『引き留めて済まなかったな、買い物の途中だったんだろう?』
俺の肩に置いた手をゆっくり降ろすと、顎と視線で背後で賑わう本の売店を示した。
言われるまま振り返り、本を買うつもりだったのを思い出した。
すっかり掻き回されて、危うく忘れかける所だった。
『あぁ・・・そうだった。少し待っていてくれないか』
月森はくるりと踵を返すと、人混みをすり抜るように売店に駆け寄った。
先程の内に目星は付けてあったから、棚に並んでいる中から必要な本を手短に揃えて、手早く会計を済ませる。
楽理、楽式論、楽譜論、音響学、音楽史・・・・買い漏れがないか、手の中にある分厚い本達をチェックしていく。
ドイツでは子供のうちから質の高い音楽教育を、学校や個人教授で受けることが出来るから、大学側も基礎的な知識や演奏能力は当然の前提としてる。学生に対する要求水準は、かなり高いといえる。
自分が抱えている本の重みが、そのまま重圧となって自分へとのし掛かる。
加えてドイツ語という語学の壁。
今では会話も読み書きも不自由はしないものの、やはり日本語とのハンデは大きい・・・・。
『すまない、待たせたな』
『じゃぁ行こうか』
正面の大講堂へ続くリンデンの並木から、石畳に柔らかい朝の木漏れ日が落ちている。
並木道の光景がやけに感傷的に映るほど、賑やかに行き交う人波の中で、この空間だけぽっかりと静けさに支配されていた。時折、級友たちが声を掛けて通り過ぎていくが、それ以外は互いに無言のまま、ただ何となく肩を並べて歩くだけ。先程までのやりとりが、まだ二人の間に余韻となって続いていた。
ぽつりと水面落ちた滴がそっと広がるように、静寂が破られた。
『お前の気持ちは分かってやれないかもしれないが、女心は解るつもりだぜ。俺は待つ方の身だったからな・・・』
『ヴィル・・・・・・・・』
隣の月森へと呟くように語りかけるが、視線は遙か遠くの何かを見つめていた。
悲しそうに顔を歪め、まるで表からは見えない、心の傷の痛みに耐えるように。
言葉が過去形だ・・・。
思わずハッとした。
その時、忘れかけてた記憶の扉が開き、俺は目が覚めるような衝撃を覚えた。
ヴィル・・・ヴィルヘルムの彼女はモスクワの音楽アカデミーに留学中で、俺や友人たちは彼から度々、送られてきたという手紙や写真を嬉しそうに見せられては、自慢(のろけ?)話を聞かされていた。
それが一変したのは、丁度1年前のバカンス前の事だった。
恋人と共に過ごすバカンスの為に帰国途中、現地の列車事故に巻き込まれて、若い命を落としたと聞く。
ピアノの才能に溢れ、将来を期待されていた人物だったらしい。
抜け殻のようになって暗い部屋に閉じこもり、日々自分を責め続けて涙を流していた彼の姿を、俺はずっと側で見てきた。
香穂子を日本に残してきている自分が掛けてやれる言葉など、有るはずもなく・・・・・・。
どこかしらじらしくて、嘘っぽく、軽く聞こえてしまいそうなのが・・・怖かった。
『すまない。辛いことを思い出させてしまった』
『謝るなよ、そもそも最初に突っついたのは俺なんだし。ヴィルヘルム=フランツ様を、いつまでもジメジメしてる柔男と一緒にするなよな』
『自分で〜様と言っている輩に限ってどうだか』
ほんの少しのジョークを込めて言うものの、空元気でもいい、今ここまで立ち直っただけでも奇跡に近いと、俺も含めて誰もが思っている。
でもどうして、辛い思いを再び味わってまで、俺にここまでしてくれるんだ・・・。
『お前見てるとじれったいんだよ、しかも頑固者ときた。俺はもう会うことが出来ないけれど、レン達はまだ繋がっているんだろう? この世に確かにお互いがいるんだろう? 短い間でもいい、側にいてこそのものじゃないのか。先がどうなっているかなんて誰にも解らない。後で・・・って思っていると、絶対後悔する事になる。俺みたいになって欲しくないんだ』
『縁起でも無いこと言わないでくれ。でも気持ちと忠告は確かに受け取った。・・・ありがとう』
『押しつけがましいかもしれないが、レン達には幸せになってもらいたいんだよ。俺の分まで・・・って言いたい所だけど、俺の幸せは俺が見つける。レンに背負わせたりしないから、それは安心してくれよな』
でないと、あいつが喜ばないからな・・・とはにかんだように笑った。
『先に解っていたら、お前の首根っこひっ捕まえてテーゲル空港に直行してたところだぜ。そしてそのまま俺が日本まで連れててやってたさ』
『それは勘弁してほしいな』
言われたら倍にして言い返すのがベルリン流。
ジョークなのか本気なのかの言葉に、少し複雑な心境だ。
強いな・・・・・・。
その強さが眩しくて、思わず眼を細めた。
もしも俺なら、きっと立ち直る事なんて出来ないだろうから。
元気さと笑顔に隠されて見えない内側では、きっとまだ傷が癒えきっていないかもしれない。
そんな自分の心の傷を、あえて開いてまで俺に諭してくれた彼の誠意と気持ちは、決して無駄にしてはいけないと強く思った。
無駄にしてはいけない・・・無駄にはしない。
しかし、だからと言ってすぐ日本に帰れるほど、心の整理は付いていないんだ。
香穂子を呼び寄せるなら、なおのこと・・・。
まだ何もこの手に、自分のものにしていないから・・・。
言えばきっと「頑固者」と、騒がれるのは解っている。
けれども身に染みる誠意に対して、自分に後ろ暗さを感じてしまうのを、どうしても止めることが出来なかった。
『今夜、学生会主催で新入生の歓迎夜会パーティーをやるんだ。レンも来るだろう?』
ヴィルヘルムは学生会組織の役員もしている。学校側の行事が無い分、生徒が主催して様々な催しを行うのだ。
パーティーは自由な服装できて、各自がめいめい好きな時間を楽しんで帰っていく。
何かと通過儀礼が多くて堅苦しい日本とは大違いだ。
『いや、俺は辞めておく。遅くなるのは、困るんだ・・・・』
『そっか・・・深夜のSバーンやUバーンは、俺ら生粋のベルリーナーでもちょっとスリリングだからな。外国人のお前に取っちゃ、ちょっとどころじゃないだろう。まぁ仕方ないか』
以前Sバーンの車内で大きな暴動事件が起きたことがあった。それ以来、車内には警備員が常駐するようになったが、スリや置き引きはに日常茶飯事。タチの悪いものになると暴行事件まで起きることもある。
車内は密閉されて隣の車両へ移動が出来ないため、警備員のいる車両に乗ったり、まともな乗客や、人が多くいる車両を選んで乗るようにしている。結局は自分の身は、自分で守るしかない。
特に深夜は細心の注意が必要で、手持ちの金が有ればバスやタクシーに乗るのが一番いいのだが、学生の身分ではなかなか厳しいのが現状だ。
香穂子を呼び寄せられなかった理由の、もう一つがそれ。
自分がこの街に慣れて馴染むまではと、どこか頑なに心に決めていたから。
日本と違って至る所に危険が潜むこの街で、彼女を守れなければ意味がない。
それに・・・と、ヴィルがニヤリと口元を歪ませた。
含みのある笑顔に、思わず背中に冷や汗が走った。
『パーティーに行きたくないって口実なのも、ちゃんとお見通しなんだぜ。でもまぁ、賑やかな場所に進んで来る奴じゃないしな、お前』
『すまない・・・』
2年以上も友人付き合いがあると、すっかりお見通しらしい。
痛い本心を鋭く突くかれて、苦笑を隠すことが出来なかった。
『ドイツでは呑みニュケーションが大事だって、いつも言ってるだろう? ビール1杯で誰もが友人になれるんだ。素晴らしいと思わないか?』
『そうだな、日本にもそれと似たようなものはある。呑まずに親しくなれるに越したことはないが』
『呑まなきゃいいのか!?なら今度、ランチタイムにも親睦会を企画しているんだ。良かったら、そっちに顔出してくれよ。レンのヴァイオリンを、ぜひ新入生達にも聞かせて欲しいんだ』
『あぁ・・・分かった。そういう事なら、喜んで』
足下の石畳が大理石へと変わった。
音楽大学のシンボルである大講堂の白い石壁が、太陽の光を反射して白く輝いている。
いつ見ても、音楽の歴史をそのまま具現化したような重厚感に圧倒されてしまう。
新学期の最初に行われるオリエンテーションの会場となる大講堂前には、大勢の学生で溢れていた。