音色の先にあるもの・中編

大学構内の建物の中で、最も歴史の古い講義棟。
一見威圧的な空気を漂わせる外観とグレーに染まった堅牢な石壁に、蔦がびっしりと覆い茂っていた。
蔦は正面入り口の脇を彩っていたであろう彫像達の姿をも隠し、積み重なった年月と重厚感を漂わせている。
建物に一歩足を踏み入れた瞬間に身体を包むひんやりとした空気と、外界から閉ざされたような静かな空間。
照明はあるものの、どこか昼間でも薄暗い館内・・・。
訪れた者は誰もが、まるで100年前にタイムスリップしたような、時が止まっているような錯覚を覚えずにはいられないだろう。


外から見れば、蔦に覆われた緑の壁にぽっかり空いたように見える、白い木枠に縁取られたガラス窓。
その二階部分に位置する部屋のガラス窓が、半分だけ開け放たれている。
未だ賑やかに集う眼下の学生達の様子を、初老の紳士がにこやかに見下ろしていた。


『いい演奏だね。若さにあふれて伸び伸びしている。今年のヴァイオりン科には、優秀な人材が集っているようじゃな』


蓄えた白い口髭をもて遊びながら、しわの奥にある目を細める。
窓から少し離れたところにある、ダークオーク調のマホガニーの机で書類をしたためていた紳士が手を止めて、苦笑顔で声をかけた。


『学長・・・こんな薄暗い部屋からでなく、輪の中に混ざって直接聞けば宜しいのに』
『ワシは顔が知れてるからのぉ・・・こっそり聞くのが楽しいんじゃよ』
『どうりでいつも学長室にいらっしゃらない訳ですね、他の教授達が困っていましたよ』
『君も困っていたのかね?』


不思議そうに問う初老の紳士・・・この音楽大学の学長に、学長よりは幾分か歳若い教授が眉をひそめた。


『いつもこちらに入り浸っていらっしゃる、という点では・・・』
『まぁ気にするな、これも視察の一環だ』


君を信頼しているからね。と、避難の視線を笑顔で一蹴して、再び窓の外を眺めた。


『不思議なものだ・・・才有る者は引き合うように同じ場所に集ってくる。そして互いに影響を受けつつ競い合い、更にその才能を伸ばしてゆく』


教授は机から立ち上がり、ゆっくりと窓辺に歩み寄った。
薄暗い石壁の室内に、窓から差し込んだ光が絨毯のように一本の道を作っている。その上を踏みしめるたびに、コツンコツンと乾いた音が響き渡っていく。


『20世紀を代表するヴァイオリニストといえば、ダヴィド・オイストラフ、ヤッシャ・ハイフェッツ、ナタン・ミルシティン・・・・・・。彼らによって数多くの名曲が生み出され、今もその名を残している。同じようにこの若者達の中から、21世紀に名を残すヴァオリニストが生まれるかもしれん。いや、きっと生まれるじゃろう』
『そうあって欲しいとは私も思いますが、褒めすぎではありませんか?』
『いやなに、正直な感想じゃよ。まだまだ荒げ刷りで自分を出し切れていない奴らじゃが、先が楽しみで目が離せんわい。こうして、学生達の素のままの演奏を、こっそり聴くのが老いぼれの楽しみなんでな』


まさにダイヤの原石・・・。


自分の事を老いぼれなとど言ってはいるが、ひょうひょうとした好々爺の裏に隠されている鋭利な鋭さ。
その証拠に学内だけに留まらず、音楽世界に及ぼす影響は未だに現役で、常に絶大な効果をもたらしているのである。音楽的な批評や目は、長年の経験や実力からくる確かなものだ。
褒めるなと言うものの、そんな偉大な人物に教え子を褒められて、自分も嬉しくない訳がない。


『ところで学長、私に何かお話があったのではありませんか?』
『おぉ、そうじゃった』


思い出したようにポンと手を叩く。


『オーケストラのコンサートマスター、それと国際コンクールのヴァイオリン部門の出場者を、君の生徒の中から選ぶことにしたよ。だから君の意見を聞きたかった』
『オケは3年と4年の必修授業のですよね。コンクールも同じ人物ですか?』
『そう、両方とも同じ人物になった。正式決定はまだじゃが、ほぼ決まりじゃろう』
『それは誰です?』
『レン・ツキモリ』


教授は驚きに目を見開いた。
予想通り・・・いや、まさか彼が・・・そんな二つの心が混ざったような思いが駆けめぐる。
実質、ヴァイオリン科の中で主席の者が担当しているこのポジション。
ということは今のところ、ヴァイオリン科の主席は彼という事になる。


ソリストになる為の専攻器楽の他、副専攻楽器としてピアノ、室内楽、オーケストラと必修科目は多岐に渡る。
どれも音楽を形作る上で、必要不可欠なものだ。
副専攻のピアノは通年だが、この大学では1〜2年で室内楽を、3〜4年ではオーケストラを学ぶ。


コンサートマスターを簡単に言えば、オーケストラのヴァイオリンを(主に1stヴァイオリン)を弾く人の中で、トップの座に座って弾いている人物の事をいう。全ての弦楽パートのボウイングを決定し、アンサンブルの要となる他に曲のソロパートの担当、指揮者と奏者を繋ぐパイプ役でもあるのだ。


『ヴィルへルム=フランツとシュバイツ=ルイードポルト。彼らも候補に挙がったがレンを押す者が多かった。補佐としてヴィルへルムといったところか』
『あぁ・・・いい人選だと思いますよ。ただしヴィルはともかく、レンに関しては少し待ってもらえませんか?』
『おや、この人選が不服かね?』
『不服だなんてとんでもありません。彼なら授業で立派にコンマスを努めてくれると思いますし、コンクールも素晴らしい成績を納めてくれる事でしょう』


ただ・・・。そういって、ふと表情を和らげた。
厳しい指導者の顔から、子供の成長を見守る父親のような表情へと変えて、窓の外を遠く見つめる。


『少し彼に、時間を与えてやりたいんですよ・・・・。どうにも不器用な子でしてね・・・。』


いつも、先程のような伸び伸びとした演奏ができればいいのだが・・・・・・。
恐らく本人は気付いていないのだろう。
四六時中、彼らのことを見ているわけではないが、友人のヴィルへルムやシュバイツ辺りなどは気付いているようだ。だからこそ、レンに対していろいろ構いたがるのかもしれない。
不器用な子ほど可愛いとは、良く言ったものだ・・・・・・。


国際コンクール。
プロのソリストを目指すレンにとって、良いチャンスだ。本人も希望していたこの機会を、逃してはならないと思う。
しかし今のままでは、十分に力を発揮できないだろう。
だからこそ本人も、気付かないながらも今苦しんでいるのだ。
実力的には申し分無いとしても、コンマスもコンクールも、今の彼には精神的に重荷になってしまうかもしれない。
彼は悩みとプレッシャーに打ち勝つ強さを持っているが、万が一という事もある。


答えはすぐ側にあるのだ。それを彼自身で見つけた時に、本当の自分の音楽を手にすることが出来るだろう。
大きく羽ばたいた彼が奏でる音色を、きっと世界は待っている。
だからこそ、自分を見つける時間を与えてやりたい・・・と思うのだ。


コンコン、とドアをノックする音が室内に響いた。


『お客様なようじゃな、ワシはそろそろ退散するとしようか』
『これから、そのレンのレッスンが入っているのですよ。学長も聞いて行かれますか?』
『いや、辞めておくよ。楽しみは後に取っておく方なんじゃ。良い返事を期待してるよ』


どうぞ。という中からの声と共に、息を切らした月森がガチャリとドアを開けた。
しかし目の前は、大きく立ち塞がる人物・・・・。
一瞬呆然と見つめていたものの、それが誰であるかハタと思い当たり、慌てて脇に避けた。


『あ・・・す、すみません!』
『やぁ、レン。調子はどうだい?』


学長は茶目っ気たっぷりに片目でウインクすると、廊下の奥へと消えていった。
なぜ自分の名前を知っているのだろう・・・月森は暫し呆然と見送るものの我に返り、慌てて室内に入る。


『失礼します。申し訳有りません、お話中でしたでしょうか?』
『かまわない、丁度終わった所だ。ではレッスンを始めようか、昨日注意した所はきちんとさらってきてあるか?』
『はい。お願いします!』