夏の始まり・2

静かなカフェの店内にいるのは俺一人だけ。
始めの頃は気まずくて落ち着かなかったけれども、今では大学内のどんな場所よりも集中できる。
冬になればテラスがビニールシートで覆われる為、年中静かなこの店は密かに気に入っている場所だ。

窓越しに見えるテラス席の賑やかさも、いつしか目に入らなくなり自分の世界へと引き込まれて。しかし勢い良く開いた扉と共に聞こえた『Guten tag!(グーテン ターク)』という、やけに明るい声に意識が引き戻された。


どの店でも入店の時にはグーテン ターク(こんにちは)、店を出る時にはダンケ・シェーン(ありがとう)と挨拶から始まる。店員の愛想が無いとよく言われるが、礼儀正しいドイツの人々はマナーがきちんとしていれば、とても親切だ。という事は、どうやら俺以外にも店内に客が入ってきたのだろう。
自分の事は棚に上げるけれど、店内が良いとは珍しい人もいるものだと思う。


しかし、さっきの声は聞き覚えがあるのだが・・・。
眉を潜めて顔を入り口に巡らせれば、予想通りの人物が意気揚々と店内奥を目指して真っ直ぐにやってくる。
いっぱいに浴びた太陽の暑さと眩しさを、そのまま室内に引き連れながら。


『レン!』
『やはり、君か・・・』


外のテラス席にいた筈のヴィルヘルムが俺のテーブルまでやってくると、向かい側にどかりと腰を下ろした。背もたれに寄り掛かりながら、店の中は涼しいなと屈託のない笑みを浮べて、襟元をパタパタ仰いでいる。
暑いのならば、無理して外にいなくてもいいのにと思うのだが・・・まさか直接俺を連れ出しに来たのだろうか。窓の外をちらりと見れば、他のヴァイオリン科の仲間達は、相変わらず炎天下のテラス席で賑やかに談笑しているから、余計に不安が過ぎる。


『外に来ないのか? お前の席もちゃんと取ってあるのに。混んでいるから、皆がお前の椅子を奪いに来るんだ。追っ払うの大変なんだぞ』
『すまない。あの人ごみと強い日差しは勘弁してくれ。それに店内席の方が、誰もいないし静かで落ち着く。作業もはかどるんだ』
『事情は分かるけど、太陽を浴びれるのは夏の今だけなんだぞ。4年近くもドイツに住んでいるんだから、レンにだって分かるだろう? 今のうちに光合成しとかないと、冬場にバテても知らないからな』


光合成・・・草木や花ではないのだが。
例えに苦笑してしまうが、確かに冬に太陽が現われない分、夏の太陽は貴重だ。太陽が人々に希望を与え、恵みをもたらす存在やありがたさも、数年暮らしている今でなら身に染みて分かる。


『君たちは、本当に太陽が好きだな・・・。いや、バカンスが好きなのか?』
『レンだって今はそうだろう? まぁ俺たちと違って東洋人のレンは日焼けしやすいから、仕方がないか。真っ黒に焼けた姿は想像できないよ。もしそんな事になったら、日本にいるカホコに俺が怒られそうだ』


そう言ってニヤリと悪戯っぽく笑ったヴィルは、すっと手を上げて店内担当のギャルソンを呼んだ。
飲み物を注文するところをみると、暫くは俺のところへ居座るらしい。テラスでも飲み食いしている筈なのに、腰を落ち着ける為とはいえ律儀な男だと感心してしまう。いや・・・単に良く飲むだけなのかも知れないな。


『いらっしゃいませ、ご注文は?』
『ヴェルリーナ・ヴァイセを2つ!』
『グリューン(緑)かロート(赤)は?』
『どちらもロートで。あ、ストローは青いのにしてくれると嬉しいな』


メモとペンを手に持ち注文を受けるのは、全く愛想の見受けられない真面目そうな年配のギャルソン。対してテーブルに腕を付いて身を乗り出しながら、満面の笑みで応えているヴィルヘルム。店員の愛想が無いのはお国柄だが、やり取りを交わす二人のちぐはぐさが、端から見ている俺には何とも言えず可笑しさを誘う。


夏の暑い日に飲みたくなるのが、ベルリンの名物として有名ヴェルリーナ・ヴァイセ。上面発行の小麦ビールを緑または赤い色のシロップで割った甘いビールで、アルコールに弱い人でも気軽に飲める。
夏になるとブランデーグラスを大きくしたようなグラスに入ったヴェルリーナ・ヴァイセを、ストローで飲んでいる姿を、街のあちらこちらで見かける筈だ。俺は甘いものが得意ではないから、自ら進んで飲まないけれども。

だが・・・・・・。
素早く立ち去るギャルソンを見送ると、俺は驚き呆れた目をそのままヴィルへと向けた。


『いくら弱いとはいえ、アルコールだ。昼間から学生が二杯も飲むのか?』
『まさか! 二つのうち一つはレンのものだから』
『なっ・・・! どういうつもりだ。俺は飲まないぞ』
『俺は飲むけど、別にレンにも飲めとは言ってないよ。ただ側に置いて眺めてくれるだけでいいんだ』
『眺めるだけ?』


アルコールに弱いわけでは無いが、仮にもまだ昼間で講義の合間の昼休み。なのに俺に勧めるとは一体どういう事だと鋭く睨みつければ、そのうち分かるよと。全く気に止めた様子も無く受け止めて、笑みを見せた。


『・・・で、レン。調子はどうだい?』


テーブルに置かれた楽譜やフルスコアの束を眺めると、書きかけの五線譜を指先でトントンと叩いてくる。
外へ誘いに来たのは口実で俺の様子を見に来たのだと、口元を緩めてそう言った。


『あぁ・・・何とか順調だ。十数曲のうち、書き起こす残りは後二〜三曲ほどだ。ヴァイオリンの二重奏やピアノの伴奏譜も、もうすぐ君に渡せる』
『大丈夫か? 最近寝てないんだろう?』


テーブルに肘をついて身を乗り出しながら、ヴィル心配そうに眉を寄せてくる。
何も言っていないのに君も香穂子も、どうしていつも俺以上に俺の事を分かってしまうんだろうか・・・。
心の的を突かれ固まった頬を元通りに緩めると、安心してくれと言葉を込めて、平気だと微笑を向けた。


広い大学構内で唯一店内に空調が付いているこのカフェは、器楽科の校舎から大分離れた場所にある。
他の面々は外だからどの店でも構わないのだが、俺の為にとわざわざ遠くにまで足を運んでくれているのだ。
このカフェならば店内に誰も来ないし落ち着くから、秘密の作業にはうってつけなのだと。この店を教えてくれただけでなく、周囲の目を俺から反らしてくれるなど・・・気を使ってくれる彼に、感謝せずにはいられない。


『国内外のコンクールで次々にタイトルを取って、彗星の如く現われたとか密かに騒がれてるし。次にはCDデビューの話か・・・プロの道もいよいよだな。レンに先を越されそうだ』
『まだ決まった訳じゃない。確実なものではないんだ・・・確かな形になるまでは。何としてでも掴みたいチャンスだから、無用な騒ぎは起こしたくない・・・』


静かに真っ直ぐ見つめると、真摯に受け止めていたヴィルの瞳がふわりと和らいだ。氷のような硬いブルーグリーンが、穏やかな水のように変わる。テーブルから身体を起こすと、大きな背を椅子の背もたれに預け寄り掛かりながら、クセのあるブロンドの前髪を掻き揚げた。


『だから皆にも黙っていてくれないかって言うんだろう? もちろん分かっているよ。この事を知っているのは、大学でも俺たちの先生と学長くらいだ。信頼できる強力な極一部だから安心してくれ』
『すまないな』
『別に謝ることじゃないから、気にしないでくれ。俺も一枚噛んでる関係者だし。レンが連続してコンクールのタイトルを取っただけで、ヴァイオリン科や他の専攻の奴らもピリピリしてるのが、俺にも分かるから。これでCDの話が出たら、荒れそうだな』
『今までは無かったのに、周りで俺を見る目が違ってきているのが、視線や空気で感じる。どこか痛かったり不快だったり・・・。CDの話はコンクールで優勝したから来たんじゃない、偶然なのに・・・』
『もう少しで卒業だし、それだけ皆も必死だって事だな。上手くいけばツアーだってあるんだろう?』


テーブルの上にある楽譜手にとって眺めるヴィルヘルムの言葉には返事を返さず、月森は苦しげに眉を寄せながら五線譜を見つめ、転がっていたペンを強く握り締めている。耐えるような月森を見たヴィルは困ったように小さな溜息を吐き、数種類の楽譜が入ったファイルに挟んであった一枚の名刺を取り出した。
広げていた楽譜をばさりと置き、ファイルの中から見つけ出した名刺をスッと月森の前に差し出してくる。


『どれもこれも今のレンがあるのは、心と身体の血が滲む思いで必死に頑張った結果だって・・・自分の力で掴んだ物だって、俺や周りの皆はちゃんと知っている。だからカホコも、信じて付いてきてくれるんだろう? コンクールの音じゃなくて、本当の君の音が好きだと認めてくれた人物も、ちゃんといるじゃないか』
『ヴィル・・・・・・』


俺の目の前に差し出された、一枚の名刺。
それには世界的に有名な、ドイツの老舗レーベルの名前とプロデューサーの名前が書かれていた。
数ヶ月前・・・やっと春が訪れ始めた頃に、街中で演奏していたら偶然もらったもの。


街中で路上演奏するには、市のテストに合格した人たちのみが可能となっている。だから路上で奏でられる演奏は、誰しもが上手い。ドイツでの生活にも慣れ始めた頃、日本が恋しくなり・・・楽しそうに奏でる彼らを見ていたら、香穂子を思い出してじっとしていられなかった。だから俺もすぐさまテストを受けて、無事に合格した。

その後は気晴らしも兼て、運河沿いの小道や緑溢れる公園で気ままに奏でる日々。香穂子と一緒に奏でたあの頃のように、自由な空の下でみんなと一緒に楽しめたらという想いを抱き、君を想いながら・・・。

名刺を貰ったのはそんな時だった。
川辺の遊歩道でヴァイオリンを奏でていると、休日のたびに欠かさずやってくる人物が俺に声を掛けきた。
欲しい時に一番に拍手をしてくれる中年の男性は、音楽に親しみある分厳しい耳を持つドイツの人らしく、いつも心の言葉をまっすぐ俺に届けてくれる。

今日もそうなのかと挨拶をしたら、 彼はジャケットの内ポケットから皮のカードケースを出して、一枚の名刺を俺に差し出しだんだ。コンクールでの俺も知っていたのだが、休日に川辺で奏でる俺の演奏が好きなのだと。楽しくて温かい気持にさせてくれるのだと、そう言ってありがとう・・・と俺の瞳を笑顔で見つめながら。

ありがとうと言わなくてはならないのは、俺の方なのに。


貰った名刺を見た俺は、驚きのあまり直ぐには信じられず。
先生や学長先生に相談して本当かどうか裏を取ってもらったら、確かなものだと知った・・・そして今に至る。


コンクールという場所ではなく、本当の俺をありのまま出せる場所・・・日常の街中。
楽しむ彼らの顔を見ながら奏でれば、一緒に俺も楽しむ事が出来る。受け取る想いをヴァイオリンの音色で返して、心と心で会話する・・・それは嘘偽り無い俺の音、真っ直ぐに伝えたい心の声。


他に話が無かった訳ではない。話題性などもあるのだろうか?
コンクールの評価だけで誘いをかけてくる所も数件あったが、全て丁重に断った。

本当の俺を認めてくれたこの人物ならば、きっと良い物が作れると・・・俺の夢が叶えられると。
俺の声、俺の想いと音色を世界中の人に・・・海を越えて香穂子に伝える事ができると、心で強く感じたんだ。
だから、このチャンスを逃したくはない。


願いは叶う、願い続ければ。それは大きな力となり、やがて俺と君の世界を変えていくだろう。
そうしたらこの日々も終わり、君と共に歩む新しい生活がきっと始まる。あと少しの辛抱だ。

遠くに居る香穂子へ語りかけるように・・・自分へも言い聞かせて。
落ち着きを取り戻した心でテーブルに置かれた名刺を見つめ、静かに想いに浸る。
強張っていた自分の表情がいつの間にか溶けているのに気が付くと、向かい側に座るヴィルヘルムもホッと安堵した微笑を浮べていた。


『運のいいヤツだって俺も昔さんざんやっかまれたけど、偶然は必然・・・運も実力の内だと俺は思うよ。いかに運命の女神に愛されるかどうかなんだ。それに値する人物かを、二人の女神はちゃんと見てるって事さ』
『二人?』
『運命を司る天上の女神だけじゃなく、地上で見守る愛の女神様が!』


学業や課題の合間に、自分なりに曲をアレンジして譜面に書き起こし、出来たものを弾きこなす・・・そんな事を十数曲近くこなす日々。俺の作品だから、誰の手も借りずに俺が手がけなければならない。出来なければ、とうていプロの演奏家などになれないのだから、これは俺の試練なのだと思う。

一分一秒を刻む時間は昔も今も同じなのに、気が付けはあっという間に一日や数ヶ月が経っていた。
遠くを見つつ、一つ一つをこなしていけば、時間はいくらあっても足りないくらいだ。


慌しい時間の中で香穂子と電話越しに語らうひと時が、俺にとって何よりもの癒しで、力を与えてくれる・・・。
明るい声と耳に感じる呼吸が、彼女の優しさと温かさを伝えて俺の中に広がり、泉の水が湧き上がるように心に潤いと輝きが戻ってゆく。明日への、確かな力となるんだ。


俺を導くのは天上にいる見えない女神ではなく、この地上にいて確かに存在を感じられる香穂子。
彼女の笑顔一つで俺は捕らわれ、君にささげる為にと導かれてゆくのだから・・・。



だが・・・・・・。

じっと見つめていた書きかけの五線譜から顔を上げると、一度息を吸い込み吐き出す呼吸に言葉を乗せた。
音の葉が紡ぎ出す声、つまりは自分の声に耳を傾けながら、揺らぎそうになる意思に炎を注いで叱咤する。


『大学の学生達だけでなく、香穂子にも秘密にしておきたいんだ。特に彼女だけには・・・』
『何だって? まだカホコに伝えてなかったのかい!?』


俺の口から出た言葉が信じられないというように、大きく瞳を見開き驚くヴィルヘルム。
テーブルを強く叩いて身を乗り出すと、言葉無く責める声を、静かに受け止める俺にぶつけてきた。