未来への鍵・16



目の前に広がるのは果てしなく広がる空と、心癒される緑の木々。永遠の誓いを交わす二人の心を象徴する清楚な白バラが、白いテントのパヴィヨン・ドゥ・ノーチェスに造られた祭壇や、石畳のバージンロードの両脇を飾っていた。太陽の光と頬をくすぐるそよ風も、神聖な儀式を祝福してくれるようだ。祭壇前に待つ俺から少し離れた場所では、国際的に活躍するヴァイオリニストでもある香穂子の上司が、黒いスーツからロングのドレスに着替え、ヴァイオリンを奏でている。艶やかな光にも似たヴァイオリンの前奏を聴きながら、光の集まるバージンロードの奥を見つめれば、バラのアーチを潜った花嫁の入場だ。


真っ白いドレスに身を包み、咲きかけの丸いバラだけを集めたブーケを手に持つ香穂子が一人、ゆっくりと進み俺の元へやってくる。デコルテを広く開けたビスチェにはシルクメリアのバラが彩り、ボリュームを抑えたAラインのスカートが、彼女のしなやかさを美しく描いてい。華やかな刺繍縫いのレースがドレスの表面を覆い、同じレースのショートボレロをコーディネイト。そしてに大きな刺繍が施されている、聖母のようなレースのマリアヴェール。

顔を隠さずベールの端を頭の上に被せ、頬の横にレースの端がくるように着用するから、俺からも君からも互いの表情を見ることが出来る。実際の教会ではフェイスアップの儀式が出来ないため、このベールを禁止している場所もあるという。予行練習の今日は、集うゲストに愛を誓う人前式だから良い機会でしょう?・・・というのは衣装を見立てたチーフの言葉だ。予行練習・・・そうだな、これは模擬挙式の手伝いだけれども、本当に君と結ばれる瞬間だったら、どんなに良いだろうか。


透明な光に溶け込む香穂子が眩しくて愛しくて・・・瞳を細めると、コツンと石畳にヒールの音を鳴らし、俺の前にやって来た香穂子が小さく微笑んだ。堅く緊張しがちな心を穏やかに和らげてくれるのは、屋外の開放感と見守る温かな音色と眼差したちがあるからだと思う。

不安半ばでガーデンに向かう俺たちに、あなたたちは本番の舞台度胸があるから大丈夫だと、そう言って現れたチーフが黒のドレスに着替えヴァイオリンを持っていたのを、香穂子は嬉しそうに目を輝かせ、ほっと胸を撫で下ろしていたな。ヴァイオリンと共に見守っているから・・・力強く温かに響く声を、君も心で感じたのだろう。


元から一つであったかのように、差し伸べた手に自然に収まる柔らかな手を握り締めた。フィッティングルームから恥じらうように現れた時には、盛装をしたお互いに息を呑んで見とれたのはほんの一瞬だけ。甘い余韻に浸る間もなくスタッフとチーフから、膨大な段取りを短時間でたたき込まれ、俺も香穂子も覚えるのに必死だったけれど、ようやく落ち着いて君を見つめることが出来るな。


「香穂子、とてもよく似合う・・・その、綺麗で見違えた」
「ありがとう、蓮くん。蓮くんも素敵過ぎて、ついうっとり見とれちゃうの。覚えた段取りを忘れないようにしなくちゃね」


高鳴る鼓動を押さえつつ、香穂子だけに聞こえる声で囁けば、桃色に染めた頬で微笑み返しの花が咲く。小さく背伸びをして、手に持ったブーケでゲストから隠すように口元へ添えると、嬉しそうに囁く甘い吐息が頬と心を熱く焦がすんだ。二人で手を繋ぎ合ったまま、いつもは牧師が立つ祭壇前の机に回り込むと、正面の祭壇ではなく大勢のゲストへ向き直る。
新郎新婦のモデルをと頼まれた模擬挙式は、牧師がいる神前ではなくゲスト達に二人の愛を誓う人前式というものらしい。初めて聞いたが、式と言ってもいろいろあるんだな。


だが祭壇に背を向け皆の方を向いた時に、それまでは幸せそうな微笑みを浮かべていた香穂子が、あっと声を出しかけ驚きに目見開く。繋いだ手に力を込めながら、必死に俺へ訴える君の気持は分かる。俺も最初は驚いたから、苦笑を返すことしかできないけれど。視線の先・・・つまり、パヴィヨン前に並んだ白ガーデンチェアの最前列に座るのは、デジカメを構えたヴィルヘルムだったから。


来るだろう事は予想していたが、何というタイミングで現れるのだろうか。しかも、何も伝えていなかったのに最前列に座っている。きっと彼は撮った写真たちを、帰国したら音大の仲間や学長先生たちに喜んで見せるのだろう・・・クリスマスに香穂子とワルツを奏でたお手製アルバムを披露した時みたいに。眉を寄せながら溜息を吐くと、隣の香穂子が肘で俺を突き
、蓮くん笑顔だよと脇から小声で囁くんだ。


今は見られたくなかったような、気まずいような複雑な気持と、真っ直ぐ注がれる輝く瞳のプレッシャーに背中へ冷や汗が伝う。演技だとか頼まれたモデルだという言葉は、彼には通じなさそうだ。俺たちの視線に気が付き、小さく手を振り返すヴィルヘルムが、構えたデジカメを差し出しながら唇で言葉を伝えている。離れているから言葉を聞き取れないが、俺たちの写真を撮るのだと張り切っているのだろう。香穂子が言っていた、無邪気は無敵だと・・・その言葉はヴィルヘルムの為にもあるかも知れないな。


ウエディングサロンの模擬挙式だから、列席者は未来の新郎新婦であるカップルたち。彼らの夢や未来を預かっているだけに、演奏の大舞台に一人で上がるよりも多くのものを背負っている気分になる。だが香穂子とならば俺たちも、そして彼らの願うとおりの幸せが作り出せると信じている。

俺たちが幸せにならないと、皆に幸せを届けられられないのだろう? きゅっと強く手を握り締め、不安そうに緊張と不安で瞳を揺らす香穂子にそう言って微笑むと、花よりも可憐な笑みが綻んだ。


互いに手を取り見つめ合いながら誓いの言葉を交わし、指輪の交換。小さなリングを摘む指先が震えて落としそうになったけれど、指先に灯った温もりがじんわり身体中に広がるのを感じる。あらかじめサイズを調べておいたリングは初めて手にするとは思えないほど、しっとり指に馴染むから、俺たちのためにあるように思えてしまう。心の底から今、本当に愛を誓っても・・・良いだろうか。


本番と同じように式を進めるから、紺地のベルベットに金の刺繍が施された結婚証明書にも、一人ずつ羽のペンでサインをする。俺が頬へ熱を募らせれば、隣で寄り添う君にも移ってしまう。心はもう夫婦だから・・・なんて映画で聞くような台詞が脳裏をよぎってしまったのは、恥ずかしがり屋の君には秘密にしておくとしよう。


そしてたくさんの視線を一心に集めている緊張と、照れ臭さからく鼓動の高鳴りが最高潮に達したのが、誓いのキス。香穂子と俺と二つの鼓動が合わされば更に大きな波になるから、飲み込まれてしまいそうだ。シャッターチャンスだと興奮気味に席から腰を浮かせ、デジカメのファインダーを覗いている目の前にいるヴィルヘルムは、なるべく見ないようにしなくては。出来ることなら早く式を終わらせて、ヴァイオリンを弾きたい。

本当にやるのだろうか・・・無言の沈黙だけが、もどかしくてくすぐったい。香穂子は背を向けているが、俺からは少し離れた視線の先にいるチーフへちらりと視線を送れば、にっこりと笑顔で返されるだけだ。どうやら拒否権は存在しないらしいな。


「・・・くん、蓮くん」
「香穂子・・・」
「蓮くんぼーっとして、どこにキスしようか悩んでたんでしょう? おでこにチュウだよ、おでこにチュウ! チュッって、羽みたいに軽く一瞬でね」
「・・・分かってる。唇へ誓うキスは、俺たちが本当に夢を掴んだ時まで取っておこう。」照れ臭いのは、俺も一緒だ
「違うの、今も先もおでこにチュウなの! いつもみたく深いのは恥ずかしいし、みんながびっくりするから駄目だよ」


我に返れば香穂子がフロックコートの裾を引っ張り、顔を寄せて必死に囁いていた。真っ赤に染めながら「おでこにチュウ」と囁く唇が、愛らしくすぼめられては吸い付いてしまいたくなるじゃないか。だがここで彼女の機嫌を損ねたら、この後の二重奏で音色が重ならなくなるかも知れない・・・それは困る。

誓いのキスは唇にと、密かに考えていたのは本当だが見抜かれていたとは思っていなくて、焦る心を静めるのに必死だけれど。 逸る気持ちと躊躇いが入り交じる奥底で、熱く駆け巡る想いが俺を動かした。瞳を閉じて僅かに上を向く香穂子に身を屈め、誓いは願い通りに額へ届けた優しいキス。小春日和で咲いた季節違いの花・・・二人で勤めるモデルの式ではなく、本当の春にまで取っておこうか。




「蓮くんごめんね、急に巻き込んじゃって・・・怒ってる?」
「流れの速さに驚いたが、怒っていないから心配しなくていい。まさか香穂子のヴァイオリンを聞きにて、君と結婚式を挙げるとは思っても見なかった。その、本物ではなくブライダルフェアの模擬挙式だが」


白い石畳のバージンロードを抜けてバラのアーチを潜った俺たちに降り注ぐのは、天高く舞うフラワーシャワー。フロックコートの腕に絡める香穂子は、周囲に笑顔を向けながらも、合間に俺の軽く腕を揺さぶり内緒話を囁いてくる。微笑みの隙間に見せる困った顔も可愛いと思えてしまい、いつになく可憐に着飾る彼女に胸が高鳴る。触れた場所が熱く疼いて火を噴き出してしまいそうだと、君は知らないだろうな。驚いたけれども、幸せな気持に満ちているのは本当の気持ちだ。


「チーフったら一度アイディアが閃くと、思いついたら即実行で強引なんだもの。楽しくて自信があるのは分かるけど、いつも巻き込まれちゃうの・・・もう〜困っちゃうんだよ。でもね、最後には私も笑顔になっていて、一緒に楽しんじゃうの。不思議だよね。私も、今はとても幸せだよ。ほら見て、見学に来たカップルさんたちが、みんな幸せそうな顔しているよ」
「香穂子と似ているな。君も思いついたら、後先考えずすぐに行動に移すだろう? 自分よりも相手を想う真っ直ぐなひたむきさが、俺は好きだ」
「え!? チーフが私と似ているの?」
「どこに飛んでゆくのだろうかと、心配で目が離せないけれど・・・そうだな。俺も君と一緒にいると驚きの連続だが、いつの間にか楽しんでしまうんだ。たったひとときだけでも、日本へ帰国して良かったと思う。俺の方が大きな贈り物をもらってしまったな」
「早く蓮くんとヴァイオリン弾きたいな。きっと温かな気持に満ち溢れた今なら、素敵な音色が重ねられると思うの」


二人で踏み出す一歩で未来を切り開く・・・その先を照らし導くヴァイオリンの音色が、木漏れ日のシャワーに優しく溶け込み心地良い。太陽の微笑みと小鳥のさえずり、そよ風とヴァイオリンの祝福を受けるガーデンウエディング。それは未来の扉を開く鍵を共に手に入れて、二人で開いた光の先にある、いつか俺たちもと願う未来の光景なのかも知れない。


先ほど君も奏でていた、花びらに乗って舞う祝福のヴァイオリンの調べは、想いを乗せて人から人へと運ぶ。実りの庭に佇むパヴィヨンで、温かな想いの果実があちらこちらで実らせている・・・君にはそう見えないか? 

俺たちも奏でよう、 俺も早くヴァイオリンが弾きたい。想いを音色に託し、心ごと君と重ねよう。
誓いの口づけよりも甘く熱く優しい言葉を、ヴァイオリンの音色で語ろうか。


どちらとも無く微笑みが生まれ、交わす瞳の奥に灯るのは、大聖堂の挙式にも劣らない感動の予感。
俺と香穂子、そしてゲストのである未来の新郎新婦のカップルたち、ゲストハウスのスタッフ達の心を一つに纏めていた。