未来への鍵・7



どこまでも広く澄み渡る青空と、羊のようにゆったりと流れる白い鱗雲。運河を吹き渡る秋風が、太陽の光を受けて黄金色に輝く木漏れ日を揺らしていた。整然と続く石畳の遊歩道に、踊る木漏れ日とベンチに座る長い陰は、しっとり深まる季節の訪れを告げている。森の恵み、収穫の秋・・・。少しずつ染まる街路樹が煌めきを放ち始めれば、柔らかに包まれる小春日和の日だまりに、温かな君の笑顔と音色を想わずにいられない。

この街に暮らす人々にとって、心の豊かさをももたらす自然に身を浸すことは、日々の生活の一部だ。それだけでなく、愛しく誇りに思っているのだと実感できた。運河から凪ぐ冷たい風を受け止めながら振り仰げば、青空の色も季節で違うのだと分かる・・・黄色も赤も緑も全ての色が。こういうのは、香穂子が見つけるのが上手かったな。
そう想いを馳せれば、瞳を煌めかせて新しい発見に喜ぶ君が目に浮かび、いつの間にか頬まで緩んでしまうんだ。


こうして受け止めた全てが、俺の中で音楽になってゆく・・・君のように。
以前は自分という価値観の中でしかものが見えなかったが、香穂子に出会い恋をしてから世界が広がったと思う。いや、君というもう一つの目線で見ることが出来るようになったんだろうな。


『秋風はヴァイオリンが奏でる溜息に聞こえるそうじゃ。ヴァイオリンは心を歌う人の声。四季の中でも特に、物思いに浸る季節だからじゃろうかのう。人恋しい季節になったわい、ワシもカホコに会いたいのう。のう、ワルツ?』
『ワルツは大人しくなりましたね。少し前までは俺に吠えたり、鞄の中で暴れて香穂子を困らせていましたが』
『施設から引き取った時にはいつも震えていたんじゃがのう・・・元気になったらやんちゃぶりに、随分と手を焼いたわい。チワワは幼い頃に甘やかすと大人になっても臆病になったり、小さな暴君になってしまう。小さいからといって放任する事無く、正しく躾ければ良き家族になるんじゃよ。可愛い奴じゃ』


皺に隠れる目を愛しさに細め、運河の遠くを見つめていた学長先生が視線を戻し、足下へ大人しく座るチワワに語りかけた。言葉が分かるのか、伏せていた顔を上げたワルツが一声吠えた後に、寂しげな声で切なげに鳴き始める。お前もかねと優しく微笑んで身を屈めると、脚に鼻先を寄せてくる頭をそっと撫で、小さな家族を慰めていた。香穂子に会いたい、そう恋しく願うのは俺ばかりではないんだな。夏の太陽が去り冬への道を辿るように、誰もが日だまりの君を求めている・・・皆に愛されていた香穂子が誇らしく嬉しい。


『おっと、レンに返しそびれるところじゃったわい。貴重な一枚を見せてくれてありがとう。実は後でワシにもこっそり一枚もらえるように手配をしておるんじゃよ。話には聞いておったが実物を見たのは初めてじゃ』
『口止めをされているから内緒だと言われていたので、学長先生には黙っていようかと思っていましたが、いずれ伝わるなら早いうちに直接自分で伝えた方が良いと思ったんです。陰では一番力添えをしてくれたお礼もしたかった。本当にありがとうございました』
『礼を言われる程ではないよ。大切な弟子であり家族である君たちの音は、ワシにとっても宝物じゃ。貴重な音源は後世の為にも形へ残す必要があると思ったからヴィルの奴の企画に乗った・・・ワシの意志じゃ。ワシはこの音色こそ、多くの人々に聞いてもらいたいと思うんじゃがのう』


身を起こした学長先生が、ありがとうとそう言って俺の手に返してくれたのは、ヴィルヘルムが託してくれた世界でたった一枚のCD。見るのは初めてでも、もう一つのCDの存在は知っていたようで、手渡したときには嬉しそうに目を見開き、手の中を見つめていたのは、聞こえる音色にじっと耳を傾けていたのだろう。嬉しくて少しばかりの照れ臭さが、胸の奥を熱くするようだ。

たった一枚といえどもマスタリングも済まされ、曲ごとの頭出しや間隔が整えられており、市販のCDとクオリティーは何ら変わる事はない。いくらヴィルヘルムが話をもちかけプロデユーサーが納得しても、つまりは無償で二倍の作業となる壁は大きかっただろう。後でヴィルヘルムを問いただして聞いたところ、歴史に名を残す名ヴァイオリニストである、学長先生が働きかけてくれた力があったからだと言っていた。だからこそ、音楽で俺は・・・俺たちは答えなくてはいけないんだ。


『もうすぐ祝日と週末が重なる連休ですから、その前後に数日休みをもらって日本へ帰ります。コンサートの打ち合わせもあるのでヴィルヘルムも一緒に。まずは香穂子に会って直接俺の手で渡します・・・学長先生たちの気持ごと。彼女にまだ伝えてはいませんが、日本でのコンサート二日目のアンコールで、一緒に奏でたい曲があるんです』
『ほう! それは良いのう、きっとカホコも喜ぶ。想いを真っ直ぐに届ける・・・ただ君だけにと。さしずめこのCDはエンゲージリングじゃな、まるで皆の前でプロポーズのようじゃ。おっと、ワシもヴィルの口癖が移ったかのう』
『なっ、そういう訳では・・・。まだアンコールの件も香穂子から返事を聞いていませんませんし、まず集中すべきは音楽です。前にあるコンサートや卒業試験を終えるのが先ですから』
『ホッホッ、レンらしいのう。道の先で寄り添いたいとは、つまりそういう事じゃろう? 悪いことではないよ。人は皆一人では生きては行けない、どんな強い心を持ったとしてもな』
『・・・・・・!』


頬や耳に熱さが集中するのは、きっと赤い顔をしているのだろう。 理論としては分かっていても、改めて指摘されると照れ臭い。鼓動が激しく脈打つのは本当の事を射貫かれたからだろうか。恥ずかしさを理性で押さえながら、からかっているのかと強く正面から見据えるが、向けられる瞳は穏やかな優しさに満ちたものだった。

まずは落ち着こう。ふいと視線を逸らし一つ呼吸をすると、脚の上に置いたヴァイオリンが太陽の光を浴び、艶めきを放ちながら俺に語りかけてくる。今すぐ君へ伝えたい気持が溢れてしまいそうな反面、緊張と微かな不安に揺れる心。形のないもどかしさが息苦しさとなっていたが、木漏れ日と共に降り注ぐ微笑みに少しずつ和らいでくるのを感じた。



『ワシの周りにいる音楽家を見てみると、若いうちに早く結婚する者が多いように思う。音楽を通して精神的な繋がりを大切にする世界だからじゃろうかのう。結婚は足かせと感じる輩には無理に勧める事は出来ないが、ワシの実感としては心も音楽も豊かなになった。そのCDは、未来への鍵。君たちを幸せへ導く切符じゃと思う』
『未来への、切符・・・』
『愛されている実感だけでなく、愛するものが必要じゃ誰もが皆・・・想う心と相手が自分に大きな力をくれる。音楽を奏でる者の気持は音色となり、強いほどに真っ直ぐ届くんじゃ。以前カホコにもレッスンで、レンと同じ事を言ったことがある』
『香穂子にも? 先日学長先生が仰っていた、もっと恋をしろという、あの言葉をですか?』
『会いたくても会えないと、泣きそうにそうに瞳を潤ませてしまったから言葉を言い換えたがのう。愛は動詞、愛は行為。愛情とは、愛するという行為の結果生まれてくるものだとワシは思う。カホコはどうやって想いを伝えるのかねと・・・君の愛はどこにあるのかとそう訪ねたら、大切な人を想いながらヴァイオリンを弾くのだと、嬉しそうに瞳を輝かせておったよ』


音楽をやっている人たちは皆、音楽を愛している。奏でるほどにその愛も深まるし、同じ曲でもいろいろな発見があれば世界が広がり、愛しさも一層深まる。支えているのはいるのは、自分には音楽があるのだという信じる気持だ。ヴィルも言っていたように、精神的にも肉体的にも演奏には演奏するのは大きな力が必要だが、その源はまさに愛する気持そのもの。

弦に心の旋律を乗せて奏で会う、ヴァイオリンの音色は心の声。君の想いは・・・伝える愛は、俺と同じくヴァイオリンにあるんだな。嬉しい、そう想う胸の奥で君が咲かせた小さな花が花が微笑み、日だまりで包んでくれた。遠くにいても感じる香穂子の温もりを灯し、すぐ傍にいる息吹と愛すべき無邪気さを伝えながら。


『音楽の道は果てしなく遠い。卒業しても勉強を続け、多くの経験を積まなければいけない自分との戦いです。寄り添った道の先に、香穂子が着いてきてくれるか・・・不安がなかったといえば嘘になります。だが俺が思うよりも、ずっと彼女は強い』
『音楽に溢れた生活は一生変わることはない。音楽に関わり続けたい・・・どんな時も自分を信じる、その信念に対応できる力が君たち二人にあれば幸せへ導かれてゆくじゃろう。何かに努力を続けられることこそが、最大の才能じゃ。己と、そして大切な想い人を信じるままに進みなさい』


愛は動詞、愛は行為。愛情とは、愛するという行為の結果生まれてくるもの・・・。
レンの愛はどこにある? そう真摯に訪ねる学長先生の眼差しを受け止め、自分の心に問いかけた。


俺の答えですと、そう真っ直ぐえてヴァイオリンを持ち、腰を降ろしていたベンチから立ち上がった。
石畳の遊歩道を進み、運河沿いの欄干に来ると水面に背を向けてヴァイオリンを構え、Aから順に調弦を始める。アンコールは後ほどにと告げていたから、まだ帰らずに運河沿いへ残ってくれている人たちへ曲を奏でなくては。俺の演奏を待ってくれている人がいる・・・それだけで嬉しさが込み上げ、心に灯る熱が指先へと伝わるんだ。


集まる人々を感謝を込めて見渡すと、閉じた瞳に浮かぶのは、港を望む懐かしい公園。運河沿いの遊歩道にいながら、君と同じ場所で海を望むんだ。隣に視線を向ければほら、俺と同じようにヴァイオリンを奏でる香穂子がいる。
香穂子、俺の声が・・・ヴァイオリンが聞こえるだろうか? さぁ、俺と共に奏でよう。

弦に弓を静かに乗せて奏でれば、羽ばたく音色が距離を超えて俺たちを繋いでくれる。
肩越しに視線を送れば、光に包まれ楽しげに俺を振り仰ぎ、ヴァイオリンを奏でている君がいた。
ヴァイオリンを奏でれば、いつでも君に会える・・・会いに行ける、音楽という二人だけの場所へ。


俺の愛、君への誓い。俺はヴァイオリン奏でよう、君へ向かって。
想いを込めて奏でた音色の先に生まれるものが、俺たち今・・・そして未来なのだから。









『おーいレン、待ってくれよ! レンってば!』
『・・・・・・』


出発便や登場時間を知らせるアナウンスが、絶えず流れる空港のロビー。この場所へやってくるのは少し前の夏の日に、予定を早めて帰国をした香穂子を見送りに来て以来だな。大理石のタイルも壁も白い無機質で覆われ、開放的なガラスから溢れる光・・・空の港そのものが、まるで雲の中のようだと思えてくる。

空港を訪れると感傷的になるのは、胸に秘めた様々な出来事が蘇り、過ぎ去ったいくつもの思い出が蘇るからだろうか。寄せては返すさざ波のように、喜びや期待、そして時には切なさも。久しぶりの再開とつかの間の別れを、あとどれほど繰り返せば良いのだろうか・・・。音楽を極める道は果てしないが、君を求め寄り添う道の先は、きっともうすぐだと信じたい。


カウンターでチェックインを済ませた後に荷物を預け、出発ゲートへ歩いていると、背後からヴィルヘルムが追いかけてくる。ふいに消えたと思えば愛用のコンパクトなデジカメで写真を撮ったり、俺にシャッターを押させたりと、先ほどから落ち着きがなかった。きっと嬉しいのだろう。だがこのままでは、付き合わされる自分が容易に想像できるだけに、日本へ帰ってからが心配だ。

ヴァイオリンケースを肩に背負い直し、立ち止まって小さく溜息を吐いて振り向けば、拗ねた子供のようにヴィルヘルムが唇を尖らせている。


『レン! 怖い顔して、さっさと先に行かないでくれよな。このままじゃ俺、日本へ着いたら真っ先に迷子になっちまうよ』
『そう思うんだったら、余所見をしたり立ち止まったりせず、大人しく着いてくるんだ。学長先生だって、待っているんだぞ』
『カホコだったらどんなにきょろきょろしても、蕩けちゃう微笑みで見守っているくせに。ちょっとくらい良いじゃないか〜。俺の初日本旅行、記念すべき第一歩なんだからさ。あっ! 出発ゲートを背に、一枚写真取ってくれないか?』
『ヴィル・・・いい加減にしてくれ』


俺の手の平にデジカメを託し、これから出発するゲートを前にポーズを決めている。人通りも多いのに、なぜ恥ずかしくないのか不思議でならない。むしろ俺の方が、周囲の視線が気になって仕方がないというのに。早く撮れとせがまれ眉根を寄せるしかない。かしてごらん?そう隣からから穏やかに声をかけた学長先生が、代わりにヴィルヘルムの写真を撮れば、俺を見て堪えきれない小さな笑いを零している。


『ほれヴィル、カメラじゃ。これから出発の図、男前に撮れたぞい』
『ありがとう学長先生。おっ良い感じ!旅行会社のポスターみたいだよ。モデルもだけど、カメラマンが良いからなんだろうな』
『一人では飽きたらず、一緒に記念写真を撮ろうなどと、レンをあまり困らせてはいかんぞ。ワシはお前さんが一番心配じゃ』
『大丈夫だって、俺だってもう大人なんだし。今回はプロデューサーのビンチックさんもいるし。レンとカホコの邪魔だけはしないようにするからさ』
『学長先生、すみませんでした・・・俺がためらっていたばかりに』
『いや、レンが気にすることはないよ。あれでは目立ちすぎるからのう。久しぶりにカホコへ会うのなら、二人っきりにさせてやりたいのが親心なんじゃが・・・。むしろ世話をかけてすまんのう、ヴィルを宜しく頼む』


大人ならもう少し静かにせんかいと、ヴィルを諫める学長先生は、肩をすくめ困ったように笑みを浮かべた。まだコンサートの本番ではなく、会場の下見やプロモーションと言った活動の為だから、僅かな日数で帰国してしまう。見送りはいらないと前に言ったが、荷物があるなら車が便利だろう、散歩のついでだとそう言ってワルツを助手席に乗せて。俺たち二人を家まで迎えに車でで拾いつつ、空港まで送り届けてくれた。

本当は出発当日に渡したいものがあったんじゃよと、悪戯な笑みを浮かべると、持っていた紙のショッピングバッグを俺に託してくる。中には一冊のアルバムと、焼きたての温もりと香ばしいバターが漂うギンガムチェックの布包み。この香りは香穂子が帰国する時や、学長先生の家に伺ったときに覚えがあるな。ということは、婦人が焼いた手作りのケーキなのだろうか。


『これをカホコに渡してくれんかのう。アルバムには最近のワシや妻、カホコが面倒見てくれた庭の花たちが映っておる。もちろん大きくなったワルツもな、実は同じチワワな嫁さんを最近もらってのう。アルバムの後半は、ほとんど犬の写真集じゃ』
『そうだったんですか、ご家族が増えて賑やかになったんですね。香穂子が知ったら、会いたさに帰りたくなるかも知れませんね。この包みは奥様が作ったクーヘンですか?』
『そうなんじゃ、レンはさすがじゃのう。妻の手作り菓子の中でも、カホコが特に気に入っていた料理じゃ。常温で保存が利くから持ち帰りに関しては、安心してくれ。大きいのはカホコとご家族へ・・・脇にある青い小さな包み二つは、レンとヴィル用じゃよ。長いフライト中に、口寂しくなったら食べなさいと妻が言っておった』
『ありがとうございます。大切に頂きますと、奥様にお礼を伝えて下さい』
『クリスマスの公演には、ワシも妻も日本へ行くつもりじゃ。楽しみにしておるぞい』


両親と慕うお二人から、遠く海を離れた娘への贈り物・・・手渡したときに、香穂子の喜ぶ笑顔が目に浮かぶな。
俺たちの乗る便の搭乗が、まもなく始まるアナウンスが響き渡り、ヴィルヘルムと二人で挨拶を交わす。
一人の音楽家として恥じない行動と心構え、そして演奏を。俺たちの瞳をそれぞれ真摯に見つめながら、心の奥へ真っ直ぐ届ける師からの言葉を胸に刻み、新たな旅立ちを見送られながら、出発ゲートをくぐり抜ける。



飛行機が滑走路を駆け抜ける加速度が、胸を押す重みとなった後にふわりと軽く浮き上がれば、鼓動が大きく跳ねて空気が変わった。もうすぐ、君に会える・・・音色だけではなく、この身を風に乗せて会いに行ける。