未来への鍵・3



ヨーロッパの季節は春と秋が短く、夏と冬に大きく分けられる。9月までを夏と考えるから10月は秋、そしてサマータイムの終わった11月からは長い冬が始まる。朝晩に感じる空気や水が凛と澄み渡り、どこまでも高く広がる空・・・。街中や音楽大学の構内も赤や黄色に彩られ、少しずつ色づく木々が鮮やかさを増すに連れて、最も美しい季節の訪れを高らかに歌い上げていた。だが満開に咲かせた桜があっという間に散るように、黄金色に輝く秋もまた短い。


悪戯に吹き抜ける風に目を細めれば、空へ羽ばたく落ち葉たちがワルツを楽しげに踊っている。まるで無邪気な君が、踊りましょう?と俺を誘うように。ふと見下ろす足下の陰がいつの間にか長くなり、バカンスの頃よりも短くなった日照時間に感じるのは忍び寄る冬の足音。雪と厚い雲に閉ざされた厳しい冬が近付けば、君という太陽を求め気分が重くなりがちだったのに。早く冬になって欲しいと、寒い季節を待ち遠しく思える自分に驚いてしまう。


演奏家にとって冬はコンサートの季節でもある。今までと違うのは実際に自分でステージに立つことが多くなった事だろうか。CDの発売に合わせて俺もコンサートツアーが数カ所で予定されており、ドイツとウイーン、そして最後に日本で二日間。俺とヴィルヘルムの学業へ差し障りが無いように休暇の時期を選んだから、日本でのコンサートはちょうどクリスマスに予定されていた。そう・・・香穂子へまだ伝えていないが今年のクリスマスは、俺が日本へ戻り君と共に凄そうと、そう心に決めていたから。




秋から始まった冬セメスターは、途中で3週間ほどのクリスマス休暇を挟み1月の終わりまで。春になれば卒業試験が始まるから、今のセメスターの間に最後の必須授業を全て取らなくてはいけない。学業の合間に録音やコンサートをこなし、近いうちに控えている大きな演奏会に向けて先生に曲を聴いてもらう・・・。

以前は音出しが出来ない夜になれば、録音した自分の演奏を聞きながら譜読みをしたり、本を読んだりと静かに過ごせたが、ここ数ヶ月の間で目まぐるしく生活が変わった。帰宅が深夜遅くになることが多く、家には寝るために帰るだけという日々が続いている。それでもパソコンに届く香穂子からのメールチェックや返事の送信は欠かさないし、時間が許せば電話もしたり。心身ともにコンディションを整えるのが演奏家の勤めとはいえ、ようやく歩み始めたプロの道と学業の両立に課題は多い。


学生ではなくヴァイオリニスとの月森蓮という、一人の演奏家として過ごす時間が増えた。打ち合わせや収録そしてコンサートなど、いつも多くの人に囲まれ接するようになり、一人で居る時間が極端に少なくなったと思う。余裕の無さは必ず演奏に現れてしまうから、心を落ち着かせて自分をしっかり見つめなくては・・・そう言い聞かせているのに。やはり隠していても伝わるのか、それとも君が敏感に察知してしまうのか、疲れているでしょう?と電話口で香穂子を心配させてしまう。

早く休んで欲しいからもう電話を切るねという彼女を慌てて止め、もう少しこのままでいさせて欲しい・・・君の声を聞いていたいんだ願うのはいつも俺の方だ。静かに瞳を閉じながら、愛しい君の吐息や声に耳を傾けるのが、何よりもの安らぎで明日への力になっていた。




「しまった、もうこんな時間だったのか・・・」


右腕の時計を確認すると、待ち合わせで約束した時間に迫ろうとしていた。ヴァイオリン科が講義やレッスンを受ける建物は構内の一番奥にあるから、どこへ移動するにもちょっとした遠出になり一苦労だ。最も講義棟から遠い場所にあるカフェが静かで気に入っているから、コンサートの打ち合わせはそこでとヴィルヘルムに指定したのは俺なのに。レッスンが長引いたとはいえ、焦るほどに目的地の遠さを実感し、今更だが溜め息が溢れそうになる。少し遅れる旨を携帯から手短にメールを送ると、鞄とヴァイオリンケースを持ち直して足早に向かった。



白い石壁で作られたカフェの前を通り過ぎながらガラス窓へ視線を向けると、窓際で本を読んでいるヴィルヘルムが見えた。ちょうど窓越しに外を眺めようと顔を上げた時に気付いたらしく、本を閉じると人懐こい笑みを浮かべた。壁沿いに植えられた植栽の小道を急いで入り口に向かい、黒い木枠にガラスがはめ込まれたドアを開ければ、いつも決まって俺が座る席から、ここだと手を振り合図をしている。


『待たせてすまない。俺が場所と時間を指定しておきながら、ずいぶん遅れてしまったな』
『レッスンが長引いたなら仕方ないよな、お疲れさま。このカフェ遠いから急いできたんだろう? まぁ座れよ。ちゃんと連絡もらったし、遅れたといっても5分ちょっとじゃないか。時間に厳しいドイツ人よりもレンは律儀だな』
『講義棟の近くにもカフェはあるが、作曲科の学生達がいつも議論を交わして落ち着かないんだ』


遅れてすまないとそう謝罪をして向かい側の椅子に座ると、手を挙げてギャルソンを呼んでくれたヴィルヘルムが、確かにあれは熱いよねと困ったように眉根を寄せている。議論が好きなドイツ人には、うっかりすると自分がその会話に混ざってしまいそうで危険らしい。


違い深い木目の家具やアンティークのインテリアで統一された店内は、品の良さが漂い多くの文人や音楽家が愛した古き良きカフェの雰囲気を醸し出している。学生よりも教授たちの姿が多く、店内には程良く人が埋まっているが、賑やかに交わされる会話が溢れるテラス席が中心のカフェとは違い喧噪はない。心地良いクラシックのBGMが聞こえるほど穏やかで、貴重で大切な一人の時間を過ごすには最適な場所。それだけでなく、コーヒーが中心のヨーロッパにあって、気に入った紅茶を提供してくれる数少ないカフェだから、遠くてもわざわざ足を運んでしまうんだ。


注文を取りに来たギャルソンにいつもの紅茶を頼み、喉の渇きを覚えてミネラルウォーターも追加した。
湿度が少ない大陸性の気候は過ごしやすく、楽器のコンディションには最適だが、時にその乾燥が過酷にのしかかることもある。やがて運ばれたボトルからグラスに注ぎ、一気に半分近く飲み干せば、すっと身体に染み渡る潤いにようやく一心地ついた吐息が溢れてくる。


何の本を読んでいたのだろうかと興味が沸いて訪ねると、ドイツ語で書かれた、どこか懐かしい景色が映る本の表紙を掲げ見せてくれる。俺を待っている間に読んでいたとそう言って見せてくれたのが、ドイツ語で書かれた日本のガイドブック。富士山と芸者と東京タワーが一つの画面に収まっており、背景に映る街は大きな電気街だろうか。
実際にあり得ない構図の写真に苦笑が込み上げるが、彼らから見た日本がどう映るのかがよく分かる。

それは俺たちが、知らない異国を旅するときにも当てはまるのだが・・・。
日本語が堪能なヴィルは大丈夫だと思うが、少しばかり本の中身が気になってしまうのは仕方が無いだろう?


『ほら、クリスマスになったら日本にコンサートで行くだろう? レンやカホコが暮らしている街や、通っていた学校とかも行ってみたいな。二人の音楽が生まれた場所を、俺も見てみたんだ。どんな音が俺の中に生まれるのか、楽しみだ。レンはカホコと仲良くデートだろうけれど、せっかくだからいろいろ観光もしようと思って』
『それならば俺と香穂子で街を案内しよう。中に入れるかは分からないが、通っていた星奏学院も近くにある。この国からは遠いが、俺たちが暮らしていた街にはいつも近くに海があったんだ。俺と香穂子の想い出巡りになってしまいそうだが、それでもよければ』
『邪魔にならなければ、よろしく頼むよ。カホコから聞いたけど、通っていた学校には妖精がいるんだろう? 凄いよな、学長先生もある意味妖精みたいに無邪気だけど、実際にいたら会ってみたいな。レンが帰国して香穂子に会いに行く決心がついたら、もう俺が日本へ行くチャンスが無くなるって思っていたから嬉しいんだ』
『なかなか日本に帰らなかった時には、君が首根っこ捕まえて連れて帰るのだと言ってたな。ついこの前だというのが懐かしく思える。君は、どこか行きたいところはあるのか?』


俺も変わった、香穂子も変わった・・・動き出した二つの歯車が噛み合わさった時に、止まっていた流れが大きく未来へと動き出したのだと思う。動き出したのは俺たちだけではない、目の前にいるヴィルヘルムもなのだろう。


いつかきっと俺も、君たちのように強くなると・・・香穂子が帰国する空港で、別れ際に真っ直ぐ告げた言葉が脳裏に蘇った。過去から逃げ出さず、打ち消しもせず、最初から最後まで真摯に向き合うこと。それこそが本当の強さなのだと俺は思う。だからだろうか、殻を破ったと学長先生が仰っていたように、今の彼からはヴァイオリンもピアノも以前とは違う音色が響いてくるんだ。

だが嬉しそうにガイドブックの付箋を付けたページを開き、ここへ行きたいのだと示された場所が、一瞬でそんな空気を打ち消してしまう。


『なぁレンの暮らす街から鎌倉と京都は近いのか? 鎌倉ではサムライになって写真が撮れるんだけど、京都ではニンジャになって忍者屋敷を探検できるらしいんだ。ほらカホコも一緒に、お姫様にもなれるって書いてあるぞ』
『・・・それは、君一人だけで行ってくれ。俺は断固として却下だ。観光も良いが、コンサートの話をするんだろう?』


一体どんなツアーを紹介しているんだ、このガイドブックは。眉を寄せ顔をしかめながら腕を組み、全身で否定の気持ちを露わにする俺に、そこまで嫌がらなくても良いじゃないかと寂しそうに拗ねて本を引き戻す。俺が駄目なら香穂子へ直接頼むのだと拗ねるのが、どこまで本気なのかと悩みは尽きない。前髪を掻き上げつつ頭痛を覚えた額を抑えれば、深い溜め息が溢れてきた。


ノートとペンを取り出し話し合いの用意を進める俺に、観光も立派な打ち合わせなんだけどなと。ヴィルヘルムはしぶしぶながらガイドブックを片付け、ようやく同じようにノートとペンを取り出してくれた。コンサートで演奏する曲目や曲順を決めながら、CDに納めてある意外に数曲交えようという事になり、互いに意見を出し合う。音楽を語ればどちらも譲ることは出来ずぶつかることもあるけれど、議論したり助け合い、時には反発し合いながら共有する時間と音楽。気付けばグラスの氷は全て溶けきり、カップの紅茶は空に飲み干されていた。




俺が考えた曲の構成を伝えた後に、ヴィルヘルムがノートを差し出す。示された各日程ごとの演奏順やアンコールを考えたラインナップを眺め、納得しかけたところで、ふと心に引っかかるものを感じノートを引き寄せた。彼が最終日のアンコール曲に提案した曲は愛の挨拶、他の日程と見比べると・・・いや、考えすぎだろうか。、


『どうしたんだよレン、そんな怖い顔して。俺の意見に反論があるならレンの意見を聞かせてくれよな』
『君が素直に手の内を見せるときには、決まって裏に本当の目的を隠している。曲目も曲順の希望も、本当にそれでいいのか? 収録の時のように、また香穂子を巻き込むつもりなのかと、そう思ったんだ』
『レンは鋭いな、でもどうしてそう思ったんだい?』
『香穂子と俺がステージで二重奏をしたときに、音源に納めるように進言したのも君だったな。結果としてCDには,
この曲だけ彼女との二重奏を納めたが。君の提案では、愛の挨拶がアンコールで演奏される・・・コンサートの一番最後に。しかも他の日程では組まれていないのに、日本の最終日だけだ。香穂子を呼び寄せ、俺と一緒にアンコールを演奏させるつもりなんだろう』


俺の伴奏をやりながら、ヴァイオリンの二重奏もこなさなくてはいけないヴィルヘルムが、不都合無く演奏できるように。彼の希望をまずは聞きながらも、ホールでの録音の時のように、また何かを秘密の企み事をしているのではと、警戒心が沸き上がってしまい、気付けばじっと瞳の奥を探るように射貫いていた。
ひたむきに射貫く視線を受け止め、逸らさずに返すブルーグリーンの瞳が、強い意志を持って光を放つ。


『俺はてっきりレンが提案すると思っていたから、言わない方が不思議でならないんだ。深読みするのは、心の底ではカホコともう一度、同じステージに立ちたいと願っているからじゃないのか? 誰もいないホールじゃなくて、ゲストがたくさん埋まった自分だけのコンサートで』
『今回は関係者だけしかいない収録とは違う。チケットが既に完売しているコンサートなんだぞ。いくら根回しが得意な君でも、動かすには壁が大きすぎる。秘密裏に事を運んで万が一何かあったら、彼女が傷つく事になりかねない。それにアンコールで奏でるとしても楽屋にいなくてはいけないから、彼女が客席で演奏を聴けなくなってしまう』
『だから二日目にって・・・おっと。レンはカホコの演奏を信じていないのかい? 俺はアンコールじゃなくても、彼女のヴァイオリンなら立派に二重奏を勤めてくれると、そう思っているよ。自信を持って俺の案を、プロデューサーに進言できる』
『もちろん香穂子を信じている。彼女となら、聴衆を納得させる最高の演奏が出来るだろう。同じステージで一緒に奏でたい・・・いや、彼女の演奏を聞いて欲しい。世界は彼女の音色を求めていると、その想いは今でも変わらない』


ヴィルの真意を聞き出そうとしていたのに、いつのまにか自分が心に秘めていた願いを形にしていた。不確かだった想いは、形になることで道の先を照らす光となり、目指す希望となる。間違いなく彼が隠していた企みであり、誘導されたのだと気が付いた時にはもう遅く、殻を破った熱さが走り出していた。


『ここまで言ったら隠しても仕方ないんだけど、まさにその通りだよ』
『ヴィル・・・!』
『相手に贈り物をするときには、自分がもらって嬉しい物を贈るだろう? レンが心の底で欲しいと思っているものは、カホコも同じように欲しいと願っていると、俺はは思うよ。音楽の絆が教えてくれる・・・君たちを近くで見ているから分かるんだ』


厳しい眼差しと肩の力を緩めたヴィルヘルムから、ほっと一つ吐息をが零れる。分離しかけていたグラスのアイスコーヒーをストローでかき回し、僅かな残りを一気に飲み干した。


最終公演である日本の二日目は何の日だい?と、意味深に問われ記憶を探り当て・・・あっと驚きに目を見開いた。
ヴィルの企みは、いつだって自分のためではなく、周りの誰かの為にあるサプライズなのだ。彼の願いであると同時に、本人達が自覚さえ出来ずにいた原石を探り当てるように。

コンサートのための帰国はクリスマス休暇、演奏会の二日目は、まさにクリスマスイブだったのだから。