痛い沈黙に乾いた喉を潤そうとグラスに手を伸ばしかけたが、指先がグラスに触れたところで手を止めた。
飲みかけだったアイスコーヒーは氷も溶けきっていて透明な水になり、滴るほどに汗をかいていた水滴もすっかり乾いていた。窓越しに感じる夏の陽射しに熱いと・・・乾いているのだとそう伝えるように。
まるで俺だな・・・とそう思いながら、飲むまでもないかと引き戻した。


『どうして、カホコにまで秘密なんだい? 本当は、一番に知らせたい相手だろう? 彼女だって待っているんだから、こんな嬉しいニュースを聞いたら喜ぶのに』
『香穂子には誰よりも俺が一番に知らせたいから、完成までは秘密にしたいんだ』
『ただでさえお互い離れているんだから、どんなに小さなことでも隠し事は良くない。やがて不安を纏って大きく膨らんでいくんだぞ。彼女の不安を煽って悲しませたらどうするんだ? その逆を考えたら、レンだって辛いだろう?』
『想っている事と、実際に取っている行動が逆な事は承知している。だがこのCDは俺のプロへの道がかかっているけれど、彼女に捧げるものなんだ。選曲もアレンジも、載せる曲の順番もブックレットも何もかもが・・・』


アヴェマリア、感傷的なワルツ、ツィガーヌ、カンタービレ、カプリース24番など・・・・中に収められるのは馴染みのある小品ばかり。高校のコンクールで俺と、音楽の妖精に見出された香穂子が奏でた曲を第一〜最終セレクションまでを順に追ったものだ。彼女と一緒に心を乗せて奏で合った二重奏は、G線上のアリアなど。
そして最後には君が伝えてくれた愛の挨拶と、今回俺が伝えるもう一曲を・・・・・・。


俺と君にとっての大切な思い出の曲たち。

俺たちはここから全てが始まったんだ、そしてこれからもずっと。
心の中にある音色に耳を傾ければ、あの頃の俺たちが昨日の事の様に目に浮かぶ。
音色は懐かしい想い出を蘇らせ、その時感じた想いと共に新たな気持を湧き上がらせながら。

何度でも感じるんだ-------君が、好きだと。



この身体は離れても心は側に・・・そう思ってはいても、やはり側にいてこそなのだ。綺麗事だけで心の全てが片付かない事だってある。ヴィルが以前俺に言っていた事は正しかったと、香穂子と久しぶりに会ってようやく意味を理解した。 暗闇の中を手探りで彷徨い、ただ闇雲に前へと進んでいた昔の俺たちとは違う。
進むべき道と行き着く出口を互いに確認しあったから。


今ではどこか遠くて空を掴むようだったけど、今では愛しい君の存在を確かに感じる事が出来る。
見上げる空や奏でる音色。頻繁に交わすようになった電話越しに聞こえる声。
君らしさが伝わってくる、メールや手紙の文章に。


そう・・・1枚のCDに込めるのは、一刻も早く君を迎えに行きたい・・・側にいたいという、俺の想いと決意の証。
俺一人の事じゃないのは分かっているが、君を驚かせたい。誰よりも一番初めに感謝と愛を伝えたいから。



『だけど大丈夫なのか?』
『どういう事だ?』
『夏休みになったらカホコが来るんだろう? レコーディングは夏セメスターが終ってから。レンの集中力は素晴らしいと思うけど、順調に進むとは限らない。もし延びれば、せっかくカホコが楽しみにしてるのに渡欧が延期になるか、滞在が重なるかも知れない。それでも秘密にするのかい?』
『・・・秘密にしていたのに、喜んでもらえると思うのはムシの良い話しだ。悲しませないと誓っても、少なからず寂しい想いをさせてしまうかも知れない。だが今しかないんだ、俺には時間が無い。何とかしてみせる』


もし今伝えて万が一チャンスが流れでもしたら、きっと彼女は自分を責めるだろう・・・そんな事は決して無いのに。一度に二つを失うかも・・・と考えるのが一番怖いんだ。

一度生まれた不安を敵にすると、もっと大きくなって俺を苦しめる。胸の中にある不安は自分の心が作り出す俺の一部・・・その不安と仲良くする事を考えなければ、潰されてしまう。だから秘密にしておきたい。


『プロポーズの台詞とエンゲージリングよりも、強烈だな。レンらしい・・・カホコも、レンの真っ直ぐで熱いところが好きなんだろうな。お前頑固だから、俺が何言っても考え曲げないんだろう?』
『俺の想いと音色は、いつでも彼女へ向かっていると伝えたいんだ・・・確かな形で』
『口で言える言葉や、お金で買える指輪とかじゃないって事か。大切なことは目に見えない、心じゃなければ見えないから。歴史上の音楽家の多くも、音色に愛や想いを託して名を残してきた。お前もその一人になるんだろうな・・・君たちが少しだけ羨ましい』


俺の瞳の奥にある真実を探るように、じっと俺を見つめていたヴィルが、降参だとそう言って大きく溜息を吐いた。肩や身体の力を抜いてどさりと倒れ込むように、椅子の背もたれに寄り掛かる。彼を見て、自分も張り詰めていた気が緩んだ事に気が付いた。


『変わったな・・・少し前までは、どっか焦れったかったのに。頑固なレンの首根っこひっ捕まえて、いつか絶対に日本へ連れて行くのが俺の使命だと思ってたんだ。何と言うか、前向きになったな』
『そうだろうか? 俺が変わったとしたら、香穂子のお陰だ。彼女がいなければ世界の広さや空の青さは分からなかったし、音楽で生きていこうなんて心の底から決意出来なかった』
『カホコの力、レンのちから。君たちを変えたのは恋の力ってやつか、羨ましい。やり方に多少突っ込みたいところがあるけど、気持は良く分かったらから、俺に出来る事なら協力しよう。アリバイ工作でもウチで預かるなり、ドンと来い! 怒られるときは、俺も一緒だな』
『すまない、感謝する』
『その代わりカホコを泣かせたと分かったら、即俺の方法を取らせてもらうからな。俺はレンだけじゃなくて、どっちもの見方だから。喜びがでかい分、リスクを背負っているんだぞ。カホコからのビンタ一発くらいは覚悟しておけよ』


あぁもちろんだと力強く頷けば、ニヤリと口元を歪ませて俺の肩を叩きながら、ミッション開始だと瞳で笑いかけてくる。

一度に二つの夢を同時に掴もうとしている俺は、ひょっとして我侭なのかもしれない・・・いや、独占欲の塊か。
香穂子への想いを込めた曲を世界中に広める事によって、月森蓮という存在や音楽を。
何よりも俺は君だけ、君も俺だけのものだと言おうとしているのだから。
だがヴァイオリニストと君と、どちらも欠かす事の出来ないもの。2つ一緒でなければ、意味が無いんだ。

まずは一歩を踏み出す事。そして一歩、いつでも々一歩を繰り返す・・・。
今進んでいる出来事が大切なんだ。俺にあるのは前に進む力、力の源は香穂子・・・君だ。
その力を生み出さなければ、何も始まらない・・・答えはそれに付いてくるのだから。




『その・・・すまないな』
『どうしたんだい? 謝ってばかりで、レンらしくもない』
『君の貴重なバカンスを奪ってしまった。予定があったんだろう? 君たちドイツ人にとってバカンスは、クリスマスと同じくらいに大切だと聞いている』
『何だその事か、俺は一人だし気ままなもんさ。何もせずいつもと同じ日を過ごすよりは、ここに残ってレンやカホコと一緒にいる方がずっと楽しい。どこを楽園にするかは心の持ち方次第』
『それだけじゃない・・・違うんだ。君自身の事だってあるのに、ヴァイオリンの二重奏やピアノ伴奏を引き受けてくれた。もしかしたら、将来を左右してしまうかもしれないのに・・・』


CDの話が来た時に事情を話し、無理を承知で頼んだら彼は嫌な顔をするどころか、自分の事の様に喜んで快く引き受けてれた。どうして他人の事なのに、そこまで喜ぶ事が出来るのだろうと俺が戸惑うほどに。


『乗りかかった船だ。俺が好きで協力しているんだから気にしないでくれ。知らない相手と組むより、気心知れている相手の方がやりやすいだろう? 誘いをかけてくれて光栄に思うし、感謝しているよ』
『そうれはそうだが・・・』
『俺を表現する方法はヴァイオリンだけじゃないって事、新しい形さ。いいチャンスだと思って、将来の為に勉強させてもらうよ。本命は後からやって来るのがお決まりだからな。レンよりも凄〜いの作ってやるからな』
『・・・ありがとう』
『おっ、ようやく“すまない”以外の言葉が出てきたな』


俺たちの心にある想いもまた、グラスに残る濁りの無い透明な水なのだろうか。
混ざり合って染まりながら最後に行き着くのは、真っ直ぐな輝きと清らかさを伝える、どこまでも透明な水。
始まりと同じ色に戻るのは、新たな始まりを告げるからなのだろう。



自分の全てを出し切りたいから、選曲も構成もデザインも演奏者も俺が選ばせて欲しい。
俺の・・・月森蓮の作品だと心から言えるものが作りたい---------。


それはレーベルの担当者に心の底から俺の全てで真っ直ぐ伝えた、たった一つの望みだった。
あざ笑うか呆れられるかと、いちかばちかの賭けだったが受け入れられ、向けられたのは大きな信頼。
いつものように川辺や公園で演奏する気分で自由に、好きなように奏でて欲しい・・・と。

むしろ大きなリスクを負っているのは、俺なんかよりも彼らの方なんだ。
まだ名前も知られていない俺一人の我侭の為に、多くの人の運命が動いているのだから。
協力してくれる人たちの為にも、無事に完成させるだけではなく、成功させなくてはならない。

心から音楽を愛する彼らとなら、きっと良い物が出来上がる。だからもう少し、待っていてくれ。
海の向こうにいる香穂子も、もちろん大切な参加者だ。君がいなくては、全てが始まらないのだから。





『お待たせしました』


頭上で聞こえたギャルソンのに振り向くと、気配もなく現われたギャルソンが、グラスの乗ったトレイを盛って佇んでいた。テーブルいっぱいに広がった楽譜たちを慌てて寄せると無表情のまま、コトリと小さな音と共を奏でて、俺と向かいに座るヴィルの前にグラスを置く。

ブランデーグラスよりも大きく、口が平たくて広いグラスの中に入った赤い液体・・・ヴェルリーナ・ヴァイセ。
上には白い泡が薄く覆っており、注文どおり太目の青いストローが刺さっていた。


成る程・・・眺めているだけでいいと言ったのは、そういう事だったのか。
煌きながら元気に舞い踊る小さな気泡と、カキ氷のシロップのように透き通って見える赤。
辛い暑さと喉の渇きを癒してくれる赤いヴェルリーナ・ヴァイセは、香穂子・・・君の事だったんだな。
だからグリューン(緑)ではなく、ロート(赤)を迷わず注文したのだ。青いストローは、きっと俺なのだろう。


見ているだけでいい・・・確かにその言葉の通りだった。
気づけば瞳も頬も緩んで、グラスに映るほどに顔を寄せていたのだから。

はっと我に返って身体を起こせば、ストローは使わずにグラスを持って直接飲むヴィルと視線が絡む。
答えの分かった俺をニコニコ眺めながら、どこか嬉しそうな笑みを浮べていた。見透かされているのが悔しいやら照れくさいやで、熱くなる頬を誤魔化すようにグラスをそっと持ち上げ光りに翳す。


『いつも不思議に思うのだが、この赤い色は何なんだ?』
『ロートの色はラズベリーのシロップ。ちなみにグリューンはヴァルストマイスターという植物のエキスから作るんだ。味や甘さは、どちらも同じくらいかな。もしかして、グリューンの方が良かったかい?』
『いや、ロートがいい。ありがたく頂かせてもらう』


俺が笑みを返してグラスを額の少し上へと差し出すように掲げれば、同じように掲げて差し出されたクラスと宙で触れ合いカチンと小さな音が鳴る。俺たちの未来に向かって、乾杯と---------。
ヴェルリーナ・ヴァイセの入ったグラスが窓から差し込む光りを受けて輝き、まるでグラスの中の香穂子も俺に微笑んでいるように見えた。


見ているだけ・・・そのつもりだったけれども。口元を緩めながら弾けるグラスの中を見つめれば、私も乾杯がしたいと呼びかける香穂子の声に引寄せられて、もっと彼女を側に感じたくて。口をつけた青いストローにゆっくりと赤い色が染み込んで混ざり合い、俺の中に君が溶け込んでゆく。


口いっぱいに広がったラズベリーの甘酸っぱさは、君の味.。
甘くて赤い唇がくれる、キスの味に似ていた。











夏の始まり・3