未来への鍵・15



サロンの表側を回ると混雑しているから、スタッフ用の裏口から来るように・・・。そう指示されたらしく、手慣れた様子で複雑な通路を進む香穂子の後へついて行くと、辿り着いた先は衣装室だった。重厚な扉を開けると事務所になっており、既に話を聞いていたスタッフが電話で到着を伝えると、黒いスーツに身を固めたチーフが待っていたわと出迎え手くれて、香穂子と俺を奥へと案内してくれる。シンプルな従業員通路の壁を隔てた向こう側は、打ち合わせのサロンとドレスの展示室なのだろう。先導についてゆくとコツコツ響く靴音の中に、ブライダルフェアにやって来たカップル達の賑やかな声が遠く聞こえてくる。

「ここより先は表舞台」そう書かれた扉を静かに押し開けば、目の前の光景は優雅なサロンへと変わり、品の良い調度品たちの空間に穏やかなクラシック音楽のBGM。ガラス張りのドアを通り抜け待合いスペースを通り過ぎると、先ほど俺たちが過ごしたリビングに似た空間が広がっていた。

突き当たりにある窓は天井まである大きなもので、白いレースのカーテンが、受け止めた光を柔らかに変えている。そして天然の照明がもたらす光を生かすように置かれた鏡が、壁のように広く大きいのは、裾の膨らんだドレスを着たり二人で並んだ時に確認をしやすい為だろうか。奥行きと高さのある部屋には淡い桃色の絨毯が敷かれ、天井や壁紙まで白を基調にしており、明るさと開放感に満ちている。窓辺と中央に配置されたソファーとテーブルは、心地良く白に溶け込み、優雅なサロンに近い。


「ここは、どこだ?」
「うわ〜凄い綺麗。確かこのお部屋はね、新郎新婦さんがウエディングドレスを試着したり、メイクの打ち合わせをする部屋なんだよ。滅多に来れない部屋だから、ドキドキしちゃう」
「・・・ウエディングドレス?」


なぜウエディングドレスが用意された、特別の部屋に案内されたのだろう。ガーデンパーティーで急遽、香穂子と一緒に演奏する事になった俺の服を借りたいと頼んだら、香穂子も一緒に着替えるのだと言われたそうだ。忙しい日だから単に部屋が空いていなかったのかなと、香穂子は首を傾げつつも楽観的だが、俺たち二人にぴったりな揃いの衣装と言うのが気に掛かる。そんな疑問がすぐに泡となって消えたのは、隣にいる香穂子が感嘆の声を上げたからだ。

きょろきょろと周りを見渡していた香穂子の視線の先を追えば、壁一面を彩る白さが、背の高いハンガーラックにかけられずらりと並ぶウエディングドレスだと気付く。ディスプレイされて立体に飾られたドレスに目を奪われる香穂子は、両手を握り締めながら瞳をきらきらと輝かせ、ほうっと甘い吐息の花を何度も咲かせていた。

応接テーブルの隣にあるラックには、あらかじめ選び出されたような数着のフロックコート。明らかに挙式で新郎が着る物だが、心臓が早駆けする胸騒ぎを覚えるのは何故だろう。まさか、俺があれを着る・・・のか?


うっとり夢見る乙女になった香穂子に、いつの間にか瞳を緩めて見守っていた自分に気付き、慌てて頬を引き締めるが既に遅かったらしい。ヒールの音をかき消す絨毯のせいで近くにいたことに気付かず、我に返ればすぐ傍で俺たちを愛おしそうに見つめていた。小さく咳払いをして気持を落ち着かせて、まずは衣装を借りる礼を丁重に述べなければ。


「ふらっと見学にきた月森くんに演奏をお願いしたのは私なのに、さっき電話で日野さんから話を聞くまで、衣装の事をすっかり忘れていたわ。私こそごめんなさいね」
「突然無理なお願いをしてしまって、すみません。衣装を貸してもらえると香穂子から話を聞きました、お忙しいのにお手配をありがとうございます」
「いいのよ、私も楽しいから気にしないでね。それよりも!二重奏をする月森くんと日野さんに、ぴったりな衣装を用意したのよ。日野さんの青いドレスとっても素敵なのに残念だけと・・・さっ、二人とも早く着替えましょうね。着た感じによってはサイズ直しもしたいし、日野さんはメイクもしなくちゃだし」
「あの・・・彼女が着ている青いドレスに合わせて、俺だけフォーマルなスーツをお借りできればと、思ったんですが」
「ふふっ、もちろん分かってるわよ。ただしレンタル料の代わりに、ちょっとだけ二人にお手伝いしてもらえると嬉しいんだけどな〜」
「あ! やっぱりチーフってば、また何か企んでますね。嘘がつけないチーフは何か考えるとすぐ顔に出て、そわそわ落ち着きなくなるから分かるんです。黙っていても、その悪戯っ子な瞳は嘘つけないですよ」


嫌な予感がするんですと、ぷぅと頬を膨らませながら睨む香穂子だが、君だって隠し事は苦手だし楽しいことを思いつく度に、瞳を輝かせているだろう? 自分で自分の事を言っているように思えてしまい、つい小さな笑いが込み上げたのを彼女は見逃さなかったようだ。蓮くん笑っている場合じゃないよ、私たちに関わるんだからねと真剣そのものな香穂子は、上司の思いついた悪戯・・・ならぬ企画に、たびたび巻き込まれたことがあるのだろう。


真摯に詫びる俺に蓮くんは私が守るよと、そう真っ直ぐ振り仰ぐ瞳が強い光を放ち心へ響く。君にばかり守られてはいられない、俺だって君を守りたい。だが、君が何に対して身構えているのか分からないからもどかしいんだ。もう逃げられないからすぐに分かるよと、困った瞳で肩を竦めるが・・・その、俺たちはこれから二人でヴァイオリンの演奏をするのだろう? 

音もなく静かに絨毯を歩くチーフが、部屋の中央に置かれた応接セットに俺たち招くと、隣にあるハンガーラックの傍らに立ち手の平で示してくる。その中の一着を取り出し俺に見せた・・・という事は、予感の通りに俺が着るらしい。


「月森くんはこのフロックコートを着てね。いくつか色やデザインの違う物を選んだんだけど、どれがお好みかしら? 胸に挿すブートニアはちょっと待っててね、日野さんのドレスが決まったらお揃いを作る予定なの」
「・・・は!? ちょっと待って下さい。それはパーティーの主役である新郎の盛装ですよね。まるで結婚式じゃないですか」
「そうよ、まるでじゃなくて結婚式なの。実はね、ブライダルフェアに来るお客さんが予想以上に多くて、急遽模擬挙式とパーティーを別会場で増やす事になったのよ。いつもは従業員からカップルを仕立てるンだけど、みんな忙しくて・・・二人にはちょっとモデルのお手伝いして欲しいの。この企画は二人にしか頼めないのよ」
「モデル!?」


今何と言われたのだろうか、新郎新婦のモデル役? 俺たちは演奏をするんじゃなかったのか? 事実が飲み込みきれないながらも、香穂子と一緒ならば良いかもしれない・・・頭の片隅でそう思えてしまうのが不思議だ。真っ赤に顔を染めた香穂子が駆けだし、反論しようと懐に詰め寄るが、どんなにぷぅと頬を膨らませ睨んでも、笑顔でかわされてしまい勝ち目はなさそうだ。


「チーフ! 新郎新婦のモデル役だなんて、私そんな話一言も聞いてません!」
「もちろんよ、だってさっき日野さんから電話もらった時に思いついたんだもの。日野さんも、相手が月森くんだったらモデルになってくれるでしょう?」
「・・・うっ・・・そうです、けど。私たちがモデルになったら、ヴァイオリンが弾けないじゃないですか。そんなの嫌です」
「心配しないでね、ちゃんと二人がヴァイオリンを弾く時間もあるわよ。新たな旅立ちと幸せを願ってヴァイオリンを奏でた恋人同士が、今度は新郎新婦になってみんなに恋の音色を届けるの。ガーデンのデザートブッフェに負けない、甘くて優しい音楽のおもてなしをするの。どう?素敵でしょう?」


そういえば、以前にもどこかで同じような言葉を聞いたな。あれは香穂子が初めて俺の留学先を訪ねたクリスマスで、ヴィルヘルムの家のパーティーに呼ばれたときだった。パーティの最後に踊る新郎新婦の為にワルツを奏でる俺たちに、未来の新郎新婦である恋人達が、新郎新婦の為にワルツを奏でるのだと・・・そう言ったヴィルヘルムには驚かされたが。

悪びれもせずしれっと腰に両手を当てたまま、良いアイディアでしょうと嬉しそうに胸を張る黒いスーツの上司は、香穂子の言うとおりだな。警戒する俺たちへにっこり無邪気な笑みを浮かべるこの人は、企みとかそういう物を通り越して、本当に心身体の死んでいるのだろう、だから反論できないし、しまいには笑顔と自信に押され、いつの間にか同じ色に染まってゆくんだ。なるほど、香穂子が無邪気は無敵だと言っていたのは、そういう意味だったんだな。


俺と香穂子に無邪気な笑みを浮かべると、瞳の色を一瞬仕事のそれに変え、口元に当てたインカムで何かを囁き始める。耳を澄ますが、聞こえるようで聞こえないのがもどかしい。通信を終えて向き直ると、納得したようなそうでないような・・・複雑な表情を崩さず頬を膨らませたままの香穂子に困った微笑みを注ぎ、俺にふわりと笑みを向けた。


「あの、俺となら・・・と先ほど言っていたのは、どういう意味なんですか?」
「ウチのブライダルフェアで新郎新婦の役をするモデルはね、毎回従業員の中から選ぶのよ。日野さんに何度かお願いしたことがあるんだけど、心に決めた人がいるから例え演技でもモデルは嫌ですって。嘘が付けないからゲストに伝わってしまう、幸せなフリは出来ないってずっと断られていたの。日野さん真っ直ぐで一途だから、月森くんが羨ましいわ」
「香穂子・・・」
「やっ、もう〜チーフったら! どうして今日は私の恥ずかしいこと、全部蓮くんに喋っちゃうんですか? 意地悪なチーフは嫌いです」
「ふふっ、日野さんに褒められちゃった。素直じゃないんだから。だったら心に決めた月森くんとなら、良いわよね。あなたたちが感じた幸せを、みんなに届けられるでしょう? ヴァイオリンの音色みたいに」


身を屈めて香穂子と同じ高さで見つめる眼差しは慈しみ溢れ、窓から降り注ぐ日差しのように透明で温かい・・・そう思う。言葉の一つ一つがすっと耳に馴染み、彼女だけでなく俺の心の土へも染み込んでゆく。うっと言葉を呑み、唇を噛みしめていた香穂子の表情がゆるゆると解けると、ありがとう・・・そう柔らかに微笑んで身体を起こした。


来たわねと呟き肩越しに送られた視線を追って振り向くと、インカムで呼ばれたらしい数名のスタッフが、俺と香穂子を取り囲む。何が起きるのか分からない中で、腕を組みながら思案に暮れるチーフとスタッフたち。首にメジャーをかけて、手首にはピンの刺さった張り子を手首にはめる衣装スタッフ。そしてフローリストに、ポケットにピンを刺しているのはメイク係だろうか。

背筋に伝う汗と言葉に出来ないプレッシャーを感じるのは、上から下までじっと見つめられ、ひそひそと密談されているからだろうか。どうにも落ち着かなくて、いたたまれ無さに隠れてしまいたい。だが注がれる眼差しに邪気は無く、心の底にあるのはプロとしてのこだわりと温かさだと感じるから、嫌だとは言えなくなってしまう。本人達をさしおいて周りが盛り上がり、話が進んでいるのなら、もう拒否権はないのだろう。緑溢れるガーデンの片隅という小さなステージは、いつの間にか大きくなってしまったらしい。


「チーフ、日野さんはデコルテも背中も綺麗だから、思い切って背中を見せるデザインはどうかしら? 長いトレーンを着ければ、新郎のフロックーコートとバランスが合って栄えますよね。きっとゲストから感嘆の溜息が零れると思うんです」
「む〜ん、そうよね。花嫁の晴れの日は、やっぱり背中が主役よね。祭壇に向かってヴァージンロードを歩くときや、パーティーのキャンドルサービスとか、目に付く機会は多いし。でもヴァイオリンを弾くから、動きやすくて肩を出すドレスにしたいのよ〜迷うわ」


きゅっと腕を掴まれ隣を見ると、不安そうに瞳を揺らしながらも必死に冷静さを保ち、大丈夫だよと真っ直ぐ語りかける瞳。ここは大人しく諦めて腹を括るしか無さそうだなと、零れた苦笑を微笑みに変えよう。

俺たちも、楽しまないか? 俺がいる・・・心配いらない。離れないようにぴったり寄り添う香穂子に、込み上げる愛しさのままそう言って微笑めば、君の頬にほっと安らぐ桃色の花が咲いた。だがその日だまりは、突然降りかかった質問にかき消されてしまったけれども。


「ねぇ月森くんは、どんなドレスが日野さんに似合うと思う? ふわふわしたものとか、人魚みたいなものとか」
「いや・・・その、俺は。そうですね・・・彼女ならシンプルで、清楚なデザインが似合うと思いますが・・・」
「やっぱり二人の希望を聞くのが一番よね。あまりデザインにこだわらずに、シンプルなAラインがいいかしら」
「ちょっとチーフ、それに蓮くんも・・・あのっ! 私はこの青いドレスで充分です! ほらっ蓮くんが困っているじゃないですか。駄目です、私も恥ずかしいです・・・ウエディングドレスは、本物の結婚式までとっておきたいんです」
「乙女の願いは分かるけど、これもこのゲストハウスに勤める立派な音楽家のお仕事よ。音楽と自分たちの道を追い求め、夢を掴むあなたたち二人のヴァイオリンと姿は、みんなが追い求める希望とあこがれになると信じているわ。音楽で夢を届けるのも演奏家の大切な仕事でしょう? ウエディングドレスは二人のステージ衣装、そう思うのはどうかしら?」


強引だと拗ねながらも自分の中で少しずつ絡んだ糸をほぐし、納得したのか香穂子の表情に笑顔が戻ってきた。ブーケはピンク色のころころしたバラで可愛いブーケを作ってあげるから・・・そう告げられ、頑張ってみようかなとそわそわと落ち着き無く嬉しさを伝えている。どうやら香穂子の中で、いろいろとあこがれのビジョンがあるのだろう。一歩、また一歩と君に近づけたようで、心が甘く締め付けられるのを感じた。


「さぁ日野さん、納得したところで着替えましょうね。とびきりのおめかしして、まずは月森くんをびっくりさせなくちゃ」
「えっ、ちょっと・・・チーフ! 私、どこ連れて行かれるんですか?」
「隣のフィッティングルームよ。私は月森くんを変身させなくちゃいけないから、ここに残って楽しみに待っているわね。戻ったら日野さんのことも、びっくりさせてあげるわね。行ってらっしゃい」


行ってらっしゃいと、嬉しそうな笑顔で手を振り見送るのを合図に、驚きに目を見開いた香穂子がスタッフに両脇を固められてしまう。ほぼ強制的に連行・・・といって良い光景だが、一歩を踏み出しかけても止めることは出来ない。肩越しに振り返りながら蓮くん!と俺の名前を呼ぶ声に胸が痛むが、どんな晴れ姿で現れるのか楽しみなのも正直な気持ちだとは黙っていようか。


「待ちきれない気持も分かるけれど、人ごとだと思っていては駄目よ。さぁ月森くんも着替えましょう? 彼女が戻ってきたときは、きっとお互いに惚れ直しちゃうかも知れないわよね、くすぐったい二人が目に浮かぶわ。ドレスが似合うかどうか、嬉しさと不安で揺れているだろうから、温かく迎えてあげてね」
「・・・楽しんでますね」
「あら、もしかして怒ってるの?」
「いえ、怒ってはいません。予想外の出来事なので、驚いているだけです」
「勝手に進めてごめんなさいね。あなたたち以外に、私のアイディアを実現できる人はいないって思ったのは本当よ。ゲストや新郎新婦をを楽しませるには、まず私たちが楽しまなくちゃ」
「気持は伝わる・・・音楽と一緒ですね。奏で合う気持が重なり合えば、やがて大きな交響曲になる」


とはいえ可愛い部下の夢を叶えつつ、花嫁姿を早く見たかったというのもあるけどねと。香穂子たちが賑やかに去った、部屋の奥にある厚めのカーテンで仕切られたフィッティングルームへ語りかけると、今度は俺に同じ瞳が向けられる。隣だと気になるでしょう?と悪戯な光を灯し、衣装を持ちながら向かったのは、香穂子と反対側のフィッティングルーム。さぁ着替えましょうと、香穂子に告げた同じ光を灯して。


「このゲストハウスにはゲストもスタッフも、音楽を愛する人たちが多く集まるの。きっと温かくて素敵なステージになるはずよ。あぁでも、あなたたちが演奏するとなると、ワルツが踊れないわよね」
「ワルツ?」
「ヴァイオリンニストとして自分がワルツを演奏するのはどう? 二人が演奏したラストに、日野さんの夢を叶えてあげたいの。まだ本物の夢じゃないけれど、一人の時間を頑張れるように元気をあげたいのよ」


明るさの灯った空間は、こじんまりした更衣スペースを想像したが、絨毯が敷かれ大きな鏡が机のある大きな部屋と言っても良いだろう。確かにワルツを踊るが、俺たちが主役のモデルで役では踊るためのワルツは奏でられないな。久しぶりに思い出の曲を演奏をしようねと、香穂子も楽しみにしていたが・・・もちろん俺も。


壁のスイッチを押して照明が灯ると、ポンと手を叩き何かを閃いたと告げる嬉しそうな笑顔が、内緒話を伝えにやってくる。
ドイツやウイーンでは、結婚式のパーティーの最後で新郎新婦がワルツを踊るんでしょう?と、フィッティングルームのカーテンを開けながら肩越しに振り返りながら。

いつも彼女が演奏しながら願っていた心の二重奏が行き着く先は、いつかは自分たちも踊ること。部屋の明かりが灯ったと同時に、心へも小さなひらめきの明かりが灯る。君と同じステージで奏でたラストに贈る、彼女には内緒にして欲しいサプライズの気持は、どうやら同じだったらしい。