未来への鍵・20




控え室として与えられていた二階のゲストルームへ戻ると、帰り支度をしたら戻ってくるねと笑顔で振り仰いだ香穂子が、摘んだドレスの裾をひらりと翻す。まるで赤い花芯を持つ青い花びらが、そよ風に乗って舞い踊るような背中が、廊下の角に消えるのを見送ってから、緩む瞳のまま部屋に入り静かにドアを閉めた。

やっとこの場所に戻ってきた安堵感に零れる吐息が、落ち着いた調度品に包まれた静けさの中へ消えてゆく。ソファーの足元へヴァイオリンケースを置き、そのままゆっくり窓辺へ行くと、今は闇のヴェールに姿を隠す実りの庭は寝静まり、ハートの形をした芝生を囲むライトアップとキャンドルの灯りが、ほんのり浮かび上がり照らすだけ。闇夜に浮かぶハートの灯火は、俺の心に宿る香穂子の音色や笑顔のようだな。とっておきの秘密だと、嬉しそうに頬を綻ばせていたの宝物とは、二階の窓辺から見えるこの大きなハートだったのか。

俺の中に宿る大切な想い・・・心の在りかを教えてくれる灯火に誘われ窓を開ければ、日が沈み寒さが増した空気は、凛と引き締まり心地が良い。胸一杯に深呼吸をすると、君の隣にいるような透明感に包まれる・・・そんな気がする。心の耳を澄ませ夜空に浮かぶ星たちと、地上に輝くハート型のイルミネーションのアンサンブルを楽しもう。


空から降り注ぐ鈴の音色が、見つめる者だけにたった一つの曲を紡ぎ出す。留学先で暮らす部屋の出窓に腰を降ろし、一人眺める遠い空と同じ筈なのに、今響くのは幸せの余韻。静まる夜闇は始まりの予感。きっと息を切らせて部屋に駆け込んでくるだろう君を、思い浮かべて待つ時間さえも楽しいと思える。暫く外を眺めてから、ステージの緞帳を下ろすようにそっと窓を閉めると、部屋に響くのは、コンコン・・・心を弾ませる扉を叩く音。音だけで香穂子だと分かるのは、窓辺に舞い降りた小鳥が朝を知らせるように、俺の扉を叩くから。

返事をすると開かれた扉からひょっこり顔を覗かせたのは、想い描いた通りの笑顔。私服に着替えて鞄やヴァイオリンケースを持ち、帰り支度の準備は万端だ。お待たせと笑みを浮かべる頬は桃色に紅潮し、切れた息を肩で整えているのは、急いで駆けつけてくれたのだと分かる・・・俺に会うために、その想いが嬉しくて胸が甘く締め付けらるのを感じた。


ヴァイオリンケースと鞄を足元へ置くと、待ちきれない気持だけがポンと俺の心へ飛び込んで、その後に柔らかな本物の君が懐へ飛び込んでくるんだ。きゅっとしがみつく指先の強さが、脳裏を霞ませる痺れに変わって駆け巡る・・・手を伸ばせばすぐ届く距離に香穂子がいる、当たり前のひとときにどれほど胸が恋焦がれただろうか。腕の中で感じる温もりを刻み込むように愛しく大切に、そして離さないという想いを語る強さで抱き締めずにはいられない。触れ合う距離よりも、もっと近くに君を感じるのは、ヴァイオリンの音色を重ねた夢のひとときの余韻に、まだ酔っているからだろうか。

いや・・・互いの心の距離が近付き、溶け合ったからだと思う。


「ついさっき俺をこの部屋まで送ってくれたと思ったが、もう着替えて戻ったなんて早かったな。ひょっとして走って来てくれたのか? 急がなくてもいいのに・・・ゆっくりで、もし怪我でもしたら大変だ」
「ごめんね、早く蓮君に会いたかったから、待ちきれなくてつい慌てて急いじゃったの。私たちには一緒にいられる時間の一分一秒でも、貴重な宝物なんだもの。ね?」
「放課後の練習室で待ち合わせをしていたあの頃から、君は変わらないな。だが早く会いたい想いは俺も同じだった、やっと二人きりになれたな。香穂子、お疲れ様」
「蓮くんも、お疲れ様でした。せっかく会いに来てくれたのに、いろいろと巻き込んじゃってごめんね。でも凄く楽しかったの、ここは夢が叶う場所なんだなって思ったの。蓮くん、ありがとう」


上目遣いで見つめながら、組んだ両手をもじもじと弄る仕草が熱を募らせる。どうしたのかと決して急かさず穏やかに問えば、困ったように小首を傾げて甘くねだるけれど、焦らされる俺の方が困ってしまうじゃないか。

ちょこんと振り仰ぎ、背伸びをして、唇に重なった柔らかな温もりは君からのキス。驚きに見開いた瞳のまま一瞬固まり、次第に頬へ熱を募らせる俺に、あの・・・あのねと恥ずかしそうに口籠もる香穂子の頬も、負けないくらい真っ赤に染まってゆく。無防備な俺の心に恋の爆弾を落とすのに、我に返っていつも恥ずかしがってしまう、そんな君が可愛らしい。


「先程から左手を気にしているが、どうかしたのか? まさか痛めたのか?」
「うぅん、違うの。フィッティングルームで白いドレスを脱いだ時、薬指にはめた指輪も返したでしょう? もう終わっちゃうのがすごく寂しくて、心にぽっかり穴があいた気分なの。パーティーの間もね、つい嬉しくて薬指を何度もみていたんだよ。でもね、心の中には蓮くんがくれたキラキラのリングがあるって気付いたの」
「俺の中にもある、香穂子がくれた心の指輪が。温かな想いと真っ直ぐな眼差しに込められた光、大好きなヴァイオリンの音色が、心にすっと溶け込み消えないリングになったんだ」
「何かくすぐったいよね、こんなに胸がキュンとしたのは久しぶりかも。初めてキスした時とか、抱き締められた時よりも照れ臭くて、ヴァイオリンの音色を重ねた時と同じくらい心の中がキラキラしているの」


名残惜しそうに左手の薬指を見つめていたが、頬に熱を募らせる俺に気付くと、自分の言葉を反芻してみるまに頬を染めてゆく。恥ずかしさに耐えきれず胸にきゅっとしがみついていたが、髪を撫で梳きながら名前を呼びかけると、顔を起こしぱっと嬉しそうに綻ぶ花の頬が愛しくて堪らない。

いつの日が本当に君の薬指にも、消えない心のリングをはめよう。そう願いを込めて真摯に見つめながら左手を取ると、心臓に最も近い薬指の付け根に唇を寄せ甘く吸い付く。指輪の代わりに白い指を彩るのは、鮮やかに咲いた赤い花。
驚きに目を見開く香穂子に緩めた瞳で微笑みを注ぐと、真っ赤に火を噴き見えない湯気を昇らせてしまうが、大切そうに左手を胸に抱き締め、ふわりと微笑んだ。

ありがとう、大切にするね・・・と、その言葉と微笑みに鼓動が大きく飛び跳ね、心の奥へ君に咲かせた花と同じ赤が鮮やかに灯る。


「ねぇ蓮くん、演奏が終わったら私に伝えたいことがあるって言っていたでしょう? お話しって何かな?」
「あぁ、そうだったな。終わって落ち着いたときに話したい事があったんだ。実は・・・いや、帰りながら話しても良いだろうか? 本当はこのゲストルームでゆっくり寛げたらいいが、窓辺で語らううちに随分と時間が経ってしまったな。遅くなってはゲストハウスのスタッフたちにも迷惑をかけてしまうし、香穂子が家に帰るのも遅くなってしまうから」
「うん、いいよ。手紙やメールだけだと語りきれないから私もね、蓮くんとたくさんお話ししたいことがあったの。夢中になると止まらなくなるから、いつまで残っているのかってチーフに怒られちゃいそう。きっと何時間あっても足りないよね。練習後に寄り道をした放課後デートを思い出すなぁ〜。ねっねっ、どこに行く? ゆっくりお話しできそうな所ならカフェとか、夕暮れ時なら港の見える公園も素敵だよね」


ふと思いだしてポンと手を叩き、腕の中から真っ直ぐ見上げる澄んだ瞳に捕らわれ、鼓動が次第に早く大きくなる。本当はどう伝えたら良いか、まだ心の準備が整いきれていないのだというのは、秘密にしておこう。俺と一緒のステージに立ってもう一度演奏しないかと伝えるだけなのに、駆け出す鼓動と共に呼吸が浅く速くなり、手の平には汗が滲む。伝えようと決意した時よりも遙かに緊張が募るのは、幸せの余韻の後なだけに、プロポーズにも匹敵する一大決心に思えてしまうからだろうか。真摯に届けたい想いと音色が向かう先は、ただ君だけに・・・。


ハートの芝生を照らす灯りを窓越しに見つめながら、どこに寄ろうかとはしゃぐ香穂子は、空気の色から俺たちにとって大切な事だと感じ取ったのだろう。表情を引き締め姿勢を正し、音楽に向き合うときのように俺を瞳の奥へ閉じ込めた。
ここで告げてもし良い返事がもらえなかったらと思うと、躊躇う気持が生まれてしまう。久しぶりに香穂子に会えたのだし、家に送り届けるまでの楽しい時間を、もう少し味わいたいのもある。右腕にはめた時計で時間を確認すると、落ち着かせるために大きく深呼吸をした。


「香穂子、帰ろうか・・・」
「うん! ふふっ、蓮くんの手が温かい」


いつも手に持つ事が多いヴァイオリンケースを背中に背負うのは、お互いに手を繋ぎ合うため。鞄やもらったケーキの入ったバックを片手に持ち、空いたもう片方の手はどちらともなく自然に引き寄せ合い一つに重なる。手を繋ぐ幸せ・・・元から一つであったかのように自然に収まる手の平が、温もりと安心感を生み出し微笑みの花が綻ぶんだ。
交わる視線で合図を交わし合い、ヴァイオリンの弦に弓を降ろすように、二人の一歩を共に歩み出そう。


ライトアップに照らされた石畳のアプローチを抜けながら、肩越しに背後の建物を振り返ると、ゲストハウス全体が優しい琥珀色に染まっていた。大きなガラス窓に映る優しいオレンジ色の光が、カップに注がれた紅茶のように温かい。石が天井のアーチを作るアイアン製の黒い門をくぐり抜けたところで、繋いだ手を指先からしっかり絡めて握り直すと、微笑みを受け止める香穂子も返事のように強く握り締めてくれる。

また今度の休日にも演奏にくるのに、おめでとうと見送られるのは恥ずかしいと、夜闇にも分かるほど頬を赤く染めてしまうけれど・・・。帰り際にシェフパテシエを二人で訪ね、ハート型のケーキを焼いてくれたお礼をしたときには、特に照れ臭かったな。オリジナルウエディングケーキにヴァイオリンの形はどうだい?と、自信たっぷりな笑みを向けられて。俺の袖をきゅっと掴む香穂子も真っ赤に染まり苺に変わていた。

だがそんな君が困っていると知りながらも、愛しくて緩む頬が止められないのは許して欲しい。

ヴァイオリン型のケーキか、音楽で結ばれた俺たちにぴったりかも知れないな。それとも君は、大好きな苺に溢れた物が好きだろうか? 想いを馳せて語り合う夢が、夜空に瞬く星になって輝き大きく瞬いた。一歩脚を踏み入れたときから感じた、家庭に招かれたような親しみやすさと笑顔の絶えない空間・・・そして祝福を奏でる香穂子のヴァイオリン。夢に描いていた以上の幸せな一日があったな、今日この場所を訪ねて良かったと、心から思う。





懐かしい思い出を辿りながら心のアルバムを二人でひもとき、新たな思い出を刻み込むように歩く。駅前通を散策し、あの道この場所と脚が向いた先は海の見える公園へ・・・。夜闇に包まれる海や緑は姿を隠しているが、港沿いの夜景と星空が一つになった、大きな輝きが美しい。高台の欄干を握り締めて身を乗り出し、ほうっと零れる感嘆の吐息をも奪いたくて・・・間近に振り仰いだ唇に重ねてしまいたくなる。その想いを紙一重の理性で留めたのは、昼間と違い静けさに満ちた公園には、同じように肩を寄せ合うカップルの姿が他にもあったから。そういえばここは、夜景が一番良く眺められる絶好のデートスポットだったな。

気恥ずかしさに顔を見合わせ、どちらともなく生まれるのは、初めてデートをした時のような甘酸っぱいくすぐったさ。いつもの場所に行こう?そうはにかむ香穂子が、小首を傾け繋いだ腕を揺さぶり俺を誘う。では、いこうか・・・夜景も良いけれど、もっと素敵な場所がある。星奏学院に通っていた高校生だった俺たちが、君を家に送り届ける途中で寄り道をしたいつもの場所・・・小さな児童公園に。放課後二人で帰ったあの時に戻ったような、初々しい気持が心を浮き立たせた。


共に育んだ想いの道を振り返り、確かめ合う事は更なる未来を見つめる上でも大切なひとときだと思う。
澄み渡った星空のような今の心ならきっと、想う気持を込めて君に伝えられる。





やっぱりここが落ち着くよねと、俺たちの指定席だったベンチに座った香穂子に、買ったばかりの缶入りの紅茶を差し出した。君はミルクティーを選んだはずなのに、俺が飲むストレートティーも美味しそうだと、甘くねだるのは変わらないな。留学してから数年経ったが、何度も脚を運び君と語らいあった公園に、まだ同じ場所でベンチがあり続けてくれたのが、何よりも嬉しかった。時が流れても、変わらないものがあるんだな。俺を待っていてくれる懐かしい場所、君の笑顔・・・それがどれだけ俺の中で大きな力になるか、胸に沸く温かさを確かな形にして君に届けたい。


「今日はとっても楽しかったよね。最初は何が起こるのか分からなくて驚きの連続だったけど、最後はとても楽しかったなって思いだしていたの。ガーデンに集まってくれたみんなも、幸せそうな笑顔がいっぱいだったし、蓮くんと一緒に演奏できたのが一番楽しかったの。たった数曲じゃ足りないよ、もっと演奏したかったな」
「俺も、香穂子と合奏していた時は君しかみえなくて、照れ臭いくらいに素直になっていたと思う。ヴァイオリンは不思議だな、君と俺の心の扉を開いてくれるのだから」
「蓮くんと奏でるひとときは特別なの、一つ一つの音が重なる度にときめいて、大好きな想いが溢れて止まらなかった。歌いだす始めに見つめ合いながら呼吸を合わせる度に、何度も恋をしていたんだよ」


脚の上に、もらったケーキの箱を抱えながら、早く家に帰って食べたいのだと嬉しそうな瞳は、夜空の星よりも輝いていると思う。もらったハートのケーキが可愛いよねと頬を綻ばせたかと思えば、一緒に合奏したヴァイオリンが楽しかったからもう一回演奏したいと・・・。身振り手振りでくるくる表情を変ながら一日を振り返る、君を見つめ話に聞き入るのが楽しくて。じっと熱く視線を注ぐ俺に気付いた香穂子が、はっと我に返り頬を染めて黙り込んでしまった。そんなに、じっと見つめていたのだろうか。

自分ばかり話に夢中になってしまったと、すまなそうに謝るけれど、どうか気にしないで欲しい。俺は夢中になって語る君の話を聞くのが好きなんだ。もっと聞かせてくれないか? そう微笑む俺に、蓮くんの話も聞かせて?と甘くねだる瞳に酔わされ、すぐにでも抱き締めたい想いに酔わされそうになる。もう一度一緒に演奏したい、同じステージに立ちたいと望んでくれている想いが、俺の背中をぽんと押した。

どんなときにも暗闇を照らし、真っ直ぐな光で俺を導く星たちよ、どうか俺に力をくれ。
手の平にうっすらと滲みだした汗を、早く刻み始めた鼓動ごと拳で握り締め、心の奥へ届けるように瞳の奥を見据える俺に香穂子が姿勢を正す。伝えるのは、今しかないんだ。


「俺も、香穂子と一緒に奏でたい・・・もし良ければ、また一緒に演奏してくれるだろうか?」
「本当! やった〜蓮くんと合奏! どこで演奏する? 駅前通や公園も素敵だよね。でも蓮くん帰国しても忙しそうだよね、嬉しいけど無理はしないでね」
「俺が帰国したのは君へ二枚のCDを渡すのと、もう一つ伝えたいことがあったからなんだ。パーティーの時にヴィルヘルムと話していたのは、その事だ。今日は俺が香穂子のステージに立たせてもらった、だから今度は俺のステージへ共に立ち、一緒にヴァイオリンを奏でないか?」
「蓮くんの、ステージ?」
「プロのヴァイオリニストとして、冬に日本で二日間のコンサートを行うのは、香穂子も知っているだろう? その二日目のアンコールで、一緒にヴァイオリンを奏でたい・・・君と二重奏をしたいんだ。プロデューサの了承は取ってある、後は香穂子の返事次第だ」


また一緒に演奏出来るね、みんなに聞いてもらえるねと、喜びにはしゃぐ笑顔が驚きに丸く見開かれた。始めは嬉しそうにぱっと笑みを輝かせ、身を乗り出しかけた身体は、彼女の中の何かが時の流れごと止めてしまう。はっと息を呑んだ香穂子の瞳が、驚きに大きく見開かれて固まった。数度瞬きをしてじっと見つめ返しながら、言葉を何度も反芻しているのだろうか。

切なげに瞳が細められ力なく俯くと、耐えるように唇を噛みしめ、ミニスカートから晒された白い太腿の上に置いた両手をぐっと強く握り締めた。胸の奥にきゅっと痛みが走ったのは、心ごと掴まれたからなのか、彼女が耐える痛みが重なる心を通じて伝わるのかのか・・・きっと両方なんだと思う」


「すごく嬉しい、夢みたい。蓮くんの夢が叶うのを同じ場所で見届けたい。本当は今すぐにでも抱きつきたいけど駄目っ、それは駄目なの。蓮くんと同じステージに立ってコンサートがしたい、いつか夢を叶えるためにもっとヴァイオリン頑張らなくちゃって、夏に収録したコンサートホールで演奏させてもらったときにそう思ったの」
「では、なぜ・・・」
「あの時は誰もいなかったし、収録の休憩時間にステージという場所をちょこっと借りたけど、同じステージでもそれとこれじゃ違うもの。ヴァイオリニストの月森蓮が、初めて日本でやるコンサートなんだよ? 日本中だけじゃなくて、きっと世界が注目している。一番最初の大切な一歩なのに、私が出るわけにはいかないよ」


ふるふると首を横に振る髪が肩の上で舞い上がり、しなやかな赤い髪が蝶のように、ぱさぱさと軽い音を立て舞広がる。香穂子の答えは分かっていた、ヴィルヘルムに提案されたときに俺が彼に答えた時に似ているから。だが諦めきれないのは、俺の中に本当の望みから生まれる答えがあったように、腰を浮かせて食いつきかけた瞳こそ、彼女が秘めている本当の望みだと信じたいから。


「努力は裏切らない、香穂子の努力は音楽としてちゃんと現れている。今の君には、俺と同じステージに立つ力があるんだ、自信を持っていい。感情豊かな温かい音楽は、世界に羽ばたくと俺は思う・・・君の上司のヴァイオリニストも、それが言いたかったのではないだろうか? 君が奏でる本当のステージは、他にあるのだと」
「それが蓮くんと一緒に立つコンサートや、プロのステージって事? 前にも言ったでしょう、私はプロにはならないの。いつでも大切な人の傍にいて奏でたい、その為の努力は惜しまないって。私のヴァイオリンが向かう先は、蓮くんだけだよ」
「 香穂子のヴァイオリンをもっとたくさんの人に聞いて欲しい、それは俺の望みであり我が儘だ。ガーデンで君の演奏を
聴く誰もがみんな幸せそうだった、香穂子のヴァイオリンが生んだ温かさだと俺は思う」


一度決めたらどんな事があってもやり通す、芯の強さとひたむきさを秘めている強さが眩しくて、俺の中の輝きを熱く輝き出すのを感じる。香穂子がいう大切な人が、俺だという真っ直ぐな告白が、脳裏を甘く霞ませ目眩がしそうだ。俺だって君と共にありたい、隣に並ぶのに相応しい男でありたいと願っているんだ。

音楽にとって本当に大切なもの、人と人の心に伝える何か・・・俺の心の扉を開いたのは君だから。最初の一歩だからこそ、大切な君と共にありたい。ありがとうと感謝を伝えたい、同じ場所で。

心にあふれる想いを少しずつ言葉に変えて真摯に、熱く走り出しそうな想いを静めながら、伝える口調は出来るだけ優しく。辛抱強く心へ向き合うと、堅い光を放っていた香穂子の光が柔らかに緩みパステルカラーへと変わってゆく。


「自信がない訳じゃないの。蓮くんの隣に並びたいからヴァイオリン頑張っているし、ヴァイオリン弾くのは大好きだもの。蓮くんとなら、最高の演奏が出来るって思うの。でも心の整理が付かなくて・・・少し時間が欲しいの。もしも何かあったら、蓮くんの一生に傷をつけてしまうくらい、すごく重大なステージなんだって事は私にもわかるもの」
「もちろん本公演のプログラムではなく、あくまでもアンコールの中の最後の一曲だが。それでも俺は、君と同じステージに立ちたい。実は最初ヴィルヘルムに提案されたときに、俺も香穂子と同じ返事をした。だが一緒に奏でたい望みがあることに気付いたんだ。香穂子、君はどうだろうか?」
「蓮くん・・・」
「今すぐ返事が難しいのは分かっている。俺が渡した二枚のCDを聴いてから、もう一度考えて欲しい。その時にまた、香穂子の返事が聴きたい。俺が君の為に奏でた曲が、未来を開く鍵になればいいと願っている」


熱さを秘めた切なげに揺れる瞳が、ふとそらされて傍らに置いた鞄の中を探り出す。未来への鍵・・・そう呟き二枚CDをじっと見つめ、込められた音色を胸に閉じ込めるように抱きしめた君に、言葉では伝えきれない想いを届けよう。俺のCDに収めた曲たちは、君に向けた想いのすべを音色に変えた愛の言葉たち。心ごと一つに音色を重ね一緒に奏でた二重奏のCDが語るのは、喜びも苦しみも分かち合い乗り越えてきた想いの結晶・・・そして共に歩む未来を。