未来への鍵・4


芸術家やジャーナリストたちが、議論や情報交換を行う社交場として花開いたカフェ文化。一つ一つのカフェに物語があるように、この音楽大学のカフェにもそれぞれ物語があるのは、昔も今も同じだ。かつて芸術家たちが語り合ったように、歩み始めた道の更に先を目指し、俺たちも音楽を深く語り合いそして奏でる。 一杯のコーヒーで何時間も気兼ねなく過ごせるから音楽も、そして想いを馳せる君のことも深く考え胸に刻む事ができるんだ。


香穂子が初めて俺の留学先を訪ねてくれた冬に、学長先生の許可をへて大学内を案内した時も、俺が気に入っているこのカフェで君と向かい合いながら過ごしたな。そして今はまた、他のテーブルと同じように、俺たちの新しい物語が生まれようとしているのだろう。




店内の天井は高く開放感があり、ユーゲントシュティールと呼ばれる装飾が、品の良い静けさの中に小さな華やかさを添えている。二色に分かれた壁は床に近い半分がダークオークの樹が覆い、天井に近い半分を明るいクリーム色が優しさを描き出していた。不思議と感じる穏やかさは、薫り高いコーヒーに新鮮なミルクが混ざるような感覚に近いかもしれないな。かつて作曲家たちがどんな思いで曲を作ったか・・・その当時に返って窺い知ることはできないが、古き良き時代を留めた近い空間に身を浸せば、魂が近づけるのではと・・・そんなふうにも思える。



ヨーロッパ二都市と日本で二日間行われる、ヴァイオリニスト月森蓮として初めてのコンサート。最終日に当たる日本の公演はちょうどクリスマスイブに香穂子の暮らす街・・・俺の故郷であるコンサートホールで予定されている。曲目や演奏順を互いに意見を出し合う中で、ピアノ伴奏とヴァイオリンの二重奏を引き受けてくれるヴィルヘルムは、愛の挨拶を最終日のアンコールに。CDへ密かに収めたように香穂子と俺の二重奏でと提示をしてきた。


ヴァイオリニストとして初めて故郷で行うコンサートを、共に夢を掴んだ香穂子に聞いてもらいたい・・・ただそう願っていたけれど。もちろん俺だって、心の片隅で考えなかった訳ではない。香穂子と同じステージに立ち、もう一度奏でられたらどんなにか幸せだろうかと思う。

駆けだしたばかりの俺の願いが、聞き届けられるのかどうか・・・それ以前に俺自身がコンサートを成功させなければと。心に降り注いだ一滴の不安は、雨雲のように広がり想いを留めてしまっていたらしい。いつの間に周りが見えず、自分だけで精いっぱいになっていたのだろうか。暗雲を破った光が、心の中にある偽りない気持ちを思い出させてくれた。音楽は追い求め続けるものだ、これまでだって壁を残り超えてきただろう? 常に自分の殻を破り続けてこそ、新しい音楽が生まれるのだから。




「クリスマスイブか、そうだったな・・・すっかり忘れていた」
『レン・・・?』


自分自身へ言い聞かす独りごとのような、日本語の呟きを拾ったヴィルヘルムが、癖のあるブロンドの髪を揺らし、不思議そうに首を傾けた。小さく頬笑みを返すと青い小瓶を手に取り、すっかりガスが抜けてしまったミネラルウォーターを、氷が溶けてしまったグラスへ注ぎ入れる。煌めく水の流れが、窓から差し込む光と混ざり合い、眺めているだけで不思議と心が潤い落ち着くようだ。


まだ俺たちが、星奏学院の二年だった冬の記憶が脳裏に蘇り、音色と温かな想いがその時のまま満ち溢れてくる。アンサンブルのコンサートを成功させた後に香穂子へ想いを告げ、二人で愛の挨拶を奏でたのもクリスマスイブだったな。あの時と同じコンサートで、同じ日に奏でる愛の挨拶は、俺たちにとって新たな始まりになるに違いない。


透明なグラスの中に浮かぶ甘い記憶と音色の波に身を浸せば、君が笑いかけているような心地良い沈黙が支配する。じっと押し黙る俺を見つめていたヴィルヘルムは、テーブルに乗り出していた身体を起こし、椅子の背にゆったりともたれかかった。我に返って視線を上げれば、静かに頬笑みを浮かべていた。


『話は変わるけど、レッスンはどうだった? 講義棟の部屋に入ったら、俺たちの先生でなく学長先生がいるんだもんな。時間か部屋を間違えたのかと思ったよ。でもまさか、学長先生直々のレッスンとは驚いたよな』
『学長先生に聞いたらコンサートが近いから特別に、ということらしいな。俺は君の後だったから、すれ違った扉の前で話に聞いて驚かなかったが。だが俺の曲を聴いた学長先生が、もっと恋をしろと・・・そう言っていた。冗談なのだろうかと思ったが、音楽は感情を必要とする場面が多い。恐らくそういった意味だと思うが・・・』
『へーっ、恋をしろってね! あの学長先生らしいや。例えば優しさや愛しさが生む温かさだったり、熱く激しく暴走する感情、時には切なさも・・・。恋しく人を想う心はいろいろな感情を俺たちにくれるよろうな。その想いや景色が自分の音楽を作り出すんだ。レンの中でカホコが足りないって言いたいのかな、もっと恋した方がいいと俺も思う』
『・・・は!?』
『音楽をやっている人たちはみんな、音楽を愛している。音楽に恋していると言ってもいい。もちろん俺もだ、連もそうだろう? 演奏する時には肉体的にも精神的にも、凄いパワーが必要だ。そのパワーの源は、愛する気持ちそのものだと俺は思う。レンの音楽とパワーの源は、海の向こう側で待ってくれている、カホコだろう?』
『・・・・・・』


浮かべた笑みを引き締め、最近疲れているんじゃないのかと。電話口の香穂子やレッスンの学長先生にも言われた言葉を彼も告げると、神妙に眉を寄せながら両肘をテーブルに付き、再び身を乗り出してくる。診察をする医者のような眼差しから逃れようとして顔を背けると、小さな溜息が漏れ聞こえた。視線を逸らしたのは本当だと言葉無く告げる返事と同じだと、気付くのは遅かったが。なぜ俺の身近にいる者は皆、隠そうとしている奥まで見抜いてしまうのだろう。意識はしていないものの、そんなにはっきり表情や音色に表れているのだろうか。


音楽に恋をする・・・か。奏でるほどに様々な発見があり、曲に対する想いが深まる。
もっと知りたい、自分のものにしたいと願うのは、大切な人に対する時と同じだな。
君の事をもっと知りたいと願い、知るだけでは収まらず触れたくなって、やがて手放せなくなるように。


音楽と恋愛が一本の線で繋がっている深い関係があるのだと、学長先生やヴィルは至極真面目に語っている。オーケストラとの共演で特にオペラなど、指揮者からそう言われることもあるという。香穂子と出会う前の俺なら眉を寄せていただろうが、確かにそうかも知れないと・・・素直に受け止めた心へ、水のようにストンと染み込んでゆく。
君に恋して俺も音楽も変わったし、俺たちは音楽の絆で結ばれ繋がっていると信じているからだと思う。


共有する話題もたくさんあるし、時には反発し合うこともあるけれど。互いに支え競い合いながら近づけ合った、かけがえのない存在だ。音楽に恋をするという事は、つまり君に恋をする事。心は音色と一つになり、君の心へ真っ直ぐ届くのだから・・・。

香穂子、君に会いたい。今すぐに会ってこの腕に抱きしめ、温もりを感じたい。
会いに行くという小さな約束を守り、愛する気持ちを行動で示したら、俺の音楽はまた変わるのだろうか。


『さて・・・と、じゃぁ今日はこのくらいにしておこうか。すまないけど、これからレッスンが入っているから、俺はそろそろ失礼するよ』
『君のレッスンは、さっき俺の前に終わっただろう?』
『ヴァイオリンじゃなくて、次はピアノのレッスンさ。コンサートではレンの伴奏もするから、ピアノ科の先生に演奏を見てもらっているんだ。レンのヴァイオリンに恥ずかしくないように、でも俺らしく最高の演奏で望みたいからね』


両肘と手の平で支えながら、俯くようにダークオークに艶めくテーブルを見つめる前髪が表情を隠す。さて行きますか・・・と一言呟いたヴィルヘルムは一拍の間をおき、俯いた身体を勢い良く起こした。テーブルの上に広げたノートやガイドブックをまとめ出し鞄に片付けると、手をあげてギャルソンを呼び、自分の会計を手早く済ませてしまう。


『我儘を言っている事は承知だけど、俺の案も考えてくれないか? 今すぐに答えを出せとは言わないよ。プロデューサーやコンサートスタッフとの打ち合わせまで、まだ少し日があるから。俺はこの意見を通して実現させる自信がある、その力をくれたのはレンやカホコの音楽だ。周りの大人たちを納得させるための議論には負けないつもりさ』
『・・・わかった、考えておこう』
『相手を想って贈り物を選ぶのも良いけれど、自分がもらって嬉しいものを選んで、二人で一緒に楽しみを分かち合うっていうのも一つの方法だろう?』
『そうだったな。だからCDに収めた曲たちの譜面を、自分でアレンジした手書きで送ったんだ。かつて学長先生が贈り合った譜面を今でも大切に二人で奏でているように、俺たちもそうありたいと思ったから。コンサートも同じということか』
『大切なスタートだから失敗は許されない、その気持ちは演奏家として良く分かる。だけど、やっと掴んだ扉の入口だからせめてアンコールで、ずっと支えてくれたカホコと新たな一歩を踏み出してもいいんじゃないか? カホコへとびきり大きなプレゼントだ、レンや俺にとってもね』


君にも?と問い返す俺に悪戯な光を潜め、どこか懐かしそうに遠くを見つめる眼差しへと変わった。ブルーグリーンの瞳は、ここにはない大切なものを想い愛しんでいるのだと、触れる心が教えてくれる。癖のある長く伸びたブロンドの前髪の奥に映るのは、香穂子が海を越えて俺を支えてくれたように、彼を遠くの空から導き心の中で支えた、大切な光。


『俺が蓮の立場だったら、誰よりもまず最初に、信じて待ってくれた大切な彼女にありがとうを伝えたいから。俺にとっても記念すべきデビューな第一歩だからな。留学していた彼女が事故にあってから、ロシアの上空を飛行機で通過した事はなかった・・・。ヨーロッパから日本へは、ロシアの上空を経由していくんだろう?』
『ヴィル、君は・・・』
『いつまでも足踏みしている俺を心配していたら、ゆっくり休みたくても休めないよな。俺にも、音色を届けたい人がいるんだ・・・クリスマスプレゼントとしてね』
『まずは自分たちがどう楽しむかだな、真剣にそして温かく。その想いは必ず音となって聴衆へ伝わるだろう。お互い、悔いのないよう最高の演奏をしよう』
『アンコールでのピアノ伴奏は引き受けよう。あ、でも二人っきりでヴァイオリンの二重奏が良ければ、もちろん俺は邪魔しないけどね』


どちらでも大歓迎さと、そう言って人懐こい笑みを満面に浮かべた。つられて自然に緩む頬と口元で笑みを返すと、ヴィルヘルムは静かに椅子から立ち上がり、床に置いてあったヴァイオリンケースを背負った。店の入口に向かって歩きかけたところでふと思い出したように立ち止り、鞄から透明なケースに入った1枚のCDディスを慌てて取り出した。

表面に何も書かれていないCDディスクを手に取り、これは何かと問う俺に、悪戯を企むときのような笑みを浮かべている。未来への切符で扉を開く鍵だとそう告げて、どう使うかはレンに任せると。これが何なのか分かる楽しげな彼には、まるで俺の未来が見えているようだ。中身は聞いてからのお楽しみという事は、データディスクではなく音楽のCDなのだろう。

手の中にあるディスクから視線を上げて、テーブルの脇に佇むヴィルヘルムを見ればもう姿はそになくて。俺が問うよりも早く、肩越しに振り返り小さく手を振りながら入口に向い、扉の外側へ消えていった。