祈りの先へ・1



公園で語り合った後に玄関先まで送り届け、ではまた明日・・・そう言って一度は背を向けたが、熱い視線が気になり鼓動を高鳴らせてくる。もしかしたらと振り向けば予想通り、俺が道の角を曲がって消えるまではここで見送るのだと、満面の笑みを浮かべていた。吐く息も白いのに、お風邪の中をいつまでも外にいては寒いし、風邪を引いてしまうだろう? 

誰よりも君が大切だと真摯に宥めれば、私も蓮くんが大切なのと、真っ直ぐ見つめる香穂子も一歩も引かず軽い押し問答。互いにむっと見つめ合っていたが、やがてどちらとも無く頬が緩み微笑みに変わったのは、星奏学院の制服を着ていた頃が懐かしく思い出されたから。君はきゅっと俺の手やコートの裾を握り締めながら離さなくて・・・あの頃も離れがたさに、こんな会話を玄関先で繰り返していたな。


気持は嬉しいが振り向くと君がいれば、名残惜しさに帰りたくても帰れなくなってしまう。また会えると分かっていても、一晩だけでも去りがたくて歩み始めた数歩を駆け戻り、君を抱きしめてしまいたくなる・・・。だからどうか、香穂子が玄関の中へ入るのを見届けさせて欲しい。

ひたむきに見つめる熱さが伝わったのか、頬を赤く染めて小さく頷く香穂子は、きょろきょろ周囲を見わたし、恥ずかしそうに組んだ手を弄りながら上目遣いに見上げてくる。トクンと鼓動が高鳴る愛しい仕草は、彼女が見せる小さな恋のおねだりだ。誰も人通りが無いことを確認してから、柄もなく緊張してコホンと咳払いをして、そっと華奢な肩を抱き包み重ねたのは、お休みなさいの優しいキス。

春の野原に咲く花のように、綻んだ頬が桃色に染まったその瞬間、心も眼差しも全てが吸い取られて。動きを止めた俺の頬を柔らかな手の平が包み込み、軽やかな足取りで玄関の中へ消えてゆく。最後まで扉からちょこんと顔を覗かせ、小さく手を振る笑顔の香穂子を見送ると、閉ざされた扉にほっと零れる安堵の吐息。吹き抜けた冷たい夜風に背中を押されるように歩き出した・・・それなのに、まだ彼女が見送っているような気がして、何度も振り向いてしまう自分がいた。


温かさの後には寒さが戻り、行きつ戻りつを繰り返し春が来るのは、花だけでなく俺たちも同じ。だが一度傍に温もりを感じてしまうと、君がいない寒さへ戻るのは少しばかり勇気と決意が必要だな。二度とこの手を離さない想いだけが、会う度に強まるばかりだ。見送りはいらないからと、そう言ったのは俺なのに・・・。コートのポケットの中へ入れた手を耐えるように強く握り締めたそのとき、ポケットの中にあった携帯電話が、メールの着信を知らせるメロディーを響かせた。


「・・・・・・・・!」


取り出した携帯電話のディスプレイを開けば、メールの送り主は香穂子から。俺が心配しないようにちゃんと部屋に入ったことを知らせてくれる内容と、寒い夜道はポカポカになれる事を考えると、温かくなるよ・・・と。最後にハートのマークを添えながらの可愛らしいメッセージに、思わず瞳も頬も緩む。温かいものか、では君の事を想いながら帰ろう。俺が家に着くまでは、香穂子の温かな想いがずっと寄り添い、俺を包み込んでくれたんだ・・・今もずっと。





香穂子を家に送り届けてから家に戻り、真っ直ぐ自分の部屋へ引き上げてから鞄やヴァイオリンケースを置くと、暫く部屋の中を見渡し、瞳を閉じて深く息を吸い込んだ。心地良くて穏やかな、懐かしい香りがする・・・な。久しぶりに過ごす懐かしい自宅の部屋は、時が止まったかのように、日本を離れたときのまま姿を留めていて。一人で過ごした時間や、香穂子と過ごした時間など、いろいろな思い出が染み込むこの部屋が、お帰りなさいと呼びかけているような気がする。

窓の外には星がスパンコールのように煌めく、夜闇のヴェールが広がっていた。冬へ近付くに連れて凜と輝く星の光を、香穂子は俺のようだというけれど、俺はどんな時もくじけずにひたむきな輝きを灯す君のようだと思わずにいられない。
もしも君と出会わなかったら、俺は一生暗闇の中で迷い続けていただろう。挨拶を交わしたとき、君のヴァイオリンを聴いたとき、真っ直ぐな笑顔に心が温まったときなど・・・一瞬の触れ合いが、春のそよ風のように優しく心を吹き抜け、俺の中で消えることのない輝きになったんだ。

俺の心にある一番星・・・目指すべき君という星は、この夜空の中のどれよりも強く明るく、温かな光を灯していると思う。

流れゆき変わるのもある中で、変わらずにいるものがある。星の輝きや日本の俺の部屋、そして香穂子というかけがえのない存在も、ここは帰る場所でにあり、また新たに一歩を踏み出す大切な場所に違いない。



ヨーロッパの夜は日本よりも遙かに暗いと言うのもあるが、全てを闇に溶け込ませ、音も吸い取る暗闇に飲み込まれないよう、必死に自分を保っていた時もあった。だが例えば電話越し会話をした後で、耳に残る君の声を何度も再生していたときののように。すぐ傍に香穂子がいる・・・この腕に抱きしめた温もりがまだ、優しい余韻となって残っているただそれだけで穏やかな安らぎをもたらしてくれるから不思議だな。

全てを溶け込ませ存在を消す夜の闇が、余計なものを消し去り二人だけの世界を作ってくれるヴェールにもなる。夜という存在は一つしかないはずなのに、穏やかな眠りや寂しさなど、音楽と同じように君を想う心模様で、こんなにも世界は色を変える。君はどうだろうか? 同じ夜空を見上げながら、どう感じているだろう?

窓枠を握り締めながら瞳を閉じれば、家に送り届けた別れ際の香穂子が瞼の裏へ鮮やかに浮かぶ。すぐ目の前にいるような錯覚に、思わずはっと我に返り目を開けてしまうのは君には秘密だが。


窓を開けて凛と引き締まる夜の空気を吸い込むと、煌めく星の欠片が胸の中にも光を灯す、そんな気がする。高鳴る鼓動が沈まる筈なのに、一向に収まる気配が無いのは、部屋の中へ静かに流れるヴァイオリンのCDのせいだろうか。香穂子へ手渡したものと同じ、ヴァイオリニスト月森蓮としてようやく一歩を踏み出したCDの曲たち・・・。CDに収めた音は生で奏でる響きには敵わないかも知れないが、何度も聞いてもらえる中から伝えたい想いや言葉を、音という形に残すことが出来るんだ。

持てる全ての技術と表現、心に宿る想いを一音一音込めて刻み込んだ俺の言葉たち。君との二重奏がヴァイオリンで交わす会話なら、このCDに収めた曲はすっと支え見守ってくれた君へ向かう、音の恋文であり誓い。


もらったCDをこれから聴くねと、決意を示すように香穂子が電話で短く伝えてくれたのは、つい先程だった。曲を聴く前や聴いている最中、そして聴き終わった後の余韻など、その時々で感じる想いは全て違うから一つ一つを伝えたいのだと。今までになく改まった報告に緊張を覚える俺に、電話越しから小さく微笑む吐息が、まだ耳朶を熱く震わせた。この曲を通して彼女が感じてくれる想いを少しでも知りたくて、仄かに熱を帯びる携帯電話を握り締めた、まますぐさまコンポに駆け寄り、CDをセットして再生ボタンを押したんだ。

香穂子も、今頃聴いてくれているんだな。

自分が奏でる音色は、君に宛てて書いた手紙の朗読を聴いているような・・・真っ直ぐな自分の言葉をそのまま聴いているようで、落ち着かないけれど。伝えたい想いはただ一つだから、瞳を閉じ呼吸を整え、聞こえてくる歌に乗せて共に歌おう。スピーカーから流れる音に俺の命を新たに吹き込み、心のヴァイオリンで奏でながら君へ届けよう。



「・・・・・! 電話か、一体誰からだ?」


携帯電話が鳴り響き、音の世界から俺を呼び戻す。境界線のない現実と音楽の世界を彷徨うたびに、ふわりと水面に急浮上した魚は、こんな気分なのだろうかと思う事がある。もう少し浸っていたい余韻と、机に放置した電話とが両方から俺を呼ぶがどこからか香穂子の声が聞こえた気がして、はっと我に返った。もしかしたら香穂子からかも知れない、心の奥に生まれた淡い期待が小さな火を灯し、鼓動を少しずつ高鳴らせ熱さを生み出す。鳴り終わらないうちにと急いで机に駆け寄り、ディスプレイを開いたが、表示されたのは日野香穂子の名前ではなく、留学先からの国際電話。

見覚えのある名前に小さく肩を落とすと、溢れる溜息を押さえきれないまま、通話ボタンを押して耳に当てた。
電話の向こうにいるのは、数日前に空港で送り出してくれた学長先生その人に間違いはないだろう。一人で勝手に浮き立ち沈むのだから、学長先生を責めるわけにはいかないと分かっている。だがなぜこのタイミングに電話をかけてくるのだろうかと、いつもの事だが溢れる溜息が止まらない。この人は。タイミングが良いのか悪いのか・・・。


『・・・もしもし、学長先生ですか?』
『レン、ワシじゃ! お前さん、香穂子と結婚したというのは本当かね!? あの写真は何のドッキリ何じゃ!?』
『・・・・・・は? 一体何の事でしょうか』
『しらばっくれるでないぞ。ヴィルのやつが携帯電話から写真を送ってよこしたんじゃよ。“スクープ・あの二人がついに”とタイトルを付けてな。何かと思って開いたら、お前さんとカホコが結婚式をしているではないか』
『いや・・・その、違うんです学長先生。ちょっと待って下さい、それには訳が・・・!』
『離れるのは耐え難い、一刻も早く寄り添いたい気持は分かる。じゃがちょうど良い時期というのがあるじゃろう。それにカホコはヴァイオリンの弟子だけでなく、ワシと妻にとっては娘も同じじゃ』
『ですから、俺の話を・・・』


電話の向こうでは婦人が学長先生を宥める声がする。恐らくモデル役を二人で務めたガーデンでの模擬挙式やパーティーの写真を、カメラに収めていたヴィルヘルムが学長先生に贈ったのだろう。誤解を生むから秘密にしてくれと、あれほど念を押したというのに、よりによって一番やっかいな人に贈ってくれたらしい。

額に手を当てながら込み上げる頭痛を押さえ、零れそうになる溜息を必死に飲み込んだ。日本の両親は承諾済みなのか、なぜ自分たちには黙っていたのかと、矢継ぎ早の質問と抗議を、今はじっと受け止めるしかないだろうな。部屋にそのまま流れ続けるCDの、ヴァイオリンの音色が早く香穂子の元へと俺を急かすけれど、ありのままを正直伝えるまでの道のりは長そうだな。