ピアノの鍵盤から指を離し、譜面立てに置いていたペンを取ると、最後に残っていた数小節を書きかけの五線譜に刻み込んだ。俺の中にある全ての想いを閉じ込めるように曲を締めくくる記号を書き、譜面の隅に自分のサインを小さくしたためる。
完成したばかりのピアノ伴奏の楽譜に、既に書き上げてあったヴァイオリンの楽譜に照らし合わせ、俺自身が奏でる二つの音色を脳裏で響かながらじっと二つの譜面を眺めた。
改めて最初から通し終わり上体を起こすと、零れ落ちるのは、ほっと安堵の溜息。
やっと完成した・・・最後の曲。
大切な君へ贈る、世界でたった一つだけの曲が。
グランドピアノの椅子からゆっくり立ち上がると、腕を伸ばして大きく伸びをした。襲い来る鈍い痺れに目を細めつつ、深呼吸をしながら腕をゆっくり下ろせば、凝り固まっていた体の力がほぐれてふわりと軽くなるようだ。
まだ最初の一歩だけれども、無事に完成した達成感と安心感に、心までもが緩んで自然に笑みが浮かぶ。
自宅のリビングにあるグランドピアノの前に、俺はもうどれくら長い間座っていただろうか。
ヴァイオリンを奏でつつ、生まれた音を譜面に写し取っていたのが確か朝から昼間だった。それから伴奏用にとピアノの前に、新しい白紙の五線譜を立てかけて座ったのだが、一度入り込んだら時間の感覚は失われてしまう。つい先程までは明るい光りに包まれていたリビングも、今はすっかり夜の闇に包まれていた。
時計を見れば夜の21:00をまわっていて、そういえば食事を取る事すら忘れていたなと思い返し、苦笑が込み上げる。一度瞬きをしただけなのに、再び目を開けたら数十分も経過していた朝のような時間の感覚。
時計が進みすぎているのか、はたまた俺の時が止まっていたのか・・・。
『一人でも、ちゃんとご飯食べないと駄目だよ!』
母親のようにメッと叱る香穂子の声が耳の中で蘇り、優しく響いて木霊する。
蓮くん夢中になると、ご飯と寝ること忘れそうだから心配なんだもん・・・と、電話をする度に俺を心配してくれる香穂子。眉を寄せながら泣きそうに困っている顔が、受話器越しに伝わる息遣いから浮かび上がり、つい頬と瞳が緩んでしまうんだ。俺を心配してくれる彼女の気遣いが、嬉しくて。
大丈夫だとそう言えば、早く蓮くんの所へ行って栄養あるものいっぱい作るから待っていてねと、俺を笑顔で励ます事も忘れずに。夏が近づくのが待ちきれない彼女はとても嬉しそうで、一刻も早く会いたい気持が伝わるから、少しだけ俺の心にチクリと小さな痛みが走る。
だが、すまない・・・。
数日前にもそう電話で会話を交わしたばかりなのに、さっそく君の心配通りになってしまったようだ。
心の中で微笑みと共に香穂子に語りかけて、閉じたピアノの蓋に置いた愛用のヴァイオリンを撫でると、引寄せられるようにゆっくりと窓辺へ向かった。
それだけではない・・・俺だって今すぐに君に会いたいし、夏を一緒に過ごす事には変わりないけれど。
少しだけ待ってもらうかも知れない、過ごす期間が当初の予定よりも短くなるかも知れないんだ。
飛行機のチケットの関係もあるから早く伝えなければと思うのに、秘密にしたい事もあるからどう言い出そうかずっと迷っていた。
いや・・・違うな。
一番怖いのは、香穂子を悲しませて、会える機会そのものが無くなってしまう事。
香穂子への想いを込めたCDだから、完成までは本人に秘密にしたいと言ったのは俺なのに、その俺自身が不安になってどうするというのだ。頑固さに飽きれるヴィルヘルムの溜息が聞こえるようで、思わず眉を顰めた。
ヴィルの言う通りに秘密にして良いことなどは、一つも無いのは承知だ。
今全てを伝えられたらどんなに楽だろうと、俺だって思う。だがそれでは、俺の決意と想いを示す意味が無い。
不器用だし隠し事が苦手だから、一つ伝えると全てを語ることになりかねない。
香穂子は俺を驚かそうとして、こっそり物事を進める事が度々あったけれども、俺は彼女にに対して秘密に計画を進めることは一度も無かったように思う。サプライズというのは、予想していたよりも覚悟が入るし、リスクも大きい。大変なものだと改めて実感したが、それでも伝えたいのは、彼女がくれた喜びは俺にとって言葉に出来ない程大きく嬉しいものだったから。
だから俺も彼女に伝えたいんだ、今までの分まで。
広い今はグランドピアノがある所だけ、スポットライトのように明かりが灯され、他は闇に包まれている。なのに薄っすらと室内がほの明るいのは、今夜は天気が良いからなのだろう。きっと月や星たちが喜んで、たくさん姿を現しているに違いない。大きな窓から月や星明かりが映る広いリビングは、ちょっとした天然のプラネタリウムのようだ。俺だけしかいない一人の空間と心の隙間を埋めるように・・・・・・。
大きな窓をゆっくり開けると、ひんやりと涼しい夜風が入り込み、俺の頬を撫でながら白いレースのカーテンを優しく凪いでゆく。夜を包むヴェールのようなカーテンを手で払いのけて空を見上げれば、俺の上を覆う夜ロらには、星が一面に敷き詰められていた。手を伸ばせは届くような・・・今にも降り落ちてきそうな。
直ぐ側に感じるのに届きそうでいて届かないのは、まるで今の俺たち。
俺にとっての君であり、君にとっての俺のようだとは思わないか?
夏の空に輝く星座たちを、早く君にも見せたい・・・肩を寄り添わせながら共に眺めたい。
同じ空を眺めているのに、日本ではこれ程多くは見えないだろうから。
『うわーっ、お星様がたくさんだね! ねぇ蓮くん、夜空に五本線を引いたら星の音符で音楽が出来そうだよ』
以前冬に俺の元を訪れた時に、夜空の明るさに感激し星と同じくらいに瞳を輝かせていた香穂子は、そう言って空を見上げながら人差し指で大きく五本の線を描いたものだ。香穂子らしい発想に何度思い返しても微笑みが浮かび、心が温かくなる。
だから星空を見上げるとつい懐かしくなって・・・楽しそうに口ずさむ彼女の心が奏でる星の音楽が聞きたくて、つい空に指を走らせてしまうんだ。
伸ばした人差し指を天高く掲げて、大きく五本の線を描いてみる。
この星たちが音符になったら、どんな音楽を聞かせてくれるのだろうかと想いを馳せながら。
「君の頭の上にある星を見てごらん・・・君だけの星を」
降り注いだ煌きに耳を済ませると、俺に語りかけてきたのは、星達が歌う俺だけしか聞くことの出きる言葉。
ふと見上げれば、視線の先に寄り添いあって一際大きく輝く二つの星を見つけた。
温かい光りを放ち互いに支えつつ、見つめ合うような・・・俺たちもあのよう輝けたらいい。
星が輝いているのは、いつか誰もが皆、自分の星を見つける為なのだと、以前学長先生が仰ってい。
俺の星、君の星・・・自分という星を見つけられた幸運。そして生まれた二つの星は巡りあい、やがて一つになり大きく輝く。星の数ほどある出会いの中で、大切な君に巡り合えたのはまさに奇跡。
見上げる満天の星空は、どんなに時が流れても変わることの無い風景だ。
俺たちの心は、空に輝く一粒の星の中にあるのかも知れない。
子供の頃は知らない事が多くても、何を見ても新鮮な驚きがあった。そして想像や夢の世界がいつでも広がっていたよう思う。だが大人になるに連れて、目に見えるものや現実しか信用しない、想像力の乏しい人間になってしまう。世界の広さを・・・心の豊かさを忘れずにいる大人はいくらもいない。
俺は香穂子に出会っていなければ、世の多くに埋もれてしまうような、つまらない大人になっていただろう。
きっと忘れずにいる者だけが気づけるのだ。星が持つ本当の美しさや煌きを・・・星の語る声を。
星や景色、音楽、大切な君だったり。
それらを美しくしているもの・・・本当に大切なものは、直接俺たちの目には見えない。
簡単なことだ、心でなければものは良く見えないから。
まるで香穂子のように・・・君の心の中に咲く花のように。
俺が自分の星を見つけられたのは、香穂子のお陰だ。
彼女の真っ直ぐさと温かさが、俺の中にも花を咲かせてくれたから。
俺の音楽も俺自身も、星のように目に見えない、何か素敵な何かを隠しているものでありたいと願う。
・・・・・・!
静寂を打ち破られ振り向くと、リビングの中から聞こえてきたのは電話の音だった。このくらいの時間にかかってくる電話は、恐らく香穂子だ。大きく開け放った窓はそのままで、弾かれたようにリビングを駆け抜けると、背を攫う素早さで受話器を取り上げる。聞かなくても、約束をしていなくても彼女だと本能で分かったから、気づけばドイツ語で無く初めから日本語で答えていた。期待に高鳴る鼓動を、宥めて平静を装いつつ抑えながら。
「はい、月森です」
『もしもし、蓮くん? 香穂子です。あ、もしかして私からの電話だって分かった?』
「あぁ、もちろん。香穂子からの電話はすぐに分かるんだ。久しぶりだな、元気か?」
『うん! 元気だけどね、早起きしたからちょっとだけ眠いかな。でも朝一番で蓮くんの声を聞けたから、嬉しくて眠気が吹き飛んじゃった。朝になったら電話するって決めてたから、昨夜はワクワクして眠れなかったの』
俺のいるドイツが今は夜の21:00過ぎだから、香穂子のいる日本では朝の4時頃・・・誰もが寝静まる時間。
彼女もいつもならば、安らかな眠りの中で夢を見ている筈だ。
時差や生活の都合とはいえ、香穂子が俺に電話をする時は、いつも早朝になってしまう。
申し訳なくて湧き上がる苦しさに眉を寄せると、押さえていた筈の吐息が聞こえたのか、俺の気配に敏感な香穂子が何かを感じ取ったのか、蓮くん?と心配そうに問いかけてきた。
「いつもすまない・・・早起きは辛いだろう?」
『蓮くんだって私に電話くれる時には、忙しいお昼の真っ只中でしょう? レッスンや勉強の合間を縫ってかけてくれるんだもの。お互い、言いっこ無しだよ』
「だが・・・・」
『私だってごめんねって思うんだよ。それ以上に声を聞けるのが嬉しいから、せめて蓮くんが忙しくないように、落ち着いた時間にゆっくりお話がしたいの。誰も起きてないから気にしないで何でも話せるし、私は大好きなんだよ。早起きは辛くないから、心配しないで』
受話器を握り締める手の平、押しあてる耳から感じる笑顔。
香穂子に想いを馳せ、会いたいと強く願っていると、不思議な事に必ず君から電話がかかっているんだ。
まるで、俺の声が空を越えて君に届いたように。
嬉しいと・・・君の為なら頑張れると喜び高鳴る心と鼓動に、俺は何て単純なのだと思わずにいられない。
俺の心を一瞬で変えてしまうのは、何時だって君なのだ。
考えていた事や悩みも忘れて、今はただ受話器の向こう側にいる香穂子だけに意識が向かっている。
『家族を起こさないようにヒソヒソ声なのは、許してね。私は大丈夫だけど、蓮くん今平気? 何してたの?』
「あぁ、平気だ。香穂子の声が聞けて、俺も嬉しい。今夜は天気が良いから、息抜きをしようと思って窓の外を見ていたんだ。夜風がとても気持がいい・・・」
『ねぇ、お星様たくさん見える!?』
「月も綺麗だし、星も手が届きそうなくらい満天に輝いている。香穂子にも見せたい。君が教えてくれたように空に線を描いて、星の音に耳を傾けていたんだ」
『うわーいいな! 私も聞きたい。蓮くんだったら、ヴァイオリンで弾けちゃいそうだね。あ・・・でもね、私も蓮くんに負けないくらい素敵な景色が見れたんだよ』
何だと思う?と、身を乗り出さんばかりに聞いてくる香穂子の変わらない無邪気さに、緩む口元はそのままで受話器を持ち直しながら壁に背を預けた。遠く窓の外に見える夜空を眺めながらそうだな・・・と暫く考えたものの、本当は言い出したくてうずうずしているのが、そわそわした気配や息遣いで伝わってくる。
降参だと瞳を緩めつつ優しくそう言うと、瞳を輝かせて振り仰ぐ彼女が、ふわりと俺の目の前に現われた。
心が見せる幻だと分かっているけれども、手を伸ばして頬に触れると、心地良さそうに瞳を緩めて子猫のように俺の手へ頬をすり寄せた。聞こえる彼女の声も、どことなく甘えたように聞こえてくるのは、気のせいだろうか。
いや・・・きっと受話器の向こうにいる香穂子の前にも、俺がいるのかもしれないな。
『こっちは今ちょうど日の出なんだけど、夜空に朝日が昇ってきて・・・夜の青と朝の赤が綺麗に半分ずつ溶け合っているの。蓮くんのところがお星様の合奏なら、私の空は夜と朝の二重奏かな』
「夜の青と朝の赤、二つの交わる時間か・・・まるで俺たちみたいだな。目を閉じれは、香穂子の見ている光景が俺へも伝わってくるようだ」
『ふふっ、素敵でしょう? カクテルみたいで凄く綺麗なの。蓮くんと一緒に眺められたら良かったのにな。気持だけは、私もこの空と一緒だよ』
彼女の存在をもっと感じたくて、受話器を強く耳に押し当てつつ意識を集中させると、耳に掠める優しい微笑が空気を震わせ、心の場所を教えてくれる。中心から波紋を描くように、伝わる温かさが身体中に満ち広がって。
君が見ている夜明けの空が、やがて光りに包まれるように・・・俺の中が君でいっぱいに溢れてくるんだ。
「香穂子。すまないが、窓を開けてくれないか」
『窓? ちょっと待っててね』
声が離れると、パタパタと駆ける音が遠くに聞こえて行き、やがて近くに戻ってきた。
僅かに息を切らせる香穂子の声が、もしもし?と再び耳に吹き込まれ、くすぐったさに頬を緩めながら、お帰りと優しく彼女を迎える。すると一息おいてはにかんだように、ただいま・・・と甘い囁きが返ってきた。
こんな些細なやり取りが幸せで、とても温かい。
出来る事なら握り締める受話器越しでなく、視線と微笑を互いに交わし、直接温もりを感じながら出来たらいいのにと強く願わずにいられない。
『蓮くんお待たせ、窓を開けてきたよ。でも一体どうしたの?』
「ちょうど流れ星が見えたんだ。流れ星に乗せて、俺が見ている星たちの輝きと共に、君への想いを・・・愛を届けよう。君の心まで届いた・・・だろうか?」
『・・・・・・ありがとう、蓮くん・・・。ちゃんと、届いたよ。私のハートの、真ん中に・・・』
乾いた心を潤してくれるのは、こんな夜なのかもしれないな。
この広い夜の下で、俺たちは寂しさを互いに温め合うんだ。優しい星空と君の想い・・・君との絆を感じる夜。
互いの気配と呼吸をを感じ取りながら、心地良い沈黙にお互い身を委ねていると、窓の外に見える煌く星たちが語りかけてくる・・・俺の星がその先の未来を創るのだと。自分の輝きを信じて夜を進むのだと。
ほら、月も星も見守っている。
君への曲は、今はまだ聞かせられないけれど。
心の中で奏でる星の音色が、代りにどうか君へも届きますように・・・。