺の方こそ、すまないな」
「えっ、私!? パンの入った紙袋だけだから平気だよ、蓮くんより軽いし」
「いや・・・その・・・俺の両手が塞がっているから・・・」

手を繋いであげられない。そういうと、ほのかに頬を染めて微笑んだ。

「手・・・繋いでなくても、十分に暖かいよ。だって蓮くんが隣に居てくれるもん」

お互いに荷物を持って手が塞がっているから、その代わりに腕をぴったりくっつけるように寄り添って歩く。これかももっとたくさんの思い出を重ねて・・・心の宝箱に大切な宝物が一つ、また一つと増えるようにと・・・・・。