音色の先にあるもの・前編

ひとえに音楽大学といっても、専攻の数は多岐に渡る。
俺が在籍する器楽科の他、声楽科、指揮法、教会音楽、作曲、録音、音楽療法・・・。


専攻によっては、定期的に決まった場所に集まる「たまり場」を作っているところもある。
ここに集うと練習や勉強のアドバイスを受けられたり、休みの日にどんな催しがあるか情報をもらえる。
きっかけはなんであれ、気が合えばそれからカフェテリアに出向いて、コーヒーを飲みながら議論白熱。
一杯が二杯になり・・・ということも、良くあるようだ。


ヴァイオリン専攻の学生が集うのは、もっぱら講義棟裏。
講義棟の裏手には、大学のシンボルでもある菩提樹の木と緑が茂り、手入れされた芝生と明るい日差しに覆われた緑地が広がっている。ヴァイオリン専攻の学生だけでなく、多くの学生達の憩いの場となっている。
木陰のベンチで譜読みをする者、芝生の上で日光浴をしながら読書をしたり、談話を楽しむ者・・・。
木々からの木漏れ日や降り注ぐ太陽が、暖かく、そして優しく、集う学生達を包み込んでいる。


静かに流れていく、ゆっくりとした時間。


誰もが自然の中で、静かに自分と向かい合う時間と空間を、大切にしているようだ。
そんな中で時折ふと思う、本当の豊かさとは何なのだろうかと・・・?
きっと大金を使って何かをするのではなく、こういった環境が周りにある事なのかも知れない。


星奏学院の森の広場に似た雰囲気があり、静かな空気がとても気に入っていたので入学当初から足を運んでいたところ、気が付いたらこの輪の中に引き入れられてしまっていた。
引き入れた張本人は今、集う学生や友人達、それにヴァイオリン専攻の新入生達をギャラリーに、バカンスの成果だというサラサーテの曲を披露している。


月森は、人の輪から少し外れた所にある菩提樹の幹に寄りかかり、腕を組みながらその様子を眺めていた。


悪くない・・・。


元から技術や表現力は、格段に高かった彼だ。茶化してはいるが、自信たっぷりに豪語するだけの実力は備えているだけに、末恐ろしいとさえ思う。
軽快に音が跳ね、時にはほの暗い情熱的な旋律を刻み、降り注ぐ太陽を思わせる情熱的な音色が聴衆を包み込む。ここはドイツではない、スペインなのだと音色が・・・音色に宿る想いが彼の地へと誘い、それに引き込まれる聴衆たち。
彼が体感したというスペインの光景が、音色を通して俺の五感に伝わってくるようだ。



「・・・・・・っ!」


一瞬、視界が歪んだ。


しかし、俺の目の前に映しだされたのは南国の景色では無かった。
森の広場、駅前、公園・・・。そして音色の中にいたのは、大勢の人に囲まれて楽しそうにヴァイオリンを奏でる香穂子の姿。いつか見た過去の光景が蜃気楼のように、いくつも浮かび上がっては消えていく。
灯の有るところに人が集うように、香穂子の音色に引き寄せられて一人、また一人と、いつも自然に多くの人が集まって来る。
もちろん、俺も引き寄せられた一人。
真っ直ぐで、暖かくて、優しい音色に・・・。


いつでも俺は変わらないんだな。
もっと浸っていたい、そう思うのに。
自分には無いものだと、憧れるばかりで・・・・・・。



情熱的な旋律と聞き入る聴衆が見せた近視感(デジャブ)に、月森は軽く眩暈を覚え、眉根をしかめた。




華やかな曲のフィニッシュと共に弓が大きく弧を描くと、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
皆を情熱の国へ誘った本人は、『いやっ、どーも!』と愛想を振りまきながら、声援に答えている。


『腕を上げたな、凄いじゃないかヴィル! 情熱の国スペインの光景が、昨日の事のように思い出したぜ』
『シュバイツ!お前が思いだしたのは、どうせ魅惑的なフラメンコ・ダンサーだろうが!』
『バレバレかよ。でもその時の興奮よみがえる位に、鳥肌たったぜ』
『もっと高尚な感想が欲しいんだよな・・・そうだ。レン!』


ヴィルが大声で俺を呼ぶと、皆も一斉に俺を振り向いた。
茅の外を決め込んでいたのに、途端に注目を集めてしまい、何となく少し居心地の悪さを感じてしまう。


『俺にも、高尚な感想は期待しないでくれ』
『期待しないさ。そんな端っこで黄昏れていないでさ、次はお前の番だぜ。夜会に来なかった分、今日1曲弾くって約束だったよな』


確かにそんな約束をしたな、と月森は溜息を吐いた。
ヴァイオリンを用意して、Aの弦から順に調弦を始める。


『俺の国・日本では、学校生活は4月から始まるんだ。冬が終わり、生命が芽吹き始める春の到来と共に、新たな生活が始まる。この大学に新たに芽吹いた生命を祝して、君たち新入生に、この曲を送ろう』


俺も、この身で体感した事がある。


今の季節は秋だが、奏でる曲は春の喜びを表現した曲。
その曲に込められた情感は、ドイツに住んで初めて理解することが出来た。
長い冬が来て春を迎える喜びというのは、冬でも晴天の多い、日本の太平洋側に住んでいては分からなかった。冬の間太陽が顔を見せることはほとんど無く、晴れ間らしい日は殆どない。おまけに朝は8時過ぎまで明るくならず、午後3時になると暗くなり始める。厳しい冬があればこその、春の喜びなのだと思った。


太陽の見えない、鬱々とした厳しい冬。春の訪れを告げるイースターの祭り。
音色に言葉を託して、ドイツに渡ってからこの身で感じた事柄を、切々と語りかけていく。
大きく時には緩やかなボウイングと、瞳を閉じた表情からも。


音色の余韻が空を震わせる中、弓が大きく弧を描く。
楽器を静かに降ろして、閉じていた瞳をそっと開いた。


月森は、目の前に溢れる人々に目を見開いた。
先程までは遠くにあった筈の人垣が、今は輪の外れに居たはずの自分の周りを囲んでいた。
しかも、たまたま通りがかった人や、広場にいた学生達をも引き寄せて、さらに聴衆が増えている気がする。
シーンと静まりかえる静寂が大歓声にうち破られたと思うと、津波の如く押し寄せる人々に、月森は飲み込まれてしまった。


『もう一曲、何か聞かせてもらえませんか!』
『俺と合奏してもらえませんか!』
『え・・・っちょっと・・・』


すっかりコミュニティーの中心地が移ってしまったようだ。
先程まで輪の中心でヴァイオリンを奏でていたヴィルへルムが、今度は外側で月森の演奏を聞いていた。
彼と友人達が、聴衆に・・・とりわけ新入生達にもみくちゃにされている月森を楽しそうに、でもどこか自分の事のように嬉しそうに暖かく見守っていた事を、もちろん月森は知るよしも無かった。


突然の事態に自分自身も混乱して、状況が良く理解出来ないでいた。
自分の身に一体何が起きているのか、なぜ聴衆が騒ぎ立てるのか・・・。
四方八方から声を掛けられて詰め寄られ、どうしようかと困り果てる。
何気なく右手にはめた腕時計に視線が止まり、時刻を見てハッとした。


しまった・・・今日はっ・・・!


人垣の外から、パンパンと手を叩く音が聞こえた。


『はいはーい! 順番・順番にね。レンに言う前に、まず俺を通して貰わなくちゃ困るんだな』
『お前はいつから、レンのマネージャーになったんだよ』


囃し立てる声はシュヴァイツのものだろうか。辺りにどっと笑いが巻き起こった。
しかし今は、ヴィルの機転(半分本気かもしれないが)に甘えさせてもらうしかない。
人垣をかき分けるようにやってきた彼は、どうやらこちらの事情を既に理解しているようだった。


『すまない、これからレッスンが入っているんだ。そろそろ抜けさせてもらう』
『遅れると、頑固な教授どもはウルサイからな。後は任せとけ』


人垣から抜け出ると、急いでヴァイオリンを片づけた。
『順番に聞くから一列に並んで〜』という、やけに明るい声に思わず振り返りたくなったが、今はそんな時間も惜しい。心の中で握り拳を作りつつ、講義棟の中へと駆け込んだ。





『ほう・・・楽しそうじゃな。ワシもあと40年若ければ、というところか。若い頃を思い出す・・・』


講義棟の中へと駆け込む月森と、賑やかに集う学生達の姿を、二階の窓から見下ろす初老の紳士の姿があった。