未来への鍵・13
窓枠のフレームが切り取る一枚の風景写真は、眩しいガーデンの緑と澄み渡る青空のコントラスト。大きく開く窓から吹き抜けた風になびくカーテンは、白いレースの両手で香穂子を守りながら、光を背負う彼女の元へと引き寄せてくれる。一歩二歩と近づき、手を伸ばせば抱き締められるくらいの近さで立ち止まると、喜びと緊張が混ざり合う心臓の音が耳から聞こえてきた。
自分の中から聞こえる高鳴る鼓動は、やがて一つから二つに増えて次第に寄り添い重なり合う。二人で奏で会うヴァイオリンの音色が一つに重なるように、見つめ合うもう一つの鼓動と重なり、大きな波長へと変わった。香穂子はいつも俺を喜ばそうとして、秘密の嬉しい贈り物をしてくれるが、手渡す前は君もこんな気持なのだろうか。落ち着かなければ・・・さぁ、透き通る風を胸一杯に吸い込もう。喜ぶ君の笑顔を脳裏に描けば、不安も緊張も大きな喜びと力に変わるから。
真摯に心のままを伝えよう。この胸にある溢れる感謝と愛しさを、音色に変えて君だけに。
これを受け取って欲しい、そう言って差し出したのは、ヴァイオリニスト月森蓮としてプロの道を歩み始めた証である、最初のCD。そして淡いピンク色の手作り表紙が目を引くもう一枚のディスクは、ヴィルヘルムたちが俺に内緒で作ってくれた、世界でたった一枚のCD・・・収録の合間に奏でていた、俺と香穂子だけの二重奏が収まったもの。
香穂子と出会った学内コンクールで互いに奏でた曲や、二人で心と音色を重ねたヴァイオリンの二重奏たち、そしてオーケストラとの協奏曲。最後には俺が香穂子を想いながら作った、君へ捧げる曲・・・音で綴られたラブソングを。心にある俺たちのアルバム写真を二人で眺めるように、ページを捲る先は過去から現在、まだ見ぬ未来へと続く。
完成度には自身があるし早く君に聞いて欲しいのに、一文字一文字大切に心込めて書いたラブレターを、直接君に手渡すようで照れ臭い。そう、これのアルバムに込められた曲たちは、言葉をヴァイオリンの音色に換えた恋文なんだと思う。
「香穂子、これを・・・受け取って欲しい」
「ありがとう、蓮くん。これってCDだよね、誰のCDなのかな〜。タイトルはEteruno・・・あれ?このジャケット映っているのは・・・え、もしかして蓮くんなの!?」
緊張した表情でCDを受け取った香穂子は、ジャケットの写真とタイトルを見ると驚きの声を上げて。はっと振り仰ぐ大きく見開いた瞳でじっと俺を見つめ、もう一度手の中にあるCDに視線を移すを繰り返している。やがて驚きが感嘆の吐息に代わり、薄桃色に染まる小さな春風は、俺の心も柔らかく解きほぐし、優しい日だまりに包んでくれた。
言葉にならない想いを真っ直ぐ伝え、喜びを表情いっぱいに表す煌めく瞳を、緩めた眼差しで受け止めた。答えの代わりに静かに頷き、微笑みで返事を返すと、ガーデンに咲き誇る秋咲きのバラにも負けない、可憐の花が頬に綻んだ。目の前にあるのは、内緒で取り組みながらずっと想い描いていた、手渡した瞬間に浮かぶ君の笑顔だった。
「夏にホールでの収録があっただろう?前に話していたCDが完成したんだ。発売前だからまだ世間には出回っていないが、香穂子には誰よりも最初に聞いて欲しかった。これだけは香穂子に直接手渡したかったんだ。冬にあるコンサートの打ち合わせもあったが、今回は何よりも、香穂子に会うために帰国した」
「ヴァイオリニストの月森蓮がCDを出すって、日本でも密かに話題になっていたんだよ。おめでとう蓮くん! 夢を掴んだんだね、嬉しい・・・言葉にならないくらい、凄く嬉しいの。いいの? このCD、私が最初にもらっても」
「あぁ、君に受け取って欲しい。やっとここまで来れた、といってもゴールではなく新たなスタートだが。ありがとうと、君に伝えたかった・・・そして誰よりも愛していると。俺の音色は君へと向かっている、これからもずっと」
「蓮くんありがとう・・・どうしよう、涙が溢れて止まらないよ。あのね、悲しい涙じゃないから心配しないでね。感動して嬉しくて、今までの出来事や想いがぐ〜っと込み上げて来ちゃって・・・その、上手く言えなくてごめんね」
くすんと鼻をすすり、涙で潤む瞳を数度瞬かせると、しなやかな指先で目尻の涙を拭おうとする。指先が目尻に触れる直前でその手を掴んだ俺を、不思議そうに見つめる香穂子に微笑むと吹き抜けていた風が止み、一瞬の静けさに包まれた。緩やかな波を描いていた白いレースのカーテンが、俺たちを隠すように窓を覆うと、そっと腰を攫い腕の中に抱き寄せて。目尻へ口づけた唇で吸い取る透明な滴は、どの花よりも甘い蜜。
頬を桃色に染めながらCDを胸に抱き締める香穂子の手を離すと、両腕でしっかりと身体を抱き締め直し・・・。潤んだ瞳で見つめる輝きに吸い込まれるように、唇へキスを重ねた。青いドレスの布越しに感じるのは、ずっと求めていた君の温もりと柔らかさ。体温が上がった証のように、ふわりと香る甘さごと感じていたくて、抱き締めた腕を手放すことが出来ない。
やっとここまで来た・・・離れた道が寄り添うまで、あともう少し。手渡したCDは、未来へ続く道の扉を開く鍵。
だがこれは終わりじゃない、寄り添った先から更に、今度は俺たち二人で歩む新たな道が始まるんだ。唇に感じる熱さで誓いを刻みながら、名残惜しげに唇が離れると、潤む瞳でほうっと零した吐息が窓の外で待つ風を呼ぶ。俺たちのキスが終わるのを待っていたかのように、再びレースのカーテンが緩やかな波を描き始めた。
「蓮くん、もう一枚のCDケースは、何が入っているの? ケース表にあるピンク色の表紙には、何も書いてないけれど・・・」
「これは香穂子が帰国する日に、収録中だった俺とホールで奏でた、ヴァイオリンの二重奏が収められているんだ。俺たちが演奏しているときにヴィルヘルムが手配して、こっそり録音してくれたらしい。ミキシングも済んでいるから、曲間やバランスも整えられられて、市販のCDと変わらない」
二枚のCDを並べて眺める香穂子は、ピンク色の紙が表紙になったCDケースを開けて、中のブックレットを取り出した。こっちなら開けても良いでしょう? と上目遣いに悪戯な瞳を向ける君に、仕方がないなと溜息をつきながらも、内心は喜んでいるのが嬉しくて仕方がないんだ。
くるりとドレスの裾を翻した香穂子が俺の隣に並ぶと、ぴったり肩先を寄り添わせ、一緒に見ようねと真ん中へ掲げ持ってくれる。俺はもう見たけれど、君と一緒に眺めるからこそ意味があるのだと思う。無地に見える淡いピンク色の紙は、ケースと同じ大きさで作られた手作りのブックレット。程良い厚めの上質な紙を使った表紙を開けば、中身は小さな冊子になっており、丁寧に描かれた装飾や飾り文字、曲名やその紹介まで、実に細かく作られていた。
音楽大学の学生組織の掲示物やポスターなどでも、人目を引くデザインで注目を集めていたセンスの良さは、絵の苦手な俺には羨ましいほどだ。恐らく俺が同じように香穂子へ贈ったら、実にシンプルなものしか出来上がらなかっただろう。
以前クリスマスに渡欧した香穂子の為に、手作りのアルバムを作ってくれた事があったな。笑顔を望む想いは人から人へと伝わり、大きく膨らむ・・・俺がCDと一緒にヴィルヘルムから受け取った想いは、俺の想いを乗せて香穂子へ贈られた。
香穂子が嬉しそうに頬を綻ばせる笑顔も、俺が瞳を緩ませる微笑みも、君は全てお見通しだったんだな。
「私が夏休みに渡欧したとき、蓮くんにサプライズの贈り物をしようってヴィルさんに誘われて、二重奏の曲をこっそり練習したでしょう? 同じステージに立てたときにはね、私の方が贈り物をもらった気持だった。でもまさか、もっと大きな贈り物がくるとは予想もしなかったの。もう〜蓮くんもヴィルさんたちも、私をびっくりさせるのが上手いんだから」
「手間をかけてくれたレーベルのスタッフには、礼を言わなくてはいけないな。手作りのブックレットと中身のCDラベルは、ヴィルヘルムの手作りだそうだ。ヴィルヘルムに手渡された中身を聞くまで、気付かなかった・・・実は俺も驚いたんだ」
「蓮くんのCDだけでも嬉しいのに、私たちの演奏まで形に残してくれたなんて、こんなに素敵な贈り物は無いって思うの。手から温もりを感じるのは、蓮くんやみんなの気持ちが詰まっているからなのかな。ありがとうのお礼は私たちがもっと音楽と恋を頑張って、幸せを大きく育てなくちゃ駄目だよね。そうだ!ねぇ蓮くん、このCD一緒に聞こう?」
生で直接聞く演奏の迫力には敵わないけれど、楽譜と同じく形に残れば、音色に込められた想いの言葉をいつでも胸に感じることが出来るよねと。微笑む香穂子は抱き締めた二枚のCDを、音色ごと閉じ込めるように胸へ押し当てていた。
俺のCDもパッケージを開けて中身を見たいとねだるけれど、それは・・・その。一緒に見たい気持はあるんだが照れ臭くて、家に帰ってから、そっと見てもらえると嬉しい。香穂子は俺のために書いたラブレターを、本人が直接目の前で声に出して読んだら、恥ずかしいだろう?
ラブレターと言った言葉は我に返ると照れ臭く、みるみるうちに自分の頬へ熱が募り、きゅっとCDを握り締めた香穂子も、恥ずかしそうに顔を赤く染めて俯いてしまう。窓から吹き込む風が火照りを冷ますと、どちらともなくはにかみ、くすぐったい沈黙は微笑みに変わった。
まだお互いに星奏学院に通っていた頃も、海を越えて離れた今も、俺に良いことが会ったとき、どんなに小さな事でも香穂子は一緒に喜んでくれたな。良かったね嬉しいねと、自分のことのように喜び笑顔を綻ばせる君は、昔も今も変わらず純粋で。喜びも悲しみも分かち合える人がいる幸せに、ようやく実感できた嬉しい気持が、胸の中で温かく膨らんでくる。
「形があるものや無い物まで、俺は君からたくさんの贈り物をもらっている。本当に大切なものたちは特別な日だけでなく、何気ない普段の日にこそあるのだと、君に教えてもらった。いつも幸せをもらってばかりだが、俺は君に何をあげられただろうか? 街で香穂子に似合いそうな小物や菓子、見せたい景色を写真や絵葉書にして贈ったりもしたが、遠く離れた場所からでは、会いたいと君が望んでも抱き締めることが出来なかった・・・」
「蓮くん、悲しそうな顔しないで? ね? 私だって蓮くんから、たくさんの贈り物をもらったんだよ。今だって私を抱き締めてくれるじゃない。蓮くんはいつも、私が何も言わなくても一番欲しいものをくれるんだよ。こんなに幸せでいいのかなって、涙腺を引き締めるのが大変んなんだからね。ヴァイオリンを頑張ることや音楽の楽しさ、蓮くんを大好きになってから他の人にも優しくなれたし、それからえっと・・・」
「ありがとう、香穂子。どんな時も信じて待っていてくれた、音楽の絆で結ばれた君に、今こそ大切な君へこの曲たちを贈ろう。待たせてしまったが、もうすぐ約束が果たせるだろう。プロのヴァイオリニストと君と、二つを手に入れてみせると君に誓った約束を。音楽の前では多くの言葉は不要だ、きっと聞けば伝わると信じている」
俺のCDに一曲だけ、香穂子との二重奏が使われていると伝えようと思ったが、喉元まで込み上げた言葉を飲み込み、思いとどまった。ソロで弾く小品やコンチェルトの他に、香穂子と思い出の深いヴァイオリン二重奏が数曲収められているが、その中にヴィルヘルムではなく君の音色があるのだと。
秘密の贈り物は最初だけではなく、二重三重にも驚きを仕掛けるのだと、CDを手渡してくれた彼も、悪戯が好きな学長先生もそう言っていた。贈る楽しみ、贈られた者が答えを探す楽しみ。もらった者が自分の力で見つける、最後のサプライズに込めた贈り物こそ、本当に伝えたい想いがあるからなのだと。だから今は、言わずに待っていよう。俺たちにとって大切な曲・・・愛の挨拶を聞けば、きっと彼女は気付いてくれると信じているから。
誰よりも君を愛している想いと、香穂子と同じステージに立ちたい願いを。
青空のガーデンという君のステージで俺が一緒に演奏出来るように、俺のコンサートでも最終日のアンコールで・・・。