未来への鍵・18




香穂子と俺がヴァイオリンを奏でるステージは、テラスの石畳に続くハートの形の芝生だ。彼女の無邪気さが自然に溶け込む力を持つこの場所で、喜びと楽しさを押さえきれない真っ直ぐな笑顔を受け止めれば、呼びかける声もいつもより心に強く響き、俺の心の弦を震わせてくれる。

ゆるやかに・・・時には軽快に弾むボウイングはヴァイオリンの呼吸。君は俺だけを、俺は君だけを見つめながら重ねる音色は、想いを託し甘く交わされる恋の会話。お互いの呼吸と瞳を重ね、重なる音色の心地良さと楽しさに、いつしか俺も君に微笑んでいて。生まれる音色が温もりを灯せば、更に笑顔が生まれ心も弾むんだ。


様々な果実を実らせる木々と、柔らかな芝生が覆う実りの庭を望むテラスには、模擬挙式をしていた間に真っ白ガーデンチェとテーブルが用意され、第二のパーティー会場へと姿を変えていた。円形のテーブルの真ん中に置かれている、キャンドルと白い花やグリーンを浮かべた小さなガラスの小鉢も祝福の歌を奏でているようだ。テーブルも可愛くおめかしだねと、先ほど頬を綻ばせていた香穂子が纏う、純白のドレスのようだと俺は思う。

解放されたガーデンにパラソルの花が咲き、ブッフェスタイルで提供するのは、シェフパテシエが丹誠込めて作った、甘く華やかなデザートたち。木漏れ日を浴びて宝石の煌めきを放つケーキに、ゲストも心躍らせ、ゆったりと堪能する正餐とは違い、活気溢れる空気が生まれていた。始めの数曲ではグラスや皿を片手に、ガーデンテントやテラスの席で寛いぐゲストが多かったが、ふと気付けば誰もが席を立ち、全員が俺たちの演奏を近くで聞こうと集まってくれている。


ほら、周りを見て?と視線で合図をしてくれた香穂子につられて人垣を見渡せば、グラスやデザート皿はボーイやテーブルに預け、楽しそうに音楽を聴き入る姿がそこにあった。微笑みを浮かべながらパートナーと視線を合わせるカップルや、音色に乗って肩を揺らしながら一緒にリズムを取ったり、もちろん最前列の真ん中ではデジカメを構えるヴィルヘルムが熱心にシャッターを切っていたが。


見守る温かな人たちへの感謝の心と、幸せな未来を託して奏でよう・・・俺たちを繋ぐヴァイオリンで幸せの二重奏を。
そして弦を奏でる弓に想いを乗せ、左手で感情を紡ぎ音色で言葉を届けよう。誰よりも大切で愛しい君に。
こんなにも幸せで満ち足りているのは、今目の前にあるのが、少し先の未来で俺たちを待っている光景だから・・・そう信じたい。二人で歩み出す特別なこの日に、変わらぬ愛を形に出来たらどんなに素敵だろうか。


海を離れていてもお互いをいつも信じ合い、高め合えた数年間がどんなにか心強かったか、とても一言では言い尽くせない。だが二つの道が寄り添う光の出口まで、あともう少し。この先もお互いを支えられるように、高く羽ばたけるように諦めずにいよう、きっと大きな力になると思うから・・・きっと君を迎えに行く。二重奏の曲もラストを迎え、甘く幸せを紡ぐ愛の挨拶が高らかにクライマックスを歌う中で、俺の瞳を真っ直ぐ受け止める香穂子の瞳が大きく開かれた。俺の声が、聞こえたのだろうか?

潤みだした涙を零さないように何度も瞳を瞬かせ、煌めく瞳で一生懸命笑顔を作る輝きが、心にストンと滑り落ち光のリングに変わる。薬指を彩るプラチナや宝石よりも輝きを放ち、日だまりよりも温かい心のリングは、微笑みを返す俺だけでなく、きっと君の心にもはまったんだ。共鳴する光と君の笑顔が、確かに届いたのだと、君の答えを俺に教えてくれた。





二つの弓が同時に弧を描き下ろされると、吹き抜けるそよ風が空高く音色の余韻を運んでくれる。沸き上がった鳴りやまない拍手と向けられる笑顔は心からの賛辞だけでなく、もっと聞きたいとアンコールを願う声。弾き終えた達成感に大きく息を吸い込み、火照りを冷ます風を受け止めながら呼吸を落ち着かせると、香穂子と名前を呼びかけ視線を向けた。大きな拍手の渦に驚き目を見開く香穂子は、照れ臭そうにはにかみながらも、喜んでもらえて良かったねと桃色の頬で真っすぐ俺を振り仰ぐ。

受け止めた想いが音色に変わり、更に大きくなって帰ってくる・・・この小さな緑のステージで繰り返される想いの連鎖。
心を込めて奏でた音色は、デザートに負けない甘い砂糖菓子になり、テーブルを彩る白い花たちに見守られる俺たちもまた、一つの花になる・・・。いや、中心でヴァイオリンを奏でる香穂子と俺が花の花芯なら、君が言うように一つにまとまる集うゲストやスタッフは、喜びを紡ぐ花びらなのだろうな。


「長いようであっという間だったよね、蓮くん。私もまだもっと弾いていたいなぁ、すごく楽しいんだもの。もう打ち合わせした二重奏は全部弾き終えちゃったから、あとはアンコールだよね」
「俺も、楽しかった・・・ありがとう香穂子。最後は二人で奏でるワルツだったな。初めて俺のいる留学先を訪ねたクリスマスに、ヴィルヘルムの家のパーティーに呼ばれて奏でた、新郎新婦のためのワルツ。本来はモデル役の俺たちがワルツを踊るんだろうが、パーティーのラストに相応しい演奏しよう。だが・・・いいのか?」
「ん?どうしたの蓮くん」
「本当はワルツを演奏するのではなく、踊りたかったんじゃないのか? いつかは自分もと、そう願いながらいつも奏でていたと言っていただろう?」
「それは踊れたらいいけど、他にこの曲ヴァイオリンで弾ける人がいないもの。夢は本物のお嫁さんになるときまで、取っておこうかなって想うの。それに、やっぱりみんなの前で踊るのは恥ずかしいし。だから・・・ね?ここに集まる未来の新郎新婦さんたちが、思わず踊り出しちゃうくらいに楽しく演奏しようよ。重ねる音色で心の手を取り合えば、ヴァイオリン弾きながらでも蓮くんと踊れるもの」


僅かに浮かべた切ない微笑みは、見間違いかと思うほど一瞬でふわりと柔らかな微笑みに変わった。下ろしたヴァイオリンを肩に構え、Aの弦から順に調弦をする香穂子が気丈に振る舞うほどに、心が甘く締め付けられる。二重奏だけでなく本当は、かつてパーティーで見た光景のように、ワルツが踊りたいと願う気持が分かるから。

確かに大勢の前で注目を集めながらは照れ臭いが、そういえば星奏学院に通っていた高校生のとき、文化祭の後夜祭で君とワルツを踊ったな。懐かしい・・・とふいに脳裏へ青いドレスを着た香穂子が浮かんだのは、きっと俺も君の手を取りたいと願っているからだと思う。最後の一曲を奏でた後に君へ手を差し伸べたら、俺の手を取ってくれるだろうか・・・。





「・・・・・・! ヴァイオリンの音色が聞こえる。それにこの曲は・・・」
「蓮くんこの曲、私たちが演奏する予定だったワルツだよ。アンコールの曲は秘密にしていたから、伝えていなかったのに一体誰が弾いてるんだろう・・・って、あ! 蓮くん後ろを見て、チーフがヴァイオリン弾いてるよ!」
「本当だ、いつの間に。そういえば衣装室で俺のフロックコートを選んでくれたときに、彼女が言っていたのは本当だったのか。あの時から、いや俺が香穂子を訪ねたときから、彼女たちの中で密かな計画が動いていたのかも知れないな」
「え、チーフは何て言っていたの?」
「俺たちが二人とも演奏したら、ワルツを踊る時にヴァイオリンを弾く人がいなくなる・・・君の夢を叶えたいのだと。この先俺たちが再び海を隔て、一人の時間に戻っても前に進む力になれるように、頑張る香穂子への贈り物だそうだ」


驚きに見開いた瞳が潤みだした香穂子に微笑むと、くしゃりと歪みかけた涙を必死に堪える目尻に指先を伸ばし、頬を包みながら目尻の滴を拭った。後ろを振り向いた少し先には、デコルテを出した黒いシンプルなドレスを纏う、チーフと呼ばれたヴァイオリニストが、艶やかで煌めき溢れる滴の音色を奏でている。

まだ想いを交わす前、互いに片思いだった頃に文化祭で共に踊った曲でもあり、初めて留学先へ訪ねてくれたクリスマスに、心を重ね奏でた思い出の曲。この曲を楽しそうに演奏する香穂子の音色に誘われた新郎新婦が、打ち合わせをしていないのにファーストダンスのワルツを踊り出すという、幸せを願う旋律。

俺たちがアンコールにワルツを奏でるとは伝えていなかったが、彼女の中では自分が演奏するのだと最初から決めていたのだろうな。香穂子が演奏を担当するパーティーで、いつも最後に奏でていたというワルツの曲だから、彼女ほどのヴァイオリニストにもなれば、聞いただけで音や曲名も分かるはずだ。


「わぁっ! ねぇ蓮くん、テラスから大きなハートが来るよ」
「は? 大きなハート?」


やがて芝生を取り囲む人垣が割れて、石畳のテラスから運ばれてきたのは、シルバーに艶めくワゴンに乗った大きなハート型のケーキ。周りを縁取るホイップクリームの内側に、苺がぎっしりと表面に敷き詰められた、見た目からして照れ臭い赤いハートに、見学のカップル達からは感嘆の溜息が沸き上がった。香穂子までもが身を乗り出し、このブライダルハウスの名物なんだよと興奮気味に目を輝かせているのは、大好きな苺が溢れているているからだろうな。何が起こるのか分からずただ成り行きを見守り、佇むしかできない俺と香穂子の前で止まると、ワルツの旋律が一際高らかに歌い弓が空を切った。


降り注ぐ拍手に拍手に恭しく礼をすると、俺たちを真っ直ぐ見つめ、楽しそうに歩み寄ってくる。瞳と口元が悪戯な笑みを浮かべているのは、何かまだ内緒があるのだろうか。喜びを潜め警戒心を表す香穂子が、きゅっとフロックコートの腕を掴む力。安心してくれと微笑みながらも、心の中で高まる鼓動を隠すのに俺も必死だ。なるほど、無邪気は最強だと言った君の言葉が分かった気がする。

だがびっくり箱を空ける前の気持に、いつしか待ちきれない楽みを覚え始めた自分にも驚いてしまう。香穂子、君はどうだろうか? 心の中に耳を澄ませば、幸せの予感を知らせる音色が囁き声で響くのが聞こえるだろうか。
飛び出した驚きは、隠れた喜びの扉を開き小さな箱から溢れ出す・・・もう何が来ても驚かない覚悟をしておかなくては。


「さぁお二人さん、パーティーの最後には新郎新婦がファーストダンス・・・ワルツをみんなの前で披露するんでしょう? いつかこんな日が来るかと思って、密かに練習しておいて正解だったわ。でも踊る前にもう一つ最初の一仕事よ。ゲスト達が集まったこの時だからこそ、ウエディングケーキに入刀しなくちゃ。ハートの庭で苺ハートのウエディングケーキ、どう?素敵でしょう」
「え、いや・・・その俺たちは・・・。まだアンコールの演奏が残っていますし」
「ちょっとチーフ、私たち何も打ち合わせで聞いていませんよ! そんな・・・恥ずかしいですっ」
「日野さん苺大好きでしょう? いつも美味しそうだなって羨ましそうに指をく咥えていたから、今日は特別サービスよ。きっとあなたたちの本当の結婚式では、ヴァイオリンの形のケーキとかこだわりそうだし・・・ね。さぁヴァイオリンを置いて来たらナイフを持ってね。最前列でカメラを構えている二人の友達な金髪のお兄さん〜シャッターチャンスよ!」


呼びかけられた先では大きく手を振るヴィルヘルムが、ベストショットは任せてくれと日本語で声援に応えていた。すっかり馴染んで楽しそうなのは彼の人柄なのか。溢れる溜息を零せば、隣で苺に負けず真っ赤に顔を染める香穂子が、心配そうに振り仰ぐ。頬に熱を感じる俺も赤くなっているのかも知れないな。ブライダルハウスの名物であるハートのケーキの説明を終えたチーフが、後で皆さんにも取り分けますからねと周囲に呼びかける声に、わっと沸き起こる歓声に背中を押されて歩き出すと、肩越しに香穂子を振り返り緩めた瞳で微笑みを向けた。


「香穂子、行こうか・・・」
「蓮くん待って、どこ行くの? ねぇもしかしてサプライズ続きで怒っちゃったの?」


待ってと慌てて声をかける香穂子の声に立ち止まれば、刺繍縫いが施されたドレスの裾を摘みながら、ヴァイオリンを持って俺の後を追いかけてくる。香穂子が隣へ並ぶと一緒に並んで歩き出すが、俺を心配そうに振り仰ぎながらも、立ち去って良いのかと賑わう背後も気にして、ちらちらと振り返っている。そうではないんだと、安心してもらえるように向けた笑みに、ほっと緩んだ彼女の笑みが、何度も恋するように俺の鼓動を弾けさせた。


「確かに照れ臭いが嫌ではないんだ、だから心配しなくて良いから。楽器を置かなくては君とナイフを握れないし、ワルツも踊れないだろう? 演奏の時に、周りに集うゲストを見て欲しいと、君は視線で教えてくれた。あのときも今も集う人たちの笑顔が優しくて温かい、そう思う。こうなったら、演奏は彼女に任せて俺たちも楽しまないか?」
「アンコールのワルツはヴァイオリンの演奏じゃなくて、一緒に踊るって事だよね。私は嬉しい、すごく嬉しいの。でもチーフってば一度決めたらテコでも動かないから、蓮くんに迷惑をかけるのが一番申し訳ないって思うの」
「香穂子の願いを叶えたいのは俺も同じだ、それにいつか君とワルツを踊りたかったのは、俺の願いでもあるから。まさかこんな形で一足早く踊るとは思ってもいなかったが・・・。ここは君と俺のステージだ、アンコールの幕が下りるまで精一杯力を出し切り、最高のステージにするのが演奏家の勤めだと俺は思う。どんな形でも、そうだろう香穂子」


ガーデンの隅に用意された楽器置き場へ戻りヴァイオリンを置くと、隣へ楽器を置いた香穂子に向かい合い、瞳を真摯に見つめた。真っ直ぐな強さで澄み渡った光の泉へ自分を映し、瞳の奥へこの胸に沸く熱い想いを伝えるように。うん!と大きく頷く笑顔が綻べば俺の中にも幸せの花が咲き、春を呼ぶ風となる。白いドレスを纏ったふわりと優しい花びらの君を、軽やかに舞い踊らせる春風になろう。


「香穂子、一緒に踊ってくれるだろうか」
「ワルツを踊るのは、蓮くんと踊った高校の文化祭以来だから、ステップとかターンとか、上手く踊れないかもだけど・・・その。よろしくお願いします、楽しもうね。蓮くんの脚を踏まないように、気をつけなくちゃ」


差し出した手に重ねられた香穂子の手を、視線を交わらせながら握り締めた。確かな温もりと、託された心ごとしっかりと。花の香りを運ぶそよ風に背中を押され、互いに踏み出す一歩は、二つの道が寄り添い合うための鍵。手を繋いだまま芝生の中央に戻ると、持ち手にリボンの付いたナイフがスタッフから託された。すぐ目の前で張り切ってデジカメを構えているヴィルヘルムも、その背中に注目を集めているのだとは気付いていないのだろうな。


切り開くのはケーキだけでなく、共に歩む未来までも。一つのナイフを握り締める手が、触れ合うだけでも鼓動が弾けてしまいそうな熱さが身体を駆け抜ける。触れ合う頬を桃色に染める香穂子と視線で誓いを交わしながらハート型のウエディングケーキに入刀を終えたその時に、さぁ踊りなさい?と呼びかけるようにヴァイオリンの音色が響き渡った。


シルバーのワゴンがスタッフの手によって再び下がると、俺たちのすぐ近くでヴァイオリンを構えたチーフが緩やかで華麗なワルツの旋律を奏で始める。空へ弾けた煌めく音の宝石が身体に入り込み、自然に動き出す心と身体に戸惑うけれど・・・見えない手で導き出された願いには敵わない。香穂子が奏でるワルツを聞いた新郎新婦たちも、こんな気持だったのだろう。その場に俺はいなかったが、いつでも心では二人で奏でていたんだったな。


ブライダルハウスのセレモニーだから、先ほどのケーキと同じく別なスタッフが、マイクでファーストダンスについての説明をしていた。共に聞く僅かな待ち時間さえも、どうしたらよいのか戸惑ってしまい照れ臭さに熱が募ってしまいそうだ。

期待に満ちた歓声が密やかに沸き上がったのは、香穂子がいつも奏でているとワルツを踊り出すという評判や口コミを知っての事だろう。隣に佇む香穂子は、おしとやかさを保とうと必死に微笑みながらも、次第に頬が真っ赤に染まってゆくのが愛おしい。さぁ今度は俺たちが踊る番だ、花びらを回せていた春風の君が花びらになるのだから。





ジャルダン・ドゥ・ミュリエールという実りの庭で踊る俺たちも、とびきり甘い実りの果実。緊張と喜びではち切れそうな鼓動を深呼吸で静めながら、舞踏会の始まりを告げるように恭しく礼をして。互いの手を取り、呼吸を合わせ一歩を踏み出そう。共に奏でるヴァイオリンの呼吸のように、軽やかに弾むステップとくるくる回る君のターンに、心も弾み絡み合う視線が甘さを増してゆく。二重奏のように俺は君だけを、君は俺だけを見つめ、二人だけの世界を作るんだ。


はっきりした形ではないけれど、穏やかで優しい気持ちになれる想いが胸の中から満ち溢れる。誰かに優しくしたくなるような、パステルカラーの色合いを持つこの温かさを、人は幸せというのだろう。
温かい想いが込められたサプライズに満ちる、パーティの第二楽章が華麗に幕を開けた。


楽しもう・・・心で奏でる音楽を響かそう。
そうこれは、いつか見る俺たち二人が紡ぐ未来の景色。