未来への鍵・2



長収録や演奏会が無い日には、午前中まで自宅でヴァイオリンを練習し、午後からは大学でレッスンや練習室を借りて夜まで練習。そして夜には譜読みや読書・・・夏の休暇を振り返れば、いつもと変わらぬ日々だったと思う。

だが香穂子が訪れていた時には、短い中にもいろいろな場所へ行ったな。一人に戻った今でも、時折息抜きとして運河沿いの公園などに出向いたが、それがどこか物足りなく感じるのは、心に空いた寂しさのせいかもしれない。君は今、どうしているだろうか?




音楽大学の奥地にある、古い講義棟裏に広がる緑地には、整備された公園のように緑や花が溢れている。夏の盛りには白く小さな花を咲かせ、さわやかな香りを放っていたリンデンバウムの樹も、9月に入って寒さが増したせいか、緑が覆う葉の先端からほんのり赤く色づき始めていた。足の先に舞い降りた葉に視線を止めれば、ハートの形だねと頬を綻ばせていた君が浮かんでくる。


小道沿いに点々と置かれたベンチでは、本を読んだり譜読みをしたり、議論を交わし合っている学生の姿があった。学生達はみなそれぞれ専攻ごとの溜まり場意外に、自分たちだけの時間をつくり、くつろぐための場所を持っている。豊かな時間の流れる緑地を進み、かつて王家の狩猟場だった森に現れるのは、輝く光を湛える小さな湖。透明な静けさと水の煌めきが溢れる、湖面沿いのベンチが俺の場所だ。


海や湖など水のある場所が昔から好きだった・・・心が落ち着く。この湖を眺めていると、湖面がまるで香穂子の大きく澄んだ瞳のように思えるから、ついこの場所へ足を運んでしまうのだろう。湖の周囲を覆うのはカスタニアと呼ばれる栗の木で、白と赤い花を咲かす樹のうち、赤の花からは甘い木の実が秋に実るんだ。だからだろうか、湖を見つめていると、微笑む君に見つめられているように、心へ温かさと想いの水が溢れてくる。


運河や湖はいつも身近にあるけれど、留学してから暮らすこの街は海が遠いから、もうどれくら眺めていないだろうか。高校時代は香穂子と海辺の公園で合奏したり休日のデートに訪れたり、少し遠出をして季節外れの海を二人きりで散策したな。何をしても見ても、離れてから想い出すのは君のことばかりだ。


ベンチに座り届いたばかりのエアメールを広げると、香穂子らしさが溢れる元気で優しい文章が綴られていた。形に残る手紙や葉書が嬉しいのは、何度でも読み返せる嬉しさがある。文字だけなのに、語りかけてくる声や表情だけでなく、筆跡や文章から君が胸の中に抱える気持ちもまでもが、素直に伝わってくる力があるんだ。


短い夏が終わり予定を早めて帰国してしまったが、日本に残る香穂子が通う大学も後期の授業が始まり、レッスンなどで慌ただしい日を過ごしている近況が書かれていた。怪我をして入院してしまった母親も、今は無事に退院をして元気に過ごしているようだ。悩んだ末に早めの帰国を決めたのは、家族のために・・・そして君の為に良かったのだと安堵に心が緩む。


まだ松葉杖が手放せず不自由さが残るために、主に香穂子が家事を手伝っているらしい。料理のレパートリーが増えたから、いつか俺にも作ってあげるねと・・・書き綴られているメニューの多さに、眺めるだけで心もお腹も満たされる。今回は互いに別々の家で生活していたから、君の手料理を食べる機会が少なかったけど、またいつか食べたいと思う。そして次の便せんを捲れば、俺が送った楽譜を引き込んでいることや、香穂子の為に送った曲を自分でもヴァイオリンで練習している事が書かれている。


-----海が見える公園で、遠くにいる蓮くんへ届くようにと奏でていると、みんなが素敵な曲だねと言いながら集まってくるんだよ。どんな曲で誰の曲かを知りたがるけれど、まだ秘密なのだと、蓮くんの事を笑顔で交わすのが大変なの。でも嬉しいよね、本当はみんなに自慢したくてうずうずしているの-----


そうか・・・弾いてくれているんだな。大切にしてくれている香穂子の言葉が嬉しくて、頬が熱くなってしまう自分がいる。皆の心を引き寄せるのは君が奏でているから、香穂子の音色が魅力的なのだと俺は思う。俺も君が奏でる曲を直接聞きたい・・・いつでも音色が聞ける人たちが、少しだけ羨ましい。



『レン、ここにいたのかね』
『・・・! 学長先生・・・』


名を呼ばれて振り仰げば、すぐ目の前に白髪の老紳士・・・学長先生が佇み、皺に刻まれた笑顔で俺を見つめていた。この場に来てから、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。日だまりだったベンチはいつの間にか木陰に変わり、爽やかな秋風が葉の隙間から囁くように吹き抜けてくる。


『隣に座っても良いかね?』
『えぇ、構いません。学長先生は息抜きに散策ですか? そういえば以前にも何度かここで、学長先生にお会いした覚えがあります』
『まぁそんなところじゃ。教授達を従え、久々に大講堂でスピーチをしたから疲れてしまってのう。レンはカホコからの手紙を読んでおったのかね?』
『その通りです・・・が、なぜ分かったんですか? 日本語だからでしょうか?』
『なに、もっと簡単な事じゃよ。誰しも嬉しいことは自然と現れるものじゃ。レンは正直で嘘が付けないからのう〜顔に書いてあるぞ』


ベンチに置いていた鞄を脇によけて場所を作ると、隣に腰を下ろした学長先生が、悪戯な笑みで手元の手紙を覗き込んできた。本当な事だけに、すぐ見抜かれるのは照れくさい。小さく咳払いをして手紙を畳むと、隣では同じようなエアメールをジャケットのポケットから取り出し、大切そうに便せんを広げている。慈しむような眼差しを注ぐ先には、たどだどしくも一生懸命なドイツ語の筆跡・・・どこかで見覚えがと記憶の糸を探っている俺に、差出人の名前が書かれた封筒を差し出してくれた。


なるほどと頬が緩む俺に、ワシにもカホコから手紙が来たんじゃと、嬉しそうに笑みを浮かべていた。学長先生宛なのかと問えば、婦人にもちゃんと別に手紙が届いているという。大切な手紙はいつも手元に持っておきたいから、喧嘩にならないように二通送って欲しいと頼んでいたそうだ。今度は写真も送ってもらうのだと、緩む頬が止められないのは学長先生も同じらしい。弟子というよりも、娘からの手紙を読む父親のようだな。


ここを見てごらんと差し出される手紙には「ドイツのお父さん、お母さんへ」とドイツ語で書かれていた。嬉しさのあまり一緒に読んで分かち合いたいのだろう。俺にも気持ちが分かるし、どんな事を書いているのか興味がある。

香穂子からの手紙と一緒に、彼女のドイツ語訳が添えられた、母親からの手紙をも添えられていた。香穂子が帰国するときに、日本の両親宛に手紙を託したと言っていたから、その返事だろう。
通訳をするために目を通した彼女は、どんな気持ちで母親の想いを受け止めたのだろうか。
香穂子が綴るドイツ語のスペルや文法に、多少の間違いがあるけれど、今だけは目を瞑っていようか。


『どうしたレン、緩んだ顔でワシを見つめて。ワシの顔に何かついておるのか?』
『いえ・・・付いているといえば、そうなのですが。 ついさっきまで、大講堂で堂々としたスピーチをしていた人物と、緩んだ様子が同じとは思えなかったんです。一年前間までは遠くの存在で、こうして親しげに声を交わす事など無かったのに。音楽が結ぶ縁というのは不思議ですね』
『そうじゃな。音楽の妖精がいるとしたら、音楽を心の底から楽しみ愛するカホコのような存在かもしれんな』


手紙を折りたたんでジャケットにしまいながら、遠くの空へ微笑む学長先生に、本当の音楽の妖精はもっと小さくて悪戯好きなのだと。そう付け加えようとしたが、喉元で飲み込んだ。


夏と冬セメスターそれぞれの始まりに、大講堂で学生達を集めるのがこの大学の習わしだった。一人の教授に対して、門下生が十数人程度・・・一つの学科ごとでの人数が少ないため、全学生を集めても大講堂の客席に収まってしまう。ヴァイオリン科だけでも、オーケストラを一つ編成できる程度しか存在しない。一般的にドイツやオーストリアを始めヨーロッパの大学には、入学試験という物が存在しない。ギムナジウムを経て必要な資格があれば誰でも入学できるのだが、音楽や美術といった芸術科目だけは特別で、厳しく狭き門の入学試験が課せられる。だが講堂に集ったのは、誰もがそうした狭き門をくぐり抜けてきたという証で、ライバルなのだ。


秋から始まる冬授業から講義を受ける新入生たちは、春を迎えた4月から6月くらいまでの数ヶ月間、レッスンと厳しい試験の日を乗り越えてきたことになる。大学が秋からだからまだ渡欧が先・・・。そう思っていた香穂子の予想に反して、高校二年の三学期終了と同時に、留学先へ旅立った自分を思い返してしまう。


俺は、いよいよ次は卒業試験か・・・。
この一年間で、自分と周囲が大きく変わり、止まっていた流れが動き始めた。





静まりかえる客席は集まった学生達で埋め尽くされ、ステージでは学生会の会長であるヴィルヘルムと、学長先生のスピーチが行われた。かつては世界中の人々を魅了した名ヴァイオリニストであり、現役を退いた今は香穂子のヴァイオリンも指導してくださる。俺たちが迷いそうなときに、光を灯し道を示してくれた。

どこで学んだかではではなく、大切なのは何を学び自分のものとしたか・・・。
言葉が今までよりも重く真摯に響くのは、岐路に立つだけでなく語る人物を知ったというのも大きいと思う。


『レンは卒業したら大学院に進むのかね?』
『ヴィルにも問われましたが、そのつもりです。このまま音楽活動を続けながら、ソリストへの道を求めます』
『卒業後もこの国にとどまるのなら、今のうちにプロとしての活動を軌道に乗せなくてはいかんじゃろう。将来、もしもカホコを自分の伴侶として呼び寄せたいのならなおさらじゃ。事務所と契約しているとはいえ、留学や観光でなく仕事で定住となったら、難しい問題がいろいろあるからのう。これから一年が君にとって正念場じゃな』
『冬のうちに単位をすべて取得すれば、最後の夏授業は難関の卒業試験です。学科や論文だけでなく、課題曲も難曲揃いで数が多いと聞いています。プロとしての演奏活動の両立が、今後の課題だと思ってます』
『だが忘れてはいかん。周りにいる人だけじゃなく夢や思い出、心の中にあるカホコの想いなど、たくさんのものがいつだってレンを守ってくれることを。自由にのびのびと羽ばたきなさい。芸術を生み出す者にとって、思いこみや偏見が一番の敵じゃ。自分の世界という殻を常に破り、自由にのびのびと羽ばたきなさい。そうすれば君をもっと輝かせてくれる場所が、見つかるはずじじゃ』


プロで求められる事と学生とでは違うのだと、世界の広さとと壁の大きさを実感した。学業とソリストとしての活動を両立させる忙しさで、また香穂子に寂しい想いをさせないようにしなくては。同じように黙って日本を発ち、学長先生の家に来るとは限らないのだから・・・。決意を新たに胸へ刻み、膝の上に置いた拳を握りしめた。


風が吹き抜け木々の葉が一斉に歌い出すと、輝く湖面も踊るように風紋が描かれる。吸い込む胸の奥に、ひんやりした秋の欠片感じて見上げた空は、どこまでも高く澄み渡っている。言葉無く、自然と一つになるように頬で受け止めながら、風のざわめきがが止むのを静かに待った。


『先ほどワシのところにビンチックがやってたんじゃよ。懐かしの母校を訪ねるついでに、レーベルのプロデューサーの仕事も兼ねてな。まだ発売前だがとそう言って完成したレンのCDを、一足早くワシのところへ持ってきてくれたんじゃ。さっそく聞かせてもらったよ、良い作品に仕上がったじゃないか』
『ありがとうございます、学長先生にそう言って頂けて光栄です。伴奏をしてくれたのがヴィルヘルムだったから、互いに納得できる曲が出来たと思います。それに音源を更に磨き、こうして形にしてくれたレーベルのスタッフたちの力が大きい・・・俺一人の力ではありません。皆に感謝しています・・・そして誰よりも、香穂子に』
『表紙のお前さんも、なかなか色男に映っておるのう。ブックレットにある曲の解説も、レンの音楽に対する姿勢や想いが分かって興味深い。じゃが最後の曲であるエテールノにたった一言、大切な君へ捧げる・・・と。カホコが見たら、このラブレターに真っ赤になってしまうぞい』
『・・・本当は別なコメントも用意していたんですが、そのままの想いを書くことにしました。このCDは俺のデビューであると同時に、香穂子への贈りもですから。ですが、改めて見ると照れくさいですね』


ジャケットのポケットを探っているから、もしやCDまで忍ばせているのではと緊張が走る。身を固くしたが取り出したのはハンカチで、ほっと安堵に心が緩む。秋の入り口とはいえまだ暑いと言いながら、額に浮かんだ汗を抑えていた。俺も身体の中から熱く感じるのは、残暑だけではなく、照れくささや緊張のせいもあるのだろう。自分が映ったCDが目の前に出されたら、耐えられずに顔を背けてしまうかもしれない。

ハンカチで額を抑えながら空を仰ぎ、そういえば・・・と独り言のように呟くと、ふいに俺へと視線を向けた。


『CDを聞いて気がついたんじゃが、収録されてあるヴァイオリンの二重奏は、カホコでなくヴィルとの演奏じゃな。てっきりワシはカホコと奏でた曲を使うのかと思っておったよ。だがそれまでの君たちの音とは少し違うの、良い響きじゃ。クオリティーの高さも、音色の豊かさも若々しさも・・・一皮むけておるようじゃな』
『香穂子を空港で見送った後に、もう一度撮り直したんです。何度も聞き比べて迷いましたが、当初の予定通りこちらを使いました。ただし愛の挨拶だけは、香穂子と奏でた曲を使ったんです。これはまだ彼女には伝えていませんが、ブックレットのクレジットにも小さく名前を添えました』
『なるほどな、レンの音の中にカホコがいるよう思えた訳じゃわい。サプライズにサプライズが重なった一枚じゃのう、カホコの喜ぶ顔が目に浮かぶようじゃ。直接冬には日本でもコンサートをやると聞いたぞ、おめでとう。日本に帰るのは久しぶりなんじゃないのかね?』
『ありがとうございます。コンサートはまだ先ですが、その前に一度休暇を取って日本に帰ろうかと思います。コンサートの打ち合わせもあるんですが、完成したCDは直接俺の手から、香穂子に手渡したいんです』


皺で隠れてしまいそうな瞳を真っ直ぐ見つめると、静かに頷き微笑んだ。眼差しと心に響く言葉が、信じていると温かな想いを伝えてくれる・・・それが大きな力となるのを感じる。

想う力や感情を作る左手と、現実を作る力を生む右手。俺と香穂子が一つのヴァイオリンならば、弓と弦の二つが合わさり音が奏でるように、互いが良いテンションで歩み寄らなければならない。君が海を越えて音楽と想いを届け俺を求めてくれたように、今度は俺が応える番だ。君と俺とで音色を重ね、奏でるために。



一緒に過ごした時間よりも、離れている時間の方が遙かに長くなってしまったのに、互いの想いや絆は深まったと俺は思う。高みを求め諦めない強さと、信じる心が互いに重なるからこそ生まれる奇跡。それが少しずつ積み重なり、やがて永遠となる。心と心で触れ合える大切な存在に出会えた事は、とても幸運な事と思う。


結末はいつだって、予期した方向に向かってゆく。だから俺たちがこうして頑張っている今は、俺たち自身が切り開いた未来だ。たとえ海を越えて離れることが最初から分かっていたとしても、俺は君に恋をしただろう。辛いことや寂しさが待っていたとしても、希望の光に変えて。何度でも君を求め巡り会い、恋をすると誓おう。