未来への鍵・8


長い空の旅を終え、空港まであと数十分のところで機内アナウンスが入り、時計の時刻を日本のものに合わせた。飛行機を降り立った瞬間にも感じた、空気の香りや濃さ、空の色などの違い・・・。入国審査を終えて荷物を受け取り出口をくぐると、一層確かなものになるのが空気の違いだ。ただそれだけなのに、帰ってきたという安堵感と君に会える期待が膨らんでくる。

一つに繋がる空は同じようでいても、こちら側と向こう側では違うんだな・・そんな発見にさえ心躍り足取りも軽くなる自分がいる。一つに繋がり溶け合うというのは、まるで俺たちのヴァイオリンのようだと思わないか? 
胸の奥で一際温かに灯るキャンドルの灯火は、君の声。空の向こうに香穂子を想い、何度も見上げ音色を飛ばした青空たちが、お帰りなさいと優しい微笑みで俺を包み込んでくれた。



『せっかく日本に来たばかりなのに、案内もしてやれずすまないな』
『レンはこれから、打ち合わせや取材があるんだろう? 予定のない俺は一足お先に自由時間って訳さ。ガイドブックもあるし、それに鼻の下には道があるって知ってるか?』
『鼻の下に?』

生まれ育った街にあるコンサートホールで下見や打ち合わせを終え、楽屋口に出ると俺たちの前に、配車を頼んだ一台のタクシーが静かに滑り込んでくる。開いた後部座席の扉から俺とプロデューサーのビンチックさんが乗り込むが、ヴィルヘルムは外で待ったままだ。扉に手をかけ、身を屈めながら中を覗き込み、伸ばした指先を鼻の下に当ている。鼻の下にある道とは何だろうか、鼻の下・・・新手の謎々だろうか。振り仰ぐ背中越しに照りつける太陽の眩しさと、分からない答えに眉を寄せていると、口元がにやりと悪戯に歪む。


『鼻の下には口があるだろう? 分からなくなったら誰かに聞くから大丈夫。決められたものだけじゃなくて、何事も臨機応変も旅の楽しみさ。俺の事なら心配しないでくれよな。レンやカホコの生まれ育った街、二人の音色の源。京都でニンジャを楽しむ前に、一度ゆっくり見たいと思っていたからちょうど良かった』
『君らしいな、まるで冒険家だ。日本語も不自由なく話せるから、あまり心配はしていないが・・・何かあったら携帯に連絡をしてくれ』
『おうっ! 携帯撮った写真を、レンにたくさん送りつけるから楽しみにしてくれよな。ところでレン、カホコにはもう会ったのかい?』


扉から離れたのを合図に発車を促しかけたところで、ふと思いだしたかのように再び車内を覗き込んできた。バックミラー越しに視線のあった運転手の急かす空気が伝るが、もう少しだけ待ってもらえるように頼み、手早く頼む・・・そう言ってヴィルヘルムを振り仰いだ。香穂子の名前を聞いた瞬間に、それまで平静だった心が落ち着き無く騒ぎ出すのを感じた。出来ることなら、今すぐ君の元へ会いに行きたいのに・・・そんな俺の心まで見抜かれないように。


『昨日、空港まで迎えに来ると思ってたのにな。久しぶりに再会の恋人達の隣で、俺はどうしたらいいのかと、飛行機の中でずっと考えていたんだ』
『いや・・・まだだ。到着した昨日は香穂子も大学やレッスンがあったし、今日もお互い予定があるからすれ違ってしまって。国や宗教が違えば祝日や休暇も違う、俺たちと香穂子が同じスケジュールとは限らないんだ。だが昨夜のうちに電話はした。久しぶりにたくさん話したし、数日したら落ち着くから、その時ゆっくり会う予定だ』
『帰ってきた、近くにいる・・・ただそれだけで満足していちゃ駄目だぞ。後に時間を作ろうと思って最初に詰め込みすぎると、夏みたく急に帰らなくちゃいけないときに後悔するんだからな』
『分かっている・・・ほら、君も街へ出かけるんだろう? 俺たちも次の予定があるから、もう行くぞ』
『あっ、おいレンってば・・・!』


そろそろ発車して良いかと急かす運転手に、お願いしますと合図を送れば、遮るようにタクシーの扉が静かに閉じてゆく。空いたままの後部座席の扉に手をかけたヴィルヘルムが、まだ何か言いたそうに頬を膨らましていたが、閉まる扉に数歩後ずさりつつ小さく溜息を吐いた。しかし僅かの後にはいつも通りな笑みを浮かべ、鞄をヴァイオリンケースを持ち、タクシーから離れたところで見送ってくれている。

会おうと思えば香穂子に会いにゆけるのに、近くにいながら会いに行けないもどかしさが、狂おしいほどに胸を焼き焦がす。夏に一足先にお忍びで渡欧した香穂子も、ワルツの散歩と称して俺の家の近を散策しながら、同じ思いを感じていたのだろうか。すまないね・・・と聞こえた声に我に返れば、隣に座るプロデューサのビンチックさんが、申し訳なさそうに微笑みじっと俺を見つめていた。


『謝らないで下さい、今俺にとって大切なのは音楽です。プロのヴァイオリニストになる道を求め進み、努力を続けること。目的を見失えば、それこそ信じて待っていてくれた香穂子を悲しませることになってしまう。待ってくれていると・・・この先の道が一つに繋がると、俺も信じていますから』


進む道は、光の先へ・・・。
心に宿る君の灯火を抱きながら、真っ直ぐ瞳を見つめて告げると、ほっと安堵の吐息が零れ笑みが生まれる。


緩やかに発車した窓の向こうでは、笑顔で手を振るヴィルヘルムと、コンサートホールが遠ざかってゆく。まだ留学前、星奏学院の二年だったときに、アンサンブルのコンサートやったのも、クリスマスイブでこのホールだったな。終わったときに二人で抜け出し、想いを交わしたエントランスホールの外が、楽屋口側から見られないのが残念だが。温かい幸せは、今でも胸の奥へ大切に宿っている。重ねる想いと音楽のがその灯火を大きく育てていくんだ。

コンサートを成功させ、君の隣へ並ぶのにふさわしい自分になって帰ってきたその時。
数年の時を経た同じ場所で、新たな想いと未来を、君に誓えるだろうか?



香穂子との思い出が詰まった懐かしい街を、静かにタクシーが走り抜ける。あの頃と何も変わっていない風景が懐かしく、蘇る君と過ごした思い出が嬉しくて。港に面した公園の脇を通り抜け、遠く目に映る大好きな海を眺めながら思う。人の想いは大地に染み込むというが、俺たちが過ごした日々や交わした想いも、この街の一つ一つにしっかり染みついているんだな。空の中から。日だまりよりも眩しい笑顔で微笑む香穂子に、瞳を緩めた。


「・・・っ、香穂子!?」
『レン、どうしたんだい?』
「運転手さん、すみません。止めて下さい!』


すれ違った一瞬がスローモーションのように止まり、ヴァイオリンケースを持った女性を、心が捕らえ焼き付ける。見間違うはずがない、あれは香穂子だ! 

スピードを落とす僅かな間ももどかしく、後部のガラスに身を乗り出して彼女を追うが、次第に人混みの中へ溢れてしまう。早く追いつかなければ、見失ってしまうのに・・・。タクシーが急停車すると同時に開いた扉から、考えるよりも早く駆け出ると、人混みをすり抜けながら、通り過ぎた石畳の歩道を真っ直ぐ駆け戻る。


車の車窓からはほんの数秒程度だったが、歩く距離にすると、だいぶ離れてしまっていたことに気付かされる。確か香穂子を見たのはこの辺り・・・と、一瞬脳裏に刻まれた記憶の場所で立ち止まり、切れた息を肩で整えた。
どこにいるんだ、君は。そう心の中で呼びかけ周囲を見渡すが、返事はなく姿はない。やはり追いつけずに、見失ってしまったらしい・・・。もう少し早く気付いていればと込み上げる後悔に、握り締める拳の力も強まってゆくばかり。

心に灯る、,優しい温もりが確かにいたという証だから、まだそう遠くへ行っていないだろう。きっとこの近くにいる香穂子を探し求めたい想いに焼かれ、今すぐにでも駆け出しそうになる。だが爽やかな潮の香りが混ざる秋風が、額に浮かんだ汗と火照りを冷まし、俺が今すぐに戻るべき場所を教えてくれた。走り抜けてきた道の先にあるタクシーへと引き戻すように、強い向かい風になって。

滞在は2週間だが、まだ二日目じゃないか。君と過ごせる日はこれからなのだから・・・俺はここにいると知らせる為にも、ヴァイオリンを奏で君に届けよう。吹き抜ける秋風を大きく胸に吸い込むと、待たせているタクシーへ踵を返した。