未来への鍵・6




----------蓮くん?


海の見える公園でヴァイオリンを弾いていた香穂子は、演奏の手を止めるときょろきょろ周囲を見渡した。優しく頬を撫でるそよ風に乗って今、蓮くんの声が聞こえた気がする。微笑む蓮くんが、そっと私の頬を包んでくれるように。

すぐ傍でヴァイオリンを弾いている気配を隣に感じたから、帰ってきたのかと期待をした喜びが胸一杯に膨らんだ。でも現実に引き戻されて心がしゅんと萎んでしまい、ここにはいなと分かってた筈じゃないと、悲しむ自分に言い聞かせた。寂しくても泣いちゃ駄目だよ、だって奏でるヴァイオリンが私の涙や寂しさまでを伝えてしまうから。


会いたい・・・蓮くんのヴァイオリンが聞きたい。せめて音色に乗せて心を飛ばしたいと、遠くにいるあなたを想いながら弾いていたから、願う心が見せた空耳だったのかな? うぅん、違うよ。

弓を持っていた右手を胸に当てると・・・ほら。心の中に残る譜面が温もりを灯し、優しい音色が微笑んでくれるのが分かるもの。蓮くが私の為に作ってくれた曲、真っ直ぐ私に届いたEteruino.。想いを込めて弾いてくれた一つ一つの音を大切に辿ってゆくと、彼の声が聞こえてくるの。だから私も真摯に向き合って、楽譜に刻まれた想いの欠片を胸一杯に集めたら、大きな光に私の気持を詰め込んで届けなくちゃ。 


空を振り仰ぎ、強く照りつける海辺の日差しに目を細めた香穂子は、空と海が溶け合う水平線の遙か遠くを、見つめていた。ありがとう、いつも見守ってくれているんだよね。どこにいてもあたなを感じるから、一人じゃないんだって思えるし、時間や距離を超えて届く優しさに、頑張らなくちゃって元気が沸いてくるの。


呼びかけられる声にはっと我に返り、いつの間にか閉じていた瞳を開けると、演奏を聞きに集まってくれた人たちが心配そうに見守ってくれていた。大丈夫ですと笑顔で返すと、もう一度ヴァイオリンを構えた香穂子は微笑みを浮かべて、自分を包む青い空と海を肩越しに振り返った。


「蓮くん・・・」


弦に弓を滑らせメロディーを奏でればほら、蓮くんと私で心の二重奏になるんだよ。
奏で合う二つのヴァイオリンは、私たち二人だけが使える、心の糸電話なんだよね。
聞こえたよ、蓮くんのヴァイオリンが・・・私の音色も届いたかな? 






香穂子を思い描きながら奏でるヴァイオリンの音色が、中世の面影を残す石造りの建物と緑に囲まれた運河へ溶け込んでゆく。街の景色や緑や音楽やなど・・・時を得ても変わらない佇まいでありながら、新しい姿を見せるものたちのように。日々を重ねるほどに変わらぬ君への想いも、更に強く深みを増してゆくように思う。

澄んだ青空に映る運河の水面を輝かせているのは、降り注ぐ太陽の光だけではなく、そこで営む人々の想いや生活の営みだと誰かが言っていた。君への想いを乗せて音色と一緒に溶け込み、運河の水と広い空へ捧げ奏でながら、いつしか自分も大きな流れに溶け込んでいたのだろう。向かう先は、ただ一人、大切な君へ。


君を想う、幸せなひととき。心に刻んだ声と音色を何度も再生するごとに、愛しい気持と会いたい気持が募ってしまう、だからもう一度ヴァイオリンを奏でたくなるんだ・・・何度でも。信じられるものがあることは、とても幸せなことだと君は言っていたな。俺もそう思う。君がいる、待っていてくれていると思うと心が強くなるから。

それは自分が自分にかける魔法。だけども小さな幸せが俺たちに、夢を叶える力と笑顔をくれるんだ。


「・・・香穂子!?」


曲の世界に深く集中し終えた後は、意識がすぐ現実に戻りきれなくなる事がある。ここがどこなのか・・・なぜ香穂子がいないのかと一瞬混乱したのは、ヴァイオリンを奏でている間ずっと、隣に香穂子の気配を感じていたからだ。

君と良く一緒に練習をしたり休日に散策をした、海の見える懐かしい公園で、君と俺は同じこの曲を奏でていた。きっと香穂子も俺と同じ時に、同じ曲をヴァイオリンで弾いていたのだろうか。重ね合う想いと音色が奇跡を呼び、時と心の扉を開き、俺たちを出会わせてくれた・・・そんな気がする。離れた場所でも空間を繋ぎ合う二重奏は心地良くて、ずっとこの甘さに浸っていたいと、そう思えた。


秋の気配を漂わせる冷たい風が運河を吹き渡り、靡いた前髪を書き上げれば、火照った頬を落ち着かせるように包み込んでくれる。胸に灯る日だまりの優しい温かさは、俺の中に香穂子が確かに宿る証。内緒話のようにそっと耳に唇を寄せ、くすぐったい吐息を吹き込む彼女の声が、「蓮くん」と笑顔で俺を呼ぶ。


「Bravo!」
「・・・・・!」


蓮くんと笑顔で呼びかける君の声に、微笑みを返しながら音色の余韻に身を浸し、少しずつ水面に浮上する魚のように。集中していた音楽の世界から現実に戻りながら、持っていた弓を静かに降ろすと、背後から歓声と拍手が沸き起こった。じっと水面を見つめ、香穂子の事だけしか頭になかった意識が一気に引き戻されれば、すぐに状況が掴めず混乱するばかりで。はっと後ろを振り返れば、いつの間にか多くの人が遊歩道に集まり、音色に耳を傾けてくれていた事に気付く。


まさか人が集まるとは思っていなかったら、背を向けたままなのが申し訳ない。良い演奏だったという感想から、初めて聞くけどどんな曲なのか、君は誰なのかという質問まで・・・拍手と共に贈られる言葉たち。頬へ熱さを募らせながら
「Danke」とそう礼を言い、ぐるりと囲む人たちを見渡せば、ちょうど正面にいる見知った人物に目がとまった。


いつもこの人は、予想もしないタイミングで驚かせてくれるんだなと、苦笑する俺に笑顔を浮かべた白髪の老紳士は学長先生だった。音大やレッスンの時にはスーツ姿が多いが、休日とあってTシャツにジーンズとカジュアルな服装だ。

そしてワン!と甲高い犬の鳴き声に気付き足下を見れば、薄い茶色のふさふさした毛並みを靡かせたチワワも駆け寄ってくる。香穂子と散歩をしていた頃には、鞄に入ってしまうくらい小さな子犬だったのに、今では倍くらいの大きさになっていた。俺の脚に元気よく飛びつく赤い首輪を付けたチワワに膝を折って頭を撫でると、手の平にすり寄せる黒く小さな鼻先がくすぐったい。

非常に大胆で勇敢な面があり、小さな体格ながら大型犬などにも臆せずに対峙する。喜びを全身で表すようにぱたぱたとしっぽを振り、大きな瞳で真っ直ぐ見つめる無邪気な姿も、ますます香穂子に似てきたなと思う。


『学長先生・・・こんなところで会うとは珍しいですね。ワルツと一緒に休日の散歩ですか?』
『まぁそんなところじゃよ。本当は家の近所を回る予定だったが、こやつがすっかりカホコの散歩コースを覚えてしまってのう、地下鉄に乗りたいと賑やかに騒ぎおる・・・。降りたら公園で焼きソーセージ屋台まで走り、そしてこの運河へ釣れられてきたんじゃよ。そういえば、途中でレンの家の前も通ったぞ』
『そうでしたか、香穂子は散歩のついでに俺の家にも立ち寄っていましたらから、覚えていたのでしょう。彼もきっと、香穂子と過ごした日々が懐かしくて、残っている気配や想いを少しでも感じ取ろうとしているのかも知れませんね』
『ワルツが教えてくれたお陰で、レンの素敵な演奏を聞くことが出来たわい。いや、レンだけでなくカホコの音色もな』


学長先生が呼べばぴくりと身動きしたワルツが俺の脚を離れ、いそいそと学長先生の元へ駆け戻ってゆく。そこをすかさずアクセサリーのように首へぶら下げていた、コンパクトなデジカメのシャッターを押していた。何をしているのかと質問したら、大きくなったワルツの写真を撮って香穂子へ贈るのだと、嬉しそうにカメラを構え、ついでにと俺にまでファインダーを向けてくる。


多くのチワワは彼らの愛情を一人の人間に集中させる傾向があり、誰にでも愛想良く振る舞う性質でない事が多い。反面主人の他の人との人間関係や他の犬を可愛がる事にやきもちをやくケースも見受けられるそうだ。この子蓮くんに似ていているんだよと、抱え持った子犬を俺の鼻先に寄せたときに、妙なライバル感を覚えたのは俺だけでなくこのワルもだったのだろう。

以前は俺もワルツにはだいぶ焼きもちを焼かれたが、すっかり懐いてくれたのは家族と同じように認めてもらえたのだろう。香穂子のお陰だと思わずにいられない。それとも奏でたヴァイオリンが運んだ、香穂子の温かさを敏感に感じて、喜んでいるのかも知れないな。


『この運河沿いの公園でヴァイオリンを弾くときに、レンはいつも、遊歩道に行き交う人へ背を向けて運河や空に向かって奏でていると・・・その音色を一度聞いて欲しいと、君のプロデュースをしているビンチックが言ってた通りじゃな』
『ビンチックさんが、学長先生にそんな事を仰っていたんですか』
『なぜ人に背を向けて弾いておるのかと最初は不思議じゃったが、なるほど。今日も海の向こうにいるカホコを想いながら奏でていたのかね。』
『えっ、いや・・・その・・・』
『レンは正直だからすぐ音色で分かるんじゃ。収録やレッスンの張り詰めた緊張感とは違い、ヴァイオリンの音色やレンの表情がとても甘く柔らかだったから、ついワシまで嬉しくなってしまった。レンだけではなく、音楽に携わる奏者は皆同じじゃよ。もちろんワシもな』


素晴らしいテクニックだけでなく、想いのこもった音色が心をふるわせる。ワシやワルツがヴァイオリンに惹き付けられ、いつもと違う運河沿いの公園に来たように、通りすがる人が脚を止めて聴き入るんじゃよ・・・と。俺のヴァイオリンを聞きたいと遊歩道に集う皆の方も向いて欲しいと、穏やかな笑みを向けた学長先生は、悪戯な瞳で注文をしてきた。


『レン、もし時間があったら座って少し話をせんかね。ずっとこのワルツに引っ張りまわされて走り通しだったんじゃよ』
『構いません。すぐ傍のベンチが空いていますから、そこへ行きましょうか』
『アンコールが演奏を中断させて申し訳なかったのう』
『話が終わったら、また後で演奏すると約束しました。それに俺も、お話したいことがありまたから』


楽譜と鞄の置いてあったすぐ傍のベンチを示すと、一足先に駆けだしたワルツを追って学長先生がベンチに向かい、腰を降ろした。追いかけようと脚を向けたところで呼び止められ、もっとヴァイオリンを聞きたいと、アンコールを願う人たちに、心からの感謝を伝え、また後で演奏すると約束をした。


老体には体力の限界だと眉を寄せる学長先生は、ポケットからハンカチを出して額に浮かぶ汗を拭っている。学長先生の足下に、チワワのワルツが伏せていた顔を上げて俺を見るが、何もなかったように大人しく丸くなっていた。
首輪は付けているが、リードまでは付けていないのは、犬を大切にする愛情だけでなく厳しいしつけの現れだろう。
鞄の中から無邪気に暴れていた頃しか知らない香穂子が見たら、成長した姿にどんな顔をして喜ぶのか楽しみだな。


香穂子の散歩コースを毎日歩いたら若返りそうだと、渋いながらも嬉しそうな学長先生に緩めた瞳をで微笑むと、ベンチに置いてあった鞄の中から一枚のディスクを取りだした。俺と香穂子の演奏が詰まった、世界でたった一枚のCDを。