未来への鍵・12
邸宅の二階にあるリビングルームは、普段は親族や一般ゲストの控え室になっているらしい。好きに使って良いと案内された部屋は、暖炉を中心にフレンチクラシックの調度でまとめられたサロンになっていて。クリーム色の優しい壁、そして天井にはダークオークに燻されたむき出しの梁が、寛ぎと癒しの雰囲気を醸し出していた。庭に面した大きな窓を覆うのは、紅茶に溶けるミルクのように光へ透け込む、柔らかな白いカーテン。小粋な私邸という親しみやすい館内に配置されている、ヨロッパから取り寄せたという家具たちは、留学先と代わらぬ落ち着いた空気で包んでくれている。
刺繍縫いが施された深い青色の長ソファーに座りながら、出された紅茶のカップに手を伸ばしかけたそのとき、ドアをノックする音が響き渡った。返事をすると開いたドアの隙間から、来ちゃったと嬉しそうに頬を綻ばせた香穂子が、ひょっこり顔を覗かせている。香穂子が現れただけで心や景色の色が変わる・・・心の中にいろいろな想いのカプセルが溢れてくるんだ。
挙式の祭壇前でヴァイオリンを奏でていたフォーマルな服装だったが、ガーデンパーティー用のブルーのドレスへ着替えが済んだようだな。装いを変えて現れた香穂子は裾を摘みながら小走りにやってくると、似合うかな?と少し照れ臭そうにはにかみ、くるりと一回してくれる。窓から差し込む光を受け止め、深みのあるブルーのサテン生地が少しずつ色を変えたようにも見えるのは、空や海と同じだな。デコルテが大きく開いた、ストラップ付のビスチェにAラインスカートのドレスは、シンプルだからこそ着る者の個性を光らせ、彼女をより美しく見せている・・・そう思えた。
ふわりと翻る裾がスローもションのようにゆっくり床へ舞い降りると、お待たせ!と元気に告げる眩しい笑顔。ドレスの裾を摘んで俺の隣へ腰を下ろすと、楽しげに揺れるソファーのスプリングが彼女の心を伝えてくれた。君が楽しいと俺も楽しくなる・・・音色を重ねるように伝わる振動が君を見つめる俺の心も震わせて、瞳も頬も柔らかな笑みへと代わんだ。
「次の出番までは少し時間があるから、蓮くんとお話しできるよね。ねぇ蓮くんお腹空いてない? 私ね、クッキーもらってきたの。ここのケーキや焼き菓子はとっても美味しいんだよ、甘いものが苦手な蓮くんでも大丈夫だと思うの。もし良ければ一緒に食べよう? ガーデンパーティー用のブッフェに出すお菓子なんだけど、ご挨拶に言ったらちょうど焼きたてだったから、もらっちゃった!」
「ありがとう、香穂子。ちょうど紅茶もあるし・・・では頂こうか」
挨拶に行くといつも試食をくれるから、焼きたての時間を狙ったのだと、悪戯な瞳を輝かせ小さな赤い舌をぺろりと覗かせた。手に持っていた紙ナプキンの包みを膝の上で広げると、中から漂う焼きたての温もりと、クッキーが奏でるバターの香りがに食欲をそそられる。しなやかな指先で一枚包むと、ハイどうぞと手を添えて身を乗り出し、俺の口元へ差し出してくれた。では頂こうか、君が手ずから食べさせてくれるのなら、とびきり甘く優しい味になるだろうから。
微笑みで答え頭を寄せる互いの距離が、吐息を絡めるほど近づきクッキーを唇に挟み込む。口の中でふわりと広がる素朴な味と、舌の上に残る温もりに、香穂子の笑顔が溶ける優しいハーモニー。美味しい?と神妙に訪ねる香穂子に、君の味がする返事をすれば、私が作ったんじゃないのにと不思議そうに首を傾るけれど。君が食べさせてくれると不思議な調味料が加わるから、君の味に代わってしまうんだ・・・君も食べてみればきっと分かると思う。
心のままを答えたら、見る間に真っ赤に頬を染めてしまった香穂子の口へ一枚運ぶと、見つめる瞳がぱっと輝き笑顔の花が綻んだ。
ささやかな触れ合いさえも嬉しくて、傍にいる事は当たり前のようでいて難しい、大切なことなんだと改めて感じる。もしもずっと変わることなく君と共に過ごしていたら、君がどれほど愛しいかという想いの大きさや、何気ない小さな幸せたちに気付かなかったかも知れない。
「蓮くん、急に演奏を頼んじゃってごめんね。お仕事の後で疲れているのに・・・。でも私、凄く嬉しいの。蓮くんのヴァイオリンが聞けるし、また一緒に合奏できるんだもの」
「香穂子が夏に俺の元へやってきた短いバカンスに、二人で合奏したのを思い出すな。君がホームステイをしていた学長先生の家や、帰国する直前に収録先のホールで奏でた曲など・・・。心に浮かぶ音色と共に、その時感じた想いや指先の感覚まで蘇るようだ」
「楽しかったな〜あの時がずっと続けばいいのにって想ってた。学長先生も奥様も元気かな?」
「・・・そうだ、想いだした。香穂子に渡したいものがあるんだ。帰国する時に空港まで送ってくれた学長先生から、香穂子に渡して欲しいと預かっていた。今、いいだろうか?」
「学長先生から私に!? ねっねっ蓮くん、何をくれるの?」
喜びに目を見開くと、座った俺の脚に手を添えて身を乗り出し、待ちきれない嬉しさで瞳を輝かせている。だがぐっと目の前に笑顔が迫るとその・・・少し困ってしまうんだが、じゃれつく子犬のような無邪気さは相変わらずだな。変わらない素直さと無邪気さ、そして脚に触れた温もりと柔らかさが甘く胸を締め付けるように心地良い。
君と奏でたその一部はCDにも収めたというのは、もう少しだけ秘密にしておこう・・・本物を直接手渡すまでは。学長先生は元気かなと呟き、懐かしそうに窓の向こうを見つめる香穂子に、託されていた物を思いだし鞄の中から取りだした。急遽予定が変わってしまったが、本当は今日の夕方から会う予定だったから、彼女に渡そうと朝からずっと持っていた、大切な預かり物たち。遠く離れた娘を想う学長先生や婦人から託された贈り物には、香穂子への気持が詰まっているだけに、この勤めを果たすのは責任重大だ。
「まずこれが手紙だ。学長先生からと奥様、それぞれから香穂子宛にメッセージが書かれている。そしてこの紙袋の中には、君が好きだった焼き菓子が入っているそうだ。俺たちが出発の朝に作ったそうだ、保存が利く物だからぜひ渡して欲しいと頼まれた。俺とヴィルヘルムにも持たせてくれたんだが、素朴で優しい味がするな」
「うわ〜嬉しい、奥様手作りのクーヘン! ドライフルーツや木の実が、たっぷり入っていて美味しいよね。保存が利くから、お客様をたくさん招くクリスマスにも欠かせないお菓子になるんだって。学長先生が入れてくれたカフェオレとこのケーキで、三人揃ってお茶するのが大好きだったの。ねぇ蓮くん、そのアルバムはなぁに?」
「最後はアルバムだ。この中には、学長先生が撮影した写真たちが収められているそうだ。香穂子が世話をしていた庭の花や散歩した街の景色、大きくなった犬のワルツも映っている。先日、運河沿いの公園で偶然に会ったが、もう君の鞄に入りきらないほど成長していた」
手渡した手紙と紙袋の焼き菓子一つ一つを抱き締める香穂子は、込められた想いを胸に閉じ込めるように、両手で宝物をしっかり抱き締めていた。閉じられた瞳が優しく緩み、微笑みを浮かべているから、心の中でありがとうと語りかけているのだろう。ほうっと感嘆の吐息を零すと、座った長ソファーの脇へ大切に置き、再び興味深そうにそうに俺の手元を覗き込んでくる。こら、そんなにじゃれて近付くと、唇が触れてしまうじゃないか。
まだあるの? それはなぁに?と大きな瞳を好奇心で煌めかす香穂子に、微笑みを向けながら手渡したのは、赤い革張りの表紙に黒台紙の厚めなアルバム。カメラのファインダー越しに切り取られた景色は、学長先生が香穂子の目線になって映した写真たちだ。先日、運河沿いの公園で偶然に会ったが、もう君の鞄には入りきらないくらい成長していたな。アルバムのページを開く香穂子の手元を一緒に眺めながらそう言うと、いいな〜と羨ましそうに拗ねながらも、写真を見つけて喜びの声が沸き上がる。
「蓮くんやヴィルさん、それにこの黒い犬はヴィルさん所のジーナまで映っているよ。あ!ワルツを見つけたよ! ふふっ・・・手を焼いていたやんちゃな子犬が、こんなに大きく元気になったんだね」
「香穂子を想いながら運河沿いの公園でヴァイオリンを奏でていたら、散歩をしていた学長先生を、音色を聞いた彼が俺の元まで導いてくれたそうだ。俺の音色に重なった香穂子の想いを感じ取ったのだろう、今でも変わらず君の事が大好きらしい」
「あれ? お庭の中にワルツが二匹並んでいるよ?」
「そういえば同じチワワの犬種で伴侶を得たと、学長先生が言っていた。市内にある同じ犬の施設から引き取ったらしい。俺も少しだけアルバムを見せてもらったが、彼らも学長先生夫妻も幸せそうだ」
今にも楽しい笑い声や音楽が聞こえ、元気良く動き出しそうな写真の中の光たちへ、慈しみに溢れた潤む眼差しが注がれていた。短い滞在だったにも関わらず、第二の我が家となった思い出の家が、いつでも帰っておいで・・・と香穂子を温かく迎えている。海を越えたその声が、彼女にも真っ直ぐ届くからこそ、熱く胸の内を震わせているのだろう。
赤く染めた目元を指先で拭うと、くすんと鼻をすすり、じっと見守る俺に精一杯の笑顔で応えてくれる。緩める眼差しで語りかければ、いそいそと座る距離を詰めて座り、温もりを伝え合うほどぴったり身体を寄り添わせて。並んだ二人分の脚の真ん中にアルバムを開き、頭を俺の肩先にもたれかけながら、1ページ1ページゆっくり開いてくれた。
この庭の花は何度言う名前だとか、庭の木戸や白いベンチは学長先生の手作りだとか、練習室や使ってい部屋の調度を見ては思い出話に花が咲く。練習室の外壁に咲く可憐な白い花や、まだ小さかった頃の子犬まで・・・写真を眺めながら懐かしそうに、愛おしそうに語られる思い出たち。
久しぶりに会えた夏休みなのに、互いに離れた家で暮らさなくてはいけない事に、少なからず最初は抵抗があったのは確かだ。俺が彼女を引き取りたいと、どんなに願っただろう。だがそれは、あくまでも目先の幸せを求めただけに過ぎなかったのだな・・・無駄ではなかったと、一緒に眺めるアルバムと君が教えてくれた。温かい光と音楽に包まれた家に香穂子が出会えて良かったと、心の底から思えるのは、感じた全て君の音色や未来への道標になったから。
知りたいと願っていた空白の時間・・・俺の知らなかった君を、たくさん知る事が出来る幸せに胸が熱く高鳴る。
共有して二人の心にあるアルバムに収め直せば、それは君だけでなく、俺たち二人の宝物に変わるんだ。
「私が帰国するってやっぱり分かるんだよね。荷造りの時からぴったり離れなくて、どんなに引き離しても手提げ鞄の中に一生懸命入ろうとしていたの。鞄に入れば一緒にお散歩行けるって知ってたから、私の鞄に潜っていれば日本まで連れて行ってくれるって、考えたのかな。またひとりぽっちで寂しがっていたらどうしようって、ずっと気がかりだった」
「香穂子?」
「そっか・・・お嫁さんかぁ、嬉しいな。私が帰ってからもワルツは頑張ったんだね・・・学長先生夫妻の厳しい躾や、寂しさを乗り越えて。私も負けないように番張らなくちゃ! 何かね、巣立つ息子を見守るお母さんの気持ちなの。今すぐ海を越えて会いに行きたいな。でね、ワルツのお嫁さん犬にもご挨拶して、二人ともギュッと抱き締めたいの」
「・・・俺と来るか、一緒に」
「えっ!?」
無意識に心のままを呟いてしまった言葉は、思い出に浸っていた香穂子の意識へ届かなかったらしく、きょとんと不思議そうに小首を傾げている。音楽や生活を学ぶことで、彼女の意識が以前よりもヨーロッパへ向いている・・・また行きたいと願ってくれる事が、何よりも俺の心を浮き立たせていた。押さえきれない気持のまま、つい言葉にしてしまったが、例え願う道の先が同じでもまだ・・・時期は早い。聞こえなかったからもう一度言ってとねだる香穂子に、何でもないんだと苦笑で覆い隠すしかなかった。
「その・・・青いドレスが良く似合う、そう言ったんだ。寒くはないのか?」
「本当!? 何だか違う言葉のような気もしたけど・・・でもありがとう。青色のドレスは、蓮くんが好きだって言ってくれたから選んでみたの。肩を出しているから寒く見えるけど、今は身体の中がとってもポカポカしているんだよ。きっと蓮くんに会えたのが嬉しくて、それにぴったりくっついているから、私の中が春になったのかも知れないね」
「今は秋だから小春日和だろうか、花も目を覚ますくらいに俺も温かい。だが今回はすぐに戻らなくてはいけないから、また寒さが戻るだろう。本当の春は・・・もう少し先だな」
「そうだよね。本当の春に大きな花を二人で咲かせるまで、たくさん頑張って栄養を蓄えなくちゃ。蓮くん知ってた? 冬は寒くて寂しい景色になるけれど、木の幹や雪の下はとっても温かいんだって。冬は芽吹きを待ちながら自分を育てる季節なんだよ。冬にどれだけその種が頑張ったで、芽吹きの強さや花の美しさが違うんだよ。ここの庭を手入れしている、ガーデナーのおばさんが教えてくれたの。お花の話を聞いたらね、私たちと同じだなって思ったの」
意志の灯る瞳で真っ直ぐ俺を見つめ、ふわりと頬を微笑むとソファーから立ち上がり、青いドレスの裾を揺らしながら窓辺に駆け寄った。大きな窓を覆う、白い光に溶け込むレースのカーテンを開けると、両開きの窓を押し開き風を招き入れた。ガーデンから吹き込むそよ風に、レースのカーテンは緩やかに大きくなびき、心地良さそうに受け止める香穂子を両手のように包み込む。
白い光を背負いながら肩越しに振り返る香穂子が、二階の部屋から見るガーデンの眺めは最高なのだと、俺を呼んでいる。立ち上がって窓辺に行けば、待ちきれずに駆け戻って俺の手を取り、早くと急かしながらエスコートをしてくれた。
焦らなくてもいいだろう? ゆっくりで。澄み渡る青空と緑と光が奏でるアンサンブルを、深呼吸で吸い込み身体で感じれば、透明に透き通る俺も、自然のアンサンブルに溶けてゆくのを感じる。これが、彼女の音色の源なんだな。
窓の外に広がるのは緑の絨毯と、鮮やかな花たちや、手入れの行き届いた秋咲きのバラ。あれを見て?と嬉しそうな香穂子が示す手の先には、俺たちが先ほどまでいた白いガーデンテントが見渡せる。その芝生の形に気付きあっと驚く俺に、とっておきの秘密を語るようにワクワクと瞳を輝かせてた。石畳に囲まれた芝生の絨毯は、上から見ると愛を描くハートの形をしていたからだった。
周囲に植えられた木はオリーブやレモン、グレープフルーツなどの果実が植えられ、実りの庭と呼ばれているそうだ。パヴィヨンで挙式が終わった新郎新婦が、ガーデンで愛を実らせる庭。地上にいては気付かなかったが、視点が変わると世界が大きく開ける。何気ない日常も音楽も、俺の扉を開いて世界を広げてくれたのは、いつも君だったな。俺も、君の扉を開ける存在でありたい・・・そう思う。
「でもね、春の初めに芽を出してもまだ寒い日が続くから、凍えないように耐えなくちゃ。土を破り芽を出してからも、咲こうとする花の努力は終わらない。お庭を眺める度にね、音楽は果てしなき道だって教えてくれた、蓮くんの言葉を思い出すの。蓮くんに追いつけるように、私もっと頑張らなくちゃ・・・私たちはどんな花が咲くのかな」
「音大で勉強した事を元手に更に勉強して、多くの経験を積まなくては、いいヴァイオリニストにはなれない。俺たち音楽家には、超えなくてはいけないハードルがたくさんある。そのハードルをどこまでクリアー出来るかは、自分との戦いだ。自分の力を信じる事が大切だと、俺は思う。それに花は一人では咲けないと、教えてくれたのは君だ」
「自分を、信じる・・・」
瞬きも忘れて俺をじっと振り仰ぐ香穂子の腰に手を回し、そっと腕の中に抱き寄せた。鼻先を埋めた髪から香る甘い花の香りが、風に乗ってガーデンから漂うものと同じなのは、きっと咲き誇るバラの移り香なのだろう。ヨーロッパの教会は花の香りが清らかな花嫁を守ると言われているように、花の香りが香穂子を守っているんだな。音楽を愛し、自然を愛しむ彼女の音色に応えるように。俺が傍にいてやれない間は、どうか清らかな彼女を守って欲しい・・・。
しなやかな髪に口付けながら心に強く念じれば、一際強く吹き抜けた香りと風がカーテンを大きく靡かせた。
どんな才能があっても、磨き続けなくてはその人が輝くことはない。音大を出る頃は優秀でも、長い年月が経つうちに埋もれる音楽家は多くいる。その逆に卒業時にはぱっとしなかったが、地道な努力で一流の音楽家になる人もいる。以前レッスンを受けたとき、学長先生は自分は後者だと仰っていた。
音楽界では遅いデビューだったが、誰よりも長く残ったぞと朗らかに笑っていらしたが、想像を超える長い努力の日々だったことだろう。コツコツと努力を重ねて自分の音楽を大切に育て、ファンを世界中に増やし、大きなホールを満席にする熟成した音色と豊かな音楽性は、技巧や若さだけでは決して奏でることの出来ない音色だ。だからこそ、誰もが引き込まれる魅力を持っている。長い年月をかけて高みを目指し続け、自分の音楽を奏で続けることこそ、本当に偉大な存在だと俺は思う。
追い求めたい俺の音楽・・・俺の音楽の中には、香穂子がいる。
時に孤独で寒さが襲うこともあるが、香穂子とならば俺は、どこまでも音楽の高みを求め続ける事が出来る。
離れた道が寄り添うまであと少し・・・やっとここまで辿り着いた証と、先にある道を共に進むための誓いまで。
花が咲くには光や水が必要なように、俺にはどんな時も信じて支えてくれた香穂子がいた。
自分を信じろと、今さっき香穂子へ言ったばかりじゃないか。自分と大切な君を信じよう、奏でる音色の先にある光を。
「香穂子、君にも渡したいものがあるんだ」
「学長先生や奥様だけじゃなくて、蓮くんからもプレゼントがあるの? どうしよう、今日はお誕生日みたいだね」
なぁに?何をくれるの?と、嬉しそうに頬を綻ばせる香穂子に、少し待っていてくれと耳元に吐息で残し、頬に軽く触れるだけのキスを残す。身体を離し足早にソファーへ戻ると、鞄の中から取り出したのは2枚のCD。
喜んでくれるだろうか、手に取ってくれるだろうか・・・ずっと想い描いていた笑顔を、閉じた瞼の裏に描きながら、深く静かに深呼吸をした。
緊張でアレグロに走り出す鼓動を、落ち着かせるようにゆっくり歩きながら、窓辺に立つ光・・・香穂子の前に再び立ち向かい合った。いつになく緊張している俺を感じ取ったのか、窓を背にして向かい合う香穂子も、姿勢を正し神妙な面持ちで構えている。香穂子まで緊張させるつもりはなかったが、不器用さゆえにどう場を和ませて良いか分からないのがもどかしい。
今は真摯に、心のままを伝えよう・・・感謝と愛を。
これをとそう言って香穂子へ差し出したのは、ヴァイオリニスト月森蓮としてのデビューCD。そしてもう一枚は、ヴィルヘルムやプロデユーサーのビンチックさんたちが作ってくれた、世界でたった一枚のCDだった。